第25話




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7月2日。


朱音は絶対に残業をしないという強い信念を持っていたのに、こういう日に限ってトラブルという物は発生して、定時より一時間以上遅れて会社を出るとLINEで冬真に謝罪と今会社を出たことを送れば、すぐに、わかりました気をつけて帰ってきて下さいとだけ返信が来ただけで特にお迎えは無いらしい。


あの一件後、朱音は冬真に帰る連絡をすることが苦では無くなった。


かなり遅くならなければ迎えに来ることも無く、連絡を忘れても冬真から連絡が来ることも無いので、少しそこは寂しく思うとこではあるのだが。


冬真も健人も仕事の調整をして今夜一緒に過ごすということで、昨夜は珍しくアレクから何か食べたいものが無いのか朱音は聞かれたのだが、『アレクが作る物は全て美味しいから何でも良いです』と素直に答えたところ、漆黒の目が丸くなった後眉間に皺を寄せて、わかりました、と去って行った。


健人がそれを見て『朱音は女慣れしてない男を天然で殺していくタイプ』と言えば、冬真は『それでストーカーに遭いそうですし、悪い男に簡単について行きやすいのも心配』と言って二人でうなずき合っているのを、とりあえず褒めてはもらえていないことを理解して朱音は複雑そうな顔をした。


ずっと今夜を楽しみにしていた朱音は顔がにやつきそうになりながら既に慣れたように洋館のドアを開ければ、なんとも食欲をそそる良い香りがロビーに充満していて、反射的によだれが溢れそうになっているとキッチンのドアから健人が出てきた。



