ナトリウム・カルシウムー塩化物泉(低張性・弱アルカリ性・高温泉)

茜あゆむ

第1話

「温泉法第九条第三項に基づき、熱海505号泉は環境省の管理下に入ります。また、エフロレッセンス災害の予防措置のため、温泉法第十条における範囲での権利をエフロ防災センターに委譲し、原状回復に努めます」

 薄暗い野営テントにエフロ対策本部、鬼怒川の告示が重く響いた。有馬はその場に集まった町内自治会の渋面たちに頭を下げた。

「熱海は徳川家康の時代より知られた歴史ある温泉地です。2000年代以降、多発するエフロレッセンス災害とそれにともなう地質的変動によって、源泉数も千を超えることとなりました。これらを管理し、エフロ災害の発生を防いできた住民の皆様の不断の努力に敬意を表します。また、この由緒ある土地を守るべく、尽力いたします」

 深々と下げた有馬の頭上へまばらな拍手が散った。

 熱海城下に設営されたテントは夕闇の迫る紫に染まり、湯気を吐き出す温泉井の鉄骨が向こうに白く滲んで見えていた。入口の垂れ幕から漏れる光が強くなり、有馬が中から出てくる。

「有馬さん、現地には私も同行させていただきます」

 有馬の後を追ってきた鬼怒川がまとめ髪を揺らして、隣に並んだ。駿馬の尾を連想させる見事な黒髪に、有馬は一瞬視線を奪われる。

「髪が痛みますよ」

「は?」

「エフロの除去に塩酸弾を使います。源泉から立ち上る湯気に触れると、肌にエフロが結晶しますので」

「有馬さんの親切には感謝いたしますが、そのような常識を講義していただかなくとも……」

「……それは失礼した」

 野営所の端では、迷彩服の集団が立膝の姿勢で待機していた。彼らは有馬率いるエフロ防災センターの災害処理班だった。重火器の手入れをしているものも見える。隊長の伊香保が有馬に駆け寄った。

「準備完了しています」

「うん。ただちに現地へ向け、出発。到着次第、エフロの除去を開始し、風解獣の寄り付く前に撤収する。A班は掘削班、B班は回収班として作業にあたる。以上、作戦開始」

 作戦内容を復唱した伊香保が、その怜悧な視線を鬼怒川に向ける。

「環境省のご客人だ。彼女も同行する」

「見定めさせていただきます。自分の身は自分で守れるつもりです」

 伊香保は微塵も表情を動かすことなく頷いた。

「……そうであることを願っていますよ」

 伊香保を先頭に部隊は森の夕闇の中へ、消えるように進んでいった。有馬は輸送トラックから取り出した防護服を鬼怒川へ渡す。

「私たちも出発する」

 505号泉は錦ヶ浦の突端に位置している。エフロ災害が全国へ波及し始めた頃、湧出した源泉であり、こうした源泉はエフロ源泉とも呼ばれている。エフロレッセンスとは元々コンクリート中の通う成分が表面に沈着する現象を指す言葉だったが、今やエフロと呼ぶのは、もっぱら温泉災害に対してだった。海水の飽和により海中に流れ込むはずだった地殻内のミネラル成分が地表に移動し、固着する。それは主に温泉の湧出を契機とする。炭酸カルシウムを主成分とするそれらは除去が困難であり、恐るべき速度で地表を覆ってしまった。湯気を浴びるだけで、肌に薄い膜を張るほどにエフロ化は速い。

「昔のように、温泉に入浴できるようになる日は来るでしょうか」

 封鎖された錦ヶ浦隧道を横目に、険しい山道を下りながら、鬼怒川は有馬に尋ねた。岩肌と木根で足場はかなり悪い。

「舌を噛まないように」

「私の故郷も温泉地だったんです。ですが、エフロが発生して、風解獣が住み着くにようになって」

 噴泉が鬼怒川の声に重なった。海岸線が湯気で白く煙る。

「どこの源泉だって、人が入れるような濃度じゃなくなった。諦めたほうが楽だって誰でもわかってる。自治会の人たちだって、だから権利の委譲に同意したんじゃないか」

 しゃべりすぎだと自嘲して、有馬は足を速めた。動きにくい防護服だというのに、鬼怒川もペースを合わせる。気遣うように、一瞬だけ有馬が振り返った。

「有馬さんも取り戻したいと思いませんか?」

 鬼怒川の問いは、冷たい沈黙に跳ね返された。銃声が響いて、作戦開始を告げる。有馬の背中がみなぎるように張り詰めた。

「風解獣の動きを本部に尋ねてくれ」

「……今のところ、目立った動きはないです」

 二人は斜面を駆け下りていく。

 505号泉の温泉井には樹氷のようにエフロが結晶していた。絶えず山側に向かって吹く風に湯気があおられるせいだ。支柱の一本は海中に足を深く差し入れている。流氷のような白い結晶が波間で揺れている。海水で冷えて固まったエフロが波に砕けて、海面をまばらに覆っているのだった。

