第24話



しばらくして落ち着いてきたのか顔を上げようとした朱音に冬真がハンカチを差し出すと、頷いてそれを受け取り顔に当てる。



「あと、で、洗って帰し、ます」



泣いてまだ呼吸が苦しいのか、途切れ途切れになりながらそんなことを言うと、



「あの」



身体を起こし座り直した朱音はそう声を出し、また俯いた。



「私の母が亡くなったことは、お話ししましたよね」



「えぇ、高校生の時ご病気でと」



「違うんです」



朱音は俯いたままで、冬真は何も答えずに疲れ切ったようにも見える朱音の横顔を見つめる。



「母がなくなった本当の理由は過労死です。


父が、その、私が中学の時リストラにあってなんとか転職したんですが給料が凄く減ったそうで、母はパートに出ました。


でもすぐに転職した会社も辞めてしまって、一時期は母のパート収入だけに頼ることもありました。


私は高校の進学も諦めようかと思いましたが、母が大学まで女の子でも行きなさいと。


自分が行きたくても行けず結局高卒だったのはその後とても苦労したからって言って後押しをしてくれ、私は公立の高校に進学しました。


父もまた再就職したとは言え給与はやはり厳しい額だったようで、私の高校はバイトが出来なかったので家事を私が担当して、母もパートを掛け持ちしている日々が続きそろそろ私が三年生になるときのことでした」



朱音は手に持っていたハンカチを強く握る。



「母が仕事先で倒れ、そのまま運ばれた病院で亡くなりました。


医師からは死因は心筋梗塞だが、あれだけの仕事をしていればその前に前兆があったはずだがと聞かれて、母は風邪気味だったとかそんな話しを私がしても父は一切口を開きませんでした。


無理も無いんです、ずっと私と母には顔もまともに会わさず会話もしていませんでしたから。


母の葬式でも周囲は母が必死に働いていたことを知っているので、何か言われるのが嫌だったのか最低限顔を出した後、父は家に籠もってしまいました。


母の死から父はおかしくなったと思います。


私に高校卒業までは待ってやるから卒業したらすぐに結婚しろと言ってきました。


お前の面倒なんて見たくない、と言っていましたが、母と声がよく似ている私とは一緒に居たくないのだとその頃は思っていました。


父が集めてきた見合いは、相手の顔も性格も二の次。


優先されるのは有名企業や収入でした。


そこで気が付いたんです、父は私に母と同じ苦労を味合わせたくは無いのかもしれない、と」



まるでタイミングを見計らったかのようにアレクが珍しく氷の入ってないロンググラスに入った冷茶を朱音の前に置き、思わず朱音が顔を上げてアレクを見ればその漆黒の瞳と目はいつもより優しく思え、小さな声でありがとうと言うとアレクは会釈をして部屋を出て行った。


朱音は目の前の飲みやすい温度の冷茶をぐっと飲めば、静かな優しさが伝わってくるようだ。


冬真は少し表情が落ち着いた朱音を確認して自分用の氷の入った冷茶に口をつける。



「父は私が大学に進学するのを反対しました。


ですが母と進学を約束していたし、せめて短大は行きたいと言いましたがなかなか許してもらえず、奨学金で行くこと短大を卒業したら見合いをすることを条件に逃げるように父を一人置いて実家を出ました。


短大に通っているときの仕送りはもらったのですが社会人になれば返せと言われていたので、今しているのは父への仕送りと言うより無利子で借りたお金を単に返しているだけです。


父が、自分の給料が高ければ、ずっと最初の会社に勤めていれば、母を勤めに出さず過労死させることも無かったと責めているのかもしれないと思うと、見合いの話しが来ても最初からは断る勇気なんて無くて。


だから冬真さんの話を聞いて、正直どうしていいのかわからないんです。


こうやって贅沢なほどしてもらっていて、たったそれだけのことを嫌になってた自分が情けないし、私がいて冬真さんは辛い過去を思い出し苦しい気持ちでいるのかと思うとその・・・・・・」



