新月の夜は本も眠る

茜あゆむ

第1話

 新月の夜は本も眠る。


 ほのかに光を帯びた本がある。皮の装丁はその本を贈ったものが新たにしつらえたものだ。表紙にも背にも、本のタイトルや著者名は見えない。模様らしきものもない。光は小口部分からもれるので、表紙はいつも陰になっている。頁が光を放つこの本は月の石でできている。月齢に応じて、本のかがやきは増していき、満月のころ、明るさは最高潮へ達する。本の全容はその夜にしか読むことはできない。インクの性質から、文字は光に浮かび上がるようにできている。書かれているのは月の言語だから、頁のむこうから光を当てて読み取ろうとしても、頁の裏表に印刷された文字は重なり合ってしまって、判別は不可能になる。だからもしこの本を読みたいと思うなら、上弦からゆっくりとあきらかになっていく文字を、月が満ちていくのと同じ速度で読まなければならない。けれども、先に書いたようにこの本は月の言語で書かれているから大抵の人には辞書が必要になる。辞書が必要であるならば、文法書も必要だろう。字を引きながら読むには、この本ははやすぎる。一頁目ばかり読み返したという持ち主は多い。メモを残そうにも、月の石に字を記すには特別な筆記具が必要で、紙にメモを取るように簡単にはいかない。辞書を繰る手ばかりはやくなっていく。あるいは辞書に癖がつく。癖のついた辞書は、本とともに取引されることもある。本を読むには最短で十五日かかるが、十五日で読めた者はいない。辞書を買うのは無駄だという人もいる。どうせ読み通せないからだ。初めのほうばかり読み返しているうちに本に飽きてしまって、手放してきた人はもちろん大勢いる。冒頭を暗記できるほど読み返したけれど、最後まで読んだことのない人もいる。百人の手を渡り歩いた辞書は国立博物館に寄贈され、何層にも折り重なったさまざまの年代の持ち主のメモ書きが一般に公開されている。辞書の見出し文字へ矢印が投げ込まれて、注釈や例文が頁の余白に書き込まれている。注釈や例文にも矢印は伸びて、さらに余白は埋まる。言葉の中にたくさんの言葉が折りたたまれているようだと、本の研究の第一人者は言う。博物館の目玉展示品というわけにいかないのは、安価な翻訳版が各出版社から発売されているせいだろう。今では著作権の切れた大文豪の翻訳がネット上で無料で読める。絵本になったり、漫画になったり、映画になったりしているから大体の人は話は知っている。原文で、しかも月の石のオリジナルを読もうという人は少ないし、本は高価だ。ごく限られた人の手にわたって、繰り返し読まれる。何か月も何年もかけて読まれていくうちに、本がまったく別のものに見えてくると人は言う。書かれている文字は変わらないのに、読み取る文字が変わる。辞書に癖がつくように、読む人のほうにも月の言語の癖がつく。読み返すうちにしか分からない。読み返すうちに読める部分が増えていくし、読めたと思っていたところが読めていなかったことに気付く。月の言語はひどく複雑で、同じ言葉でも文章の中で二つ以上の意味を持っていたりする言葉もあるし、長い文章がたった一語の単語を導くためにつらつらと続いたりする。それらの文法上の決まりを上手に使うと、たった一つの文章で二つの文章を書くことができる。読めるのに読めないのは、多分そのせいだ。月の言語以外には翻訳できない。翻訳しても、普通の文章になってしまう。文章の上に、文章が重なったようには読めない。月の言語だからそのように読める。そのように読もうという人は少なく、本を買い求められる家も少ない。本は時価だ。一等地に家を建てられるほどの値の時もあれば、タイル一枚分に満たない時もある。月の石の輸出入は今では禁止されていて、新しい本を作ることはできない。国が収蔵している本が一番古く、五百冊ほどが全国に流通している。装丁に凝る人もいて、愛書家は割れやすい月の石が砕けないよう、厚い皮の装丁を作る。落とした時、皮が衝撃を吸収するようになっていて、震災を生き延びた本は泥にまみれながらも無事だった。石でできた紙なので水には強い。泥から掘り起こされた本は改めて装われて、持ち主の本棚に収まっている。もう何度読み返されているか分からない。持ち主が本棚から抜き出すと、戻るまでに何か月もかかる。持ち出される日もまちまちで、下弦の月であった日には、読めるところから読み始めて何周もする。歳を重ねて、めっきり読むのが遅くなっている。月が翳るのよりも読むほうが遅い。月齢に追い抜かれて、何周遅れにもなる。本を買い求めたころに揃えた辞書は古く、字も小さいため、眼鏡が欠かせない。読んでいく速度は月の満ち欠けから遠く離れていき、遅々として進まずに、同じページを何日も眺める日もある。すでに読んだことのあるはずの文章でも、改めて辞書を引くと予想もしていなかったことに出会う。進むように読むよりも潜るように読むと、淡い光のまぶしいページはどこまでも深くなっていく。波立つ頁の表面にざるを入れて、底を掬う。文章をふるいにかけて目の粗い単語を取り出す。一つひとつを選り分けて、虫眼鏡で四方八方眺めまわしてみるとそれがきらりと光るようだから、まずは先例を調べる。辞書の用例はなんだか信用ならないのだが、単語の挙動も妖しい。近親種も視野に入れて、もう一度調べ直しているうちに参考になりそうな文献を見つけ、脇にメモを残しておく。末尾の参考文献から関連書籍へ飛び、単語の初出を調べる。川を上流へとのぼる。遡上。生まれ故郷へ帰るという意味はない。いま歩いている道が一本しかなかったことを知っているはずなのに、振り返ってみると無数に枝分かれした道が存在していたように感じる。そう感じるのは本にだろうか、それとも自分の人生にだろうか? その疑問はここでは意味を持たない。読む・読んでいる最中には、その二つは同じことだからだ。元の単語は麓のほうにあり、ずいぶん遠くへ来たという実感に首をかしげたくなる。何を探していたのか、自分に問いかけなければ分からないところに立っている。目的とこれまでの道のりが一瞬にして頭から離れて、完全に茫然自失となって、白い頁を前にはっと我に返ると、書き殴ったメモに出迎えられる。調べていたはずの文章を読んでみても、さっきまで感じていた違和感はなくなっていて、手掛かりを探そうにも残されているのはまったく無関係に思えるメモだけだ。紅茶を淹れるため離席して、戻ったとき再び文章のひっかかりに琴線が触れるかは分からない。ただ一つ分かっているのは、このまま座り続けていても一向に読み進まないことで、何を読んでいるのか、読んでいたのかは時間の彼方に消えている。読む速度より忘れる速度のほうがはやくなりつつある。読み返しても、前に一度読んだことがあるという既視感が頭の中を埋め尽くして、文章が入ってくる邪魔をする。読むことより考えることのほうに比重が働いて、頁の前で何十分も何時間も茫然と考え事のような、考え事でないようなことを考える。頭の中に浮かんでいたことはぱちんと弾ける。跡形もなく消え去ってしまう。よどみに浮かぶうたかたは……。そんなことを一日中続ける。眠るために明かりを消し、本は枕元に置かない。いくら淡い光だとはいえ、まぶたに感じる光はわずらわしい。明かりいらずで寝るまで読み続けられる、というのが月の本の売り文句だったはずが、かえって邪魔になる。布団に隠れて本を読む子どもだって目を悪くする。十歳の誕生日に父親から贈られた本を夜な夜な開いては読んでいる。頭からかぶった布団の隙間から、本の明かりがもれている。辞書もその光で引く。毎日、月が満ちた分だけ読むのを、もう何年も繰り返しているが、本の内容は覚えていない。読み返すたび、初めて読んだ時と同じ時間がかかる。彼女の記憶は二十八日しかもたない。毎日、月齢とともに歩む日々が五年続いていた。