 部隊は二手に分かれてエフロの除去に取り掛かっていた。小銃を構えるのはA班、弾頭に塩酸を含んだ弾丸で強固に結びついた炭酸カルシウムの結晶を撃ち砕く。そしてB班は周囲に散らばったエフロの欠片を背負ったバキュームで回収する。

「伊香保、源泉の様子は?」

「既に閉塞しています。音の響き具合から推測するに、二メートルほど下でエフロが結晶しているものかと」

「一度、突き崩してみてほしい。蒸気が噴出しなければ、そのまま源泉枯渇と報告する」

 了解です、と答えた伊香保は隊員に棒状の鉄を持ってこさせた。

「有馬さん、南東の方角に不可解な波模様が見えます」

 また別の隊員が波間を指す。白波が海岸線と垂直に立っていた。

「風解獣、接近。B班はただちに撤退。A班は地帯行動をとりつつ、後退する」

 水しぶきが上がる。風解獣の背が海面から突き出して、波を裂く。撤退の指揮を執る有馬の腕を、鬼怒川が掴んだ。

「風解獣に505号泉を渡すつもりですか! 奴らの餌場になれば、せっかく閉塞した源泉も元通りになってしまいますよ」

「そのくらいのこと、分かっている!」

 手を振りほどかれた鬼怒川はトランシーバに向かって怒鳴る有馬から離れようとする。行くな、と逆に有馬に腕を掴まれた。

「即刻、この場から離れろ」

 波打ち際に姿を現した風解獣は体高1メートルほどある五号丙型と見られた。体表に付着した石灰鱗の厚さを考えると、小銃での掃討は不可能に近い。エフロ結晶をかみ砕く牙と爪がどれほど危険か、処理班に知らぬ者はいない。

「伊香保、すまないが足止めを頼む」

「救世主は海からですか、空からですか?」

「海だ」

 数人の隊員を伴い、伊香保は風解獣を包囲したまま、じりじりと後退した。ばらまかれた銃弾が風解獣の鱗を溶かし、黄色い煙が刺激臭を載せて、有馬たちのもとへ流れる。鱗の間に染み込んだ薬液がもどかしいのか、風解獣はしきりに身体を揺すった。

 エンジン音が港のほうから聞こえていた。波をかき分け、海面をたたくへさきの鋭い音。それが有馬たちのほうへ近付いてくる。

「伊香保!」

「了解」

 閃光弾が炸裂する。音と光にひるんだ風解獣は目を回したように、四つ足を延ばし、地面に腹を付けた。体を丸めた防御姿勢を取るのは、石灰鱗が外敵を寄せ付けないことを知っているからだった。しかし、その本能がかえって仇になる。

 砲声が響いて、弾着と同時に、暴風が有馬たちを襲った。隊員たちは浜にうつ伏せになる。砲弾に抉り取られた土塊が浜へと降り注ぎ、大小さまざまな鈍い音を立てた。水しぶきと砂に交じって、潮の香りと血生ぐさい臭いが辺りに立ち込める。

「風解獣の死亡を確認しました。ひき肉です……」

「源泉は?」

「相変わらず、沈黙しています」

「分かった。回収できる限りのエフロを回収し、帰投する」

 帰り際、港方面へ去っていく隊員たちの背中を眺める有馬の手を、鬼怒川が掴んだ。

「なに」

「確信しました」

「は?」

「枯渇したはずの3号泉の源泉に近頃動きがみられます。さらには、それに伴い、3号泉風解獣『間歇泉』が冬眠から目覚めようとしています。どうか、力を貸してください。有馬いずみ」


 風解獣の中には源泉と命脈をつなぐものがいる。枯渇とともに欠番となった源泉には、命脈をつないだ風解獣の撃退に成功した例もあるが、その中でも3号泉は特殊だった。

 3号泉に住み着いた風解獣は観測史上最も巨大な風解獣だった。その分厚い石灰鱗のために手を出すことができず、突破口を見いだせないまま長い年月が過ぎてしまった。『間歇泉』によっていくつもの街がエフロに沈んだ。奴は巨大な手足を使って地面を掘り、湧出した温泉でエフロを広めた。『間歇泉』とn名付けられたのはそういった経緯とともに、奴が活動期間と休眠期間を繰り返すからだった。周期は48時間。しかし、熱海でも指折りの古井戸だった3号泉はやがて枯渇に至り、あわせて『間歇泉』も永い眠りについたのだった。

 枯渇源泉が復活することはそれほど珍しいことではない。絶えず近くないで逃げ場を求めているエフロや温泉はより通り良い道を探している。古い街道が再発見されるように、廃棄された源泉に再び湯が戻ることがある。

「『間歇泉』への対策なら、エフロ対策にかかわる人間なら一つや二つ考えているもの。もちろん、私だって例外じゃない」

 505号泉の作戦の後、有馬はエフロ対策本部に呼ばれ、四ツ谷のビルに来ていた。彼女の言葉は言外に、何故私なのか、と問うていた。実際、2号泉風解獣は環境省と防衛省の共同作戦で討伐している。民間の有馬を指名する理由が鬼怒川にはない。