「お帰り。食事はお前の準備が整えばスタートにするから、用意できたらまずはリビングに来いよ」



「ただいまです!はい!すぐ着替えてきます!」



笑顔の朱音は急ぎ足で部屋に入り、それを見て健人は笑みを浮かべてキッチンに戻った。



朱音が急いで着替えてリビングのドアを開ければ、入ってくるのがわかっていたようにソファー近くから冬真が笑みを浮かべ近づいてくる。


家の中なら上はシャツだけの時が多いのに、今日はカジュアルな明るい青のシャツに紺のジャケット、明るめの茶のパンツ姿。


イギリス貴族のご子息がプライベートでおでかけ、という感じがする。


そんな姿を見て、念のためワンピースに着替えておいて良かったと朱音は心の中で自分の選択を褒めた。


冬真は朱音の前に来ると穏やかに微笑み、朱音の胸が異様に高鳴りだして戸惑ってしまう。



「お手をどうぞ、お姫様」



手のひらを上にした状態で前に出され、朱音は条件反射でその上に右手を乗せてしまい慌てて手を引っ込めようとしたら、きゅっと大きな手が逃さないように力を入れた。



「この僕から逃げようなどとは、もう二度とお考えにならないことです」



朱音の前に顔を出すようにして冬真がにこりと笑う。もちろん手は掴んだまま。


ここはもしかしてイギリスで何か夢でも見ているのだろうか、あれだ、いわゆる転生もの的な。


目の前の麗しい人が綺麗なグレーの瞳で見つめてきて、お姫様、なんて呼んでくれば現実なのかと疑ったって仕方が無い。


そうまるであの時の王子様が目の前に・・・・・・。


朱音は冬真を見たまま今駆け抜けた感覚に困惑した。


もうおぼろげになりそうな彼の顔や姿を必死につなぎ止めているが、何故か冬真とあのロンドンでの王子様が重なって見える。


髪の色も、目の色も違うというのに。


いや、目の色は一度青くなったのを見たことがある。


でも普通目の色が変わるなんて事は無い。


朱音は彼のことが忘れられず、冬真と無意識に重ねてしまっているのか自分自身でもわからなくなるが、ついその疑問を口にしてしまった。



「冬真さんってロンドンに行ったことってありますか?」



唐突に聞いてきた朱音の顔も声も怖々聞いているのがよくわかる。



「もちろん。ロンドンに住んでいたこともありますから。


さて、皆が待っていますよ、お姫様」



笑顔で冬真はそういうと、戸惑ったように冬真を見上げている朱音の手を引く。


考えてみれば、あの王子様は冬真さんの親戚である可能性だってあるのに、何故冬真さんと重なってしまうのだろう。


ダイニングに入れば、健人が待ちくたびれたと笑って出迎え、椅子を引いてくれた冬真に礼を言いながら、朱音は心に浮かんできた疑問をなかなか消し去ることが出来なかった。



冬真が椅子を引き朱音が席に座れば六人掛けの広々としたテーブルに、朱音の目の前に冬真、その横に健人が座り、テーブルの上を見れば目の前の大きなお皿にピンク色の綺麗に折りたたまれたナプキン、両端には磨かれた銀製のスプーンやフォークなどが並ぶと共に箸も置いてある。


まるでフレンチでもスタートしそうだと思ったら、



「一皿目はどうぞ手でお召し上がり下さい」



ナプキンを取るとアレクはその皿は下げて、コトリと置いた大きな皿の中には小さな料理が乗っていた。


一口サイズのパイ生地の上には生サーモンのスライスとホイップしたようなもの、そしてキャビアが乗っている。



「このホイップ、何?」



「クリームチーズをベースにしたものです」



「お、ほんとだ美味い」



健人の質問に特に表情も無くアレクが答えれば、大きな口を開けて一口で食べてしまった。


その美味しそうにしている顔を見て、朱音も一口でそれを食べる。


サクサクとしたパイ生地にふんわりとしたホイップ、ちょっとしょっぱいキャビアなどが絡みたまらない。



「凄く美味しい!


まさかパイ生地から作ってないよね?」



「作りました」



既に空いた皿を片付けていたアレクが無表情なまま事もなげに言うので朱音は驚いてしまう。


朱音もアップルパイを作ったことがあるが、パイ生地は冷凍品を使用していたし、パイ生地から作るなんて大抵プロくらいなものだ。



「アレクって凄いよね、何でも出来るし。


お嫁さんに来て欲しい」



しみじみ朱音がそういうと、前からぶはっ!という健人の笑い声と、冬真が横を向いて笑いをこらえていて、朱音の皿を片付けようとしたアレクの眉間に皺が寄った。



「ねぇ、私も手伝うからアレクも一緒に食べようよ」



「・・・・・・今日の主役が手伝っては本末転倒です」



そう言ってスタスタとキッチンに行ってしまった。



「アレクとしては朱音さんに喜んでもらうため色々頑張っていたんですよ。


せめてケーキを食べるときは一緒に食べましょう」



「これがアレクからのプレゼントなんだから、朱音はまず受け取ることに専念すりゃいーの」



寂しそうにした朱音に、冬真と健人がフォローする。


朱音は次に来たカラフルなムースが目の前に出されると、



「ありがとう、後で一緒に食べてね」



アレクはちらりと朱音を見て、はい、と答え冬真達の方へ料理を出していると、健人がニヤニヤと何か小声で言ってアレクに睨まれていた。



どの料理も見た目も素敵で美味しく、朱音はこんなに美味しいフレンチを食べるのは初めてでスマートフォンを持ってきて写真を撮れば良かったと心から後悔した。


目の前の朱音が驚いた顔をしてこちらを見ているのに気が付いた冬真が、朱音に声をかける。



「どうしました?」



「箸を使ってるので驚いて。


フレンチなんて絶対ナイフとフォークしか使わないと思ってました」



「僕はハーフですし、それなりに日本にも住んでいるので箸の素晴らしさを理解しています。


考えてみて下さい、沢山のフォークやナイフ、テーブルの場所も取れば洗い物も増える。


箸は万能ですよ、これで大抵のことは事足りる。


フレンチだから箸は駄目だなんてナンセンスです」



真顔で力説した冬真に朱音が驚いていたが、思わずぶふっ、と声が出て慌てるように口を覆う。



「テーブルマナーは大切ではありますが、この方法じゃなければ駄目だ、なんて考えを持つ人を僕は賛成しませんね。


人を不快にしない、食べるものに失礼じゃなければフレンチも箸で問題ありません」



「ステーキ出てきたら箸は食いにくいんじゃね?」



「客が箸を使っていたのなら普通切って出しますよ。


そういう気遣いの出来ない店など、二度と行かなければ良いんです」



健人の突っ込みに、さも当然のように冬真が返すので朱音はぽかんとする。


冬真はいつも上品でイギリス紳士というイメージがあるので、朱音は冬真の前で食事をするときは気をつけるようにしていたが、まさかそんな風に柔軟に考えているとは思わなかった。