 本をもらって五年経っていることは、日記を読んで知っている。けれど、本を開くときのわくわくは色あせることなく続いていて、五年前の誕生日と少しも変わらず、新鮮な気持ちで彼女は本を開く。そこには未知の美しい文字が並んでいて、クリーム色の光が顔にかかるとくすぐったいような気がするのだった。彼女の毛先はかすかに湿気を含んでいて、重たい。髪を乾かさずに布団に入ったから、まだ濡れている。分厚いカーテンのしまった部屋で二枚掛けの布団をかぶると、そこには完全な暗黒ができあがる。おなかに抱えた本を、即席の暗闇に引きずり込んで、まぶしさに一瞬目がくらむ。まともに直視すると目を悪くするのは太陽と同じ。月もまた輝いている。眼鏡は半年前に作ってもらった。眼鏡のつるを開いて、耳にかける。見えていたはずのものがかすんで見えていたことに気付いて、眼鏡をかけるたび驚く。それならば、私が今まで見ていたものは何だったのだろう、と彼女は思う。どちらかが正しいとは思えない。ぼんやりとした世界も、くっきりとした世界もどちらも同じように存在している。どちらか一方だけなら疑うこともできなかったはずなのに、二つの見え方があると分かった途端、片方を間違ったものとして消してしまおうとする自分を、彼女は理解しようとする。二つは、本来比べることもできない。見え方が二つあるなんて、普通は思わないだろう。だから見え方は当然ひとつしかないと考える。けれど、それは違うのかもしれない。いくつあってもいいはずだ。まぶたの上から目をぎゅっと押し込んで、本を見てみると、瞳にじわーっと何かが広がっていく感覚のあと、ゆっくりとピントが合っていく。視界の端が少しぼやけるようにも感じた。これでいい、と彼女は感じる。たくさんの見え方があるほうがきっと面白い。これもそのひとつだ。