「3号泉の奥深くに、生体反応が確認されました。私はそれが何なのか知りたい。中央省庁の人間を入れれば、情報は機密扱いとなり、陽の目を見ることはないでしょう。私はあなたを利用します。凄腕の民間エフロハンターとして作戦を指揮してください」

「何故そこまでする」

「……私は、エフロ災害をこの世から撲滅したいんです。そのためには情報が必要で」

「だから、何故そう思うのか聞いているんだ」

 鬼怒川はかつて暮らした故郷を思い出していた。いや思い出すまでもない。いつまでも脳裏に焼き付いて離れない。そこに暮らしていた住人たちの顔まで鮮明だった。

「街がひとつ消えたんです。そこに暮らしていた人、全員が不幸になりました。まるで地面がぽっかりと抜けたみたいに、真っ暗な口の中に飲み込まれていきました。私は希望が欲しいんです。エフロを無くせるんだという希望が。それが3号泉にはあるはずなんです」

 鬼怒川の瞳に刺した影を、有馬は見た。鬼怒川の故郷がどんな結末を描いたのか、はっきり浮かんだ。そして、それは恐らく有馬の故郷とひどく似通っているはずだった。

「分かった。協力する。何をすればいい?」

「……! ま、まずは『間歇泉』の無力化です。3号泉坑内に入るには『間歇泉』の守りをかいくぐる必要がありますから。もし可能であるならば、作戦行動中に3号泉へ入り込んでおきたい」

「そちらは私が手配する。見つかるといいね、希望」


 長年の調査の結果、『間歇泉』の石灰鱗の主成分は水垢と同じ、炭酸カルシウムだということが分かっている。厚さ1メートルにも及ぶそれを撃ち抜くことは技術的に不可能だった。『間歇泉』撃退の主題は、まさに石灰鱗をどう無力化するかにあった。

 有馬の作戦はこうだ。石灰鱗を無力化するのではなく、その強固な鎧を逆用し、『間歇泉』を封じ込める檻とする。そのために必要なものはクエン酸だった。一般に水垢汚れにも使用されるクエン酸は、けれど、時間を置くと不溶性のクエン酸カルシウムとして沈着する。その性質を利用し、石灰鱗を固着させる。

 作戦は休眠期間に入る前から始める。まず『間歇泉』をクエン酸噴霧の容易な酒匂川流域へ誘導、冬眠前から輸送機による散布を行う。そして、『間歇泉』が休眠に移行したのを確認したのち、人海戦術によるクエン酸の塗布を開始する。

「伊香保、あとは頼んだ」

 作戦開始から十時間が経過した。第一波が無事に帰還したことを確かめて、有馬は現場を離れる判断をした。鬼怒川とともに、3号泉へ潜る。

「お気をつけて」

 伊香保は去っていく有馬の背中に声をかけた。その目はかすかに潤んでいたが、瞬きの間にその輝きも消えた。伊香保もまた有馬に背を向け、持ち場へ戻っていくのだった。

 3号泉は旧富士屋ホテルにある。ホテルの地下へと続く階段が、そのまま源泉となっている。というよりも、温泉の湧出する洞窟を利用するように建物が建てられたというほうが正確だろう。

 鬼怒川は南京錠を外し、鉄扉を開いた。天井の蛍光灯は点かない。洞窟はわずかに下りながら、山側に伸びている。くらやみが口を開けていた。鬼怒川たちは静かに胎内へ入っていく。結露した水滴が規則正しく地面を穿つ。水溜まりは暗い穴のように見えた。黴と水の臭いがして、吐く息の音すら反響した。

 有馬はくらやみに過去を見ていた。エフロレッセンスに白くなった故郷の街並みが、見つめる先に浮かんでいた。木々の緑すら白く鎖して、生き物の住む土地では、もはやなかった。兄に手を引かれて走った路地裏、白い濁流が背後に迫る。肺にまでエフロは入り込んで、あえぐように苦しい胸を抱えて走った。兄の腕を掴む感覚だけが確かだった。

 だが気付けば、兄はおらず、有馬はひとりエフロ化した街を歩いていた。二人を追いかけてきた白い煙はどこにも見当たらなかった。鳥の声すら聞こえない。ひたすらに静かな街を、兄を探して有馬は歩いた。

 懇意にしていた駄菓子屋にそれを見つけたのは、幸運だったのかそれとも。とにかく、有馬は兄の姿を見た。白く凝った姿を。

 有馬は、のちに大学の講義でそれとまったく同じ姿を目にすることになる。世界最古のエフロ災害とされるポンペイの発掘現場の写真だった。人型のエフロが、白い石膏像のような、かつて人であったものがそこに立っていた。


「お待ちしておりました。人類の皆様」

 声はよく響いて、くらやみのはるか先から発