第2話 インク

「はぁ……、国王になってしまった。」


 大きな王宮の中、執務室の中で頭を抱えながらうなだれている少年がいる。名はレイフォース・アインガルド、アインガルド王国の国王だ。


「陛下、いつまでたってもそんな調子ではいけませんよ。」


「だってぇ~!」


「だってじゃありません!ほら、お仕事たんまりあるんですから!」


 そういってきらびやかなティーカップに入れた紅茶を机の上に乗せたのはフィレノア、レイフォースが王太子の時に進めた孤児の境遇改善のための政策、それの一環として雇われた獣族のメイドが彼女だ。


「フィー、ありがとう。」


 そういっていきなり飲んでもやけどしない程度の適度な温度で入れられた紅茶をゆっくり口の中へ流し込むと、フィレノアは狐のような耳をピコピコ嬉しそうに動かし、再び入口の方へと戻っていった。


 机の上に並べられた書類がふた山、別に何日か溜めていたからこうなったわけではない。


 これは一日分である。


「ひーッ!こんなに……」


 アインガルド王国は大陸の半分を支配する大国だ。それ故に国王へ回ってくる書類の量は膨大なのである。


 南の端から北の端まで、国内であるにもかかわらず移動するのは困難を極める。


 そんなところから集まってくる書類たち、そのすべてを処理するのが国王の仕事だ。


 それだけではない。


 領内を見回り、国が良くなるために政策を進める。会議だってしないといけないし、何か行事があったら参列しないといけないし。


 とにかく忙しいのである。


「あ~~ッ!!だから僕は嫌だったのに~ッ!!!」


「はぁ、それは何度も聞きましたから、早く手を動かしてください。」


「は~い……。」


 いくら後回しにしても結局それによって痛い目を見るのは自分だ。


 仕方なく1つ1つにサインを始めた。







ガタッ!


 作業を始めてから1時間ほどが経過したであろうという頃、紙をめくる音と文字を書く音の2種類しか存在しなかったこの執務室の中で、明らかに異様な音が響いた。


「ぎゃぁぁぁぁああああ!!!!!」


「へ、陛下!?」


「い、インクが……。んぐぐぐぐッ!ぬぐぁぁぁああッ!」


 真っ黒なインクの入ったボトルの倒れる音、それに続くように聞こえるレイフォースの断末魔と、声にならないような苛立ち。


 急いで雑巾を取ってくるフィレノアであったが、彼女には机の上に広がるインクを拭きとることは可能でも、インクのしみ込んだ数々の重要書類をどうにかすることは不可能であった。


「ああ、僕はどうすれば……、だから僕は王は向いていないんだ……。」


 机の上に流れる真っ黒なインクに反射する自身の顔を見ながらおかれた境遇を恨む。


 その目には涙が浮かんでいた。


 小さい頃から頭はよかった、と思う。魔法だって使えたし、剣技もできた。ただ、おっちょこちょいだったのだ。


 歩行の時の障害となるようなものは何もなく、埃すらも徹底的に排除されたこの王宮の中で転ぶ。


 10歳になったときに行われたお披露目会、大事な登場シーンでくしゃみをする。


 今日の朝、朝ごはんのサラダで出てきたミニトマト、フォークを刺そうとしてどこかへ飛んで行く。


 上げたらきりがない。


「はぁ、落胆タイムは終わりましたか?さっさと魔法でインクを取り除いてください。」


「はッ!そうだった!」


 おっちょこちょいだがこの国王、魔法が一流である。


 この大きな王国の中でも使い手がほとんどいない神級魔法を自由自在に使うのだから、だれがどう見ても才能にあふれた優秀な人物である。


 書類整理などお茶の子さいさい、礼儀も正しく頭の回転も速い。


 無論、インクでぐちゃぐちゃになった書類からいらないインクを吸い取るなど楽にこなせる。


 ただ、その発想が浮かばないのは何とも残念な人なのである。

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