朱音が夜一人で帰ることを許そうとしないのには何か理由があるとは思っていた。


だがこんな話を聞いて冷静になって考えれば、自分はしてもらっていることばかり。


父親の束縛は朱音のその後の人生を朱音の意思に関係なく決定してしまうことだが、冬真の行為はあくまで一人で帰ってこないで欲しいと言うだけで、何時に帰宅しろというものではない。


小さく感じていた違和感が、今日同僚に指摘されたことで不満に思っていたことに気が付き、冬真が迎えに来たことで一気に父親からされている行為に結びつけてしまった。


朱音は話しながら自分がどう思っていたのかを初めて気が付いた気がして、どんどん自己嫌悪に陥っていく。



「朱音さんは優しすぎて心配になります」



おずおずと朱音が顔を上げて冬真を見ると、何故か困っているようだった。



「ここはきちんと怒って良いんです。


部屋を貸したのも、食事をきちんと取らせるのも、帰り一人で帰ってこないようにさせているのも全て僕の我が侭なんですから」



どこが我が侭なのだろう。


朱音に取ってみれば冬真は救世主に近いのに。



「いえ、私の方が我が侭になって」



「僕は」



朱音が冬真に向きながら必死に言おうとしたのを冬真が止める。



「僕は、ただ自分が後悔したくないために自分の我が侭に朱音さんを巻き込んでしまっただけです。


健康のために食事はきちんと取って欲しいですが、お友達との付き合いもあるでしょうし無理する必要はありません。


それと帰りの連絡も無しにしましょう。


朱音さんも彼氏の家に泊まりたいときがあるかもしれないですし、いちいち僕に連絡するのも恥ずかしいでしょうから。


帰るときには注意して帰ってきてくれればそれで構いません」



ゆっくりと冬真が話すその内容が、今度は急に不安を与える。


唐突に自由にしていい、となると喜ぶべきなのかもしれないが、帰宅の件は冬真の個人的な後悔があるからにせよ、冬真は自分の我が侭などと言っても結局は全て朱音のことを思ってだ。


自由を奪う檻だと思っていた物が、実は自分を守るために作られた物だと知ってその檻が外れたら、自由のために踏み出すよりも怖さや申し訳なさが襲ってきて、冬真から突き放されてしまった、呆れられてしまったのではないだろうかと思えてしまう。


朱音が思わず不安げに冬真を見れば、冬真は申し訳ないのか視線を外した。


とっさに冬真の上着の袖を引っ張ってしまい冬真が朱音を見れば、朱音は慌てて引っ張った手を引っ込め、再度俯いた。



「あ、あの」



「はい」



「私、あんな素敵で広い部屋に住めて幸せですし、美味しいご飯が食べられるのは凄く嬉しいですし、心配して迎えに来てくれるのは、そのありがたいことだとわかってます」



「気にしなくて良いんです、全て僕の我が侭ですから」



「そんなことないです!