 本は寝待月ほどに欠けていた。本の後ろ、三分の一ほどのところを開いて、辞書を繰る。手垢でぼろぼろになった辞書は使いにくい。彼女の髪からこぼれた雫が辞書に落ちて、染みを作る。パジャマの袖で染みをこするので、紙面が毛羽立つ。彼女は気にしていないようだった。すでに意識が読むことに傾いている。袖で拭ったのも条件反射に近かった。水が滴る。何かで拭う。当たり前のこととして、彼女の内側でつながった二つだった。髪の毛から雫が落ちたこと。パジャマの袖で拭ったこと。何かを考える余地もなく、ただ自動的に、そういうものだと彼女は思ったし、そう行動した。そういうことが何百回も続いていくと、あるときはっと気付くときがくる。不思議に思う。なぜ雫は落ちるのだろう。なぜ袖で拭うと消えるのだろう。雫とは? 拭くとは? 答えはないし、問いも長くは続かない。どうしてそんな当たり前のことを不思議がったのだろう、と今度は自分が自分を訝しむことになる。彼女が日々読む文章は毎日新しい。見慣れたところなど一つもない。誰にも触れられていない。いつでも初めて読む文章だ。何が書かれているのか予想もつかないし、どんなものを読んでいるのか彼女にも分からない。そんな瞬間を待っているような気がするし、読むことでそんな瞬間を呼び寄せようとしているようにも思える。文字を一つずつ拾っていく。単語を見つけ、文章を計り、段落を囲う。辞書で意味を調べて、もう一度、初めから読む。意味を持った単語が何かの規則に従って、文章として連なっている。文章がいくつかまとまると段落になり、段落が集まると章になる。章が束ねられて本になる。本が並べられて本棚になる。これは全部同じことの言いかえで、違うのは大きさを表す単位だけだ。今並べ立てたものは全部言葉でできている。言葉だ。彼女は目の前の単語を一生懸命追いかける。彼女には目の前の単語しか見えていない。そこまで続いてきた過去の文章も、そこから枝を伸ばしていく未来の文章も、たった今読まれている現在の文章でしかない。読まれているときにしか文章は存在しない。文章は目の前にしかない。いま読んでいる文章だけがある。過去か未来かは、それが前にあるか、後ろにあるかだけだ。彼女にはいま読んでいる文章だけで充分だった。それで充分、彼女は読むことのよろこびを感じられる。読むことができる。たとえ記憶が繰り返しなかったことにされても、読書はできる。どんなお話か分からなくても、読める。そこに言葉がある。


 寝静まった彼女の寝室に母親が顔を出す。毛布の隙間からもれる光を目印に、ベッドへ近付いて、そっと毛布をめくった。

 幸せそうに体を丸めて眠る娘の姿が現れる。母親は本を閉じ、娘に毛布をかける。眠る表情がはっきりと分かるほど、本のかがやきは明るかった。

 本棚へ納められても、その輝きが鈍ることはない。明日の朝、これまで繰り返してきた朝と同じように、娘は本を手に取るだろう。中に挟まれたメモを読み、自分が何者なのかを知る。その驚きは何度繰り返しても色褪せない。自分の身体が知らない間に五年も年を重ねたことを。父親が死んで五年経つことを。彼女は知る。分厚いカーテンに隔てられた薄暗がりで、本の林に光る一冊の本を見つける。中には彼女の知らない彼女が眠っている。

 新月の朝、目を覚ます。月と本と。

 私が眠っている。

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新月の夜は本も眠る 茜あゆむ @madderred

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