そしてなにげに厳しいところは冬真らしいが。


知らない面がまだ沢山あると、朱音は未だに箸は万能と褒める冬真を見ながら不思議と嬉しい気持ちになっていた。


食事が進んで、テーブルの上がほとんど片付けられたのを見て、これからケーキかと思うと何故か朱音が緊張している。


パッとダイニングが暗くなり、キッチンからカラフルなキャンドルが所々に灯り、真っ赤なイチゴがふんだんに乗った誕生日ケーキ定番とも思えるショートケーキをアレクが運んできた。


テーブルの上へ慎重にケーキの乗った皿が置かれると、



「さすがに歌は勘弁として」



その健人の言葉に合わせるように、冬真と健人が笑顔で誕生日おめでとうと朱音に言えば、朱音は三人を見てぎゅっと胸が一杯になって、今もの凄く自分は変な顔をしていそうで暗くて良かったと思った。



「朱音さん、火を吹き消して下さい」



冬真に声をかけられ朱音が慌てるように大きく息を吸い込んだ後キャンドルの火を吹き消せば、二人が拍手をしてアレクが部屋の電気をつける。



「ありがとうございますっ!」



友人達にも毎年祝ってはもらっていてそれもとても嬉しいのだが、こんなにも温かな誕生日はそれこそ自分が子供の頃以来では無いだろうか。


気が付けば家族はすれ違い、母親の死後、父親から誕生日を祝ってもらうことは無かった。


母親が手作りしてくれたケーキを母と二人だけで食べた記憶が蘇り、朱音の視界がぼんやりしそうになる。


すぐ近くにアレクが来てケーキを切り分けだし、平たい大きな皿の真ん中に切り分けたケーキをのせると、チョコレートのペンを出しすらすらと皿の縁に書き出す。



「俺もやりたかった」



健人が前のめりでそれ見ていると、アレクが無言で皿とペンを差し出せば、健人が意気揚々と何かを描きだした。



「最後お前ね」



うっと珍しく冬真が戸惑うと、覚悟を決めたようにペンを受け取る。


上手く進まないのか、あっ、とか、あれ?とか言いながら真剣に向かい合い、最後心底申し訳なさそうにケーキの乗った皿を朱音に差し出した。


横では健人が、お前に不器用な物なんてあったんだなぁと冷やかしている。



「すみません、下手で」



冬真が差し出した皿には、Happy Birthday朱音の他に、ケーキを飾るように薔薇が沢山描かれ、隅の方に、おめでとうございます、と文字が途切れ途切れで波打ったように描かれている。


すぐに誰が何を描いたかわかって、その一つ一つが愛おしい。


さすがに朱音は我慢できなくなって、



「すみません、スマホ持ってきます!」



と言って急いで部屋に戻ると、すみません!と言いつつ戻ってきた朱音が、



「写真撮らせて下さい!これだけは絶対残したいんです!」



そう言って必死に写真を撮りだし、健人は笑い、冬真も優しく見守った。



やっとアレクも座って一緒にケーキを堪能し、アレクが紅茶を準備し始めると健人が、



「さて、どちらが先に渡すか・・・・・・」



そう言いながら健人と冬真が向き合い、



「最初はぐー!じゃんけんぽん!」



と真剣な顔で突然じゃんけんを始め、朱音はぽかんと目の前の男二人の勝負を見ていた。


勝負はパーを出した健人が開いた手を悔しそうに掴んでうなり、チョキを出した冬真が不敵に笑っている。



「僕は後攻で」



「くそう、俺だって後攻が良かったが、まぁしゃーねぇ」



ごそごそと隣の椅子に置いていた大きな紙袋から出した物を、朱音に差し出した。

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