だから、迎えに来てもらうのは申し訳ない気持ちが大きいので凄く遅い時間にはタクシーで帰ること、あと、えっと、帰る時間は出来るだけ連絡します。


急な残業で連絡遅れたりすることもありますけど、出来るだけ」



「嫌な気分になったでしょう?無理しなくて良いんですよ?」



「確約は、自信が無いんですが、心配かけないようにはしたいので・・・・・・」



そう言ってやっと顔を上げると冬真の目をしっかりと見る。



「それでも、良いでしょうか」



最初は怒って、不満で一杯だったはずなのに、ずっと優しく自分を守ってきてくれた人に自分はなんて事を言ってしまったのか、今の朱音の心は不安で一杯になっている。


冬真は、不安そうな顔をしている朱音を落ち着かせるようにふっと優しい笑みを浮かべ、



「わかりました。朱音さんがそう言うのでしたらそうしましょう。


タクシーが来ないときもありますし、そういう時は遠慮せずに連絡を下さい。


運動がてら迎えに行きますから」



そう言うと、朱音はそれを聞いて緊張していた糸が切れるようにぐったりとして息を吐いた。



「大丈夫ですか?」



「はい、私、ご迷惑をかけて」



ぐー、と思い切りおなかの鳴る音が静かなリビングに響き渡る。


飲み会ではほとんど食べることも無くウーロン茶だけ飲んでいてお腹がいっぱいだと思っていたが、気が抜けたせいか突然空腹感が襲ってきた。


朱音の顔がみるみる赤くなり、冬真はそんな朱音を見てくすっと笑う。



「口を開けて」



朱音がわからず口を開けた途端放り込まれた何かを思わず咀嚼すれば、チョコレートの甘い味が口に広がりとてもほっとする。



「何かアレクに軽食を用意してもらいましょう。


僕も小腹が空いてしまって」



くすくすと笑うチョコレートを放り込んだ張本人が優しく言うと、朱音は恥ずかしさと怒りたい気分が混ざったような複雑そうな表情をした。



「そうそう、7月2日の夜は空いてますか?」



「え?あ、はい」



朱音が部屋に戻るためにリビングを出ようとしたとき冬真が声をかけ、朱音は不思議そうに振り返り返事をした。



「その日、朱音さんの誕生日でしょう?


考えてみればウェルカムパーティーもしていませんでしたし、健人も参加するのでここでみんなで夕食にしませんか?


もちろんケーキも用意しますよ」



「良いんですか?!」



「彼氏とご一緒じゃ無ければ是非僕たちと」



「いないって知ってて言うの、酷いです」



「もし当日までに出来た場合はこちらをキャンセルして構いませんからね」



「しませんっ!っていうかありえないです!」



むっとしたように言っているが朱音は嬉しそうで、部屋に戻ります!と言ってリビングを出て行った。





「朱音さん、部屋に戻りましたよ」



そう言って氷が小さくなった冷茶を飲んでいると、冬真の後ろ側にあるダイニングへのドアが開き、そこに健人が腕を組んでもたれかかった。



「何ですか?ずっとそこから怖い視線送っていましたが」



「随分上手く誘導したな。


あいつはお前を余計に優しい人間だと誤解してしまっただろうが」



健人はかなり早い段階でダイニングの扉を少し開け、ずっと話を聞いていた。


二人の座るソファーからはダイニングへのドアは後ろになるため見えないが、冬真はずっと健人が聞いていることにもちろん気が付いていた。



「何のことですか?」



「とぼけんな。


『彼女』の亡くなったことを話した上で、お前を守るためだった、でももうやらないなんて言われたら、突き放されたようで普通でも不安になる。


朱音が父親の勝手な命令すら逃げられない性格なのはわかってるだろ。


お前の魔術は相手に『誓約』とやらをさせて拘束するんだよな。


あいつはお前に誘導されて自らお前と『誓約』させられたようなものだ。


自由にするとみせかけて、以前よりむしろあいつは縛られたんだぞ、知らないうちに」



健人の声は苛立っていた。


冬真の後悔はわかっているし、自分自身だって朱音が心配だからこそ送迎などもやっていたが、本来は自由にさせておくべきだと思っていた。


それをこんな風に逃げられないようにするとは。


他人からさせられることと、自分から言ってやることでは責任の重さが違う。


朱音は自分からあのように冬真に約束した以上、破らないよう以前より気を遣い、頑張るだろう。



「朱音さんはもっと早くこんな身勝手な僕を嫌うか、うんざりして家を出て行くのではと思ってたんですけどね」



「嘘つくんじゃねぇよ」



「本当です」



一切振り返らない冬真の表情はわからないが、特に動揺しているようには思えない。



「お前は、あいつを逃がしたいのか?それともここに置いておきたいのか?」



「・・・・・・わからないんですよ」



「なに?」



冬真の声が急に小さくなって、思わず健人は聞き返した。



「わからないんです。


僕自身、どうしたいのかが」



そういうと立ち上がり、部屋に一旦戻ります、と言うと健人の方を一度も見ずにリビングを出て行った。


あんなにも弱気にすら思えそうな冬真の声を聞いたことの無かった健人は困惑した。


いつだって自信を持って、それこそいわゆる魔術師らしくしたたかに動く男だと健人は認識している。


だがさっきの冬真はあまりに違和感が大きい。



『俺を騙そうとしているのか?


『彼女』と絡んでいるからあいつ自身も決断できないのか、それとも、朱音だからなのか?』



健人は口元に手を当て考えていたがこれから賑やかになるだろうダイニングに少しだけ視線を向けた後、静かにその場を後にした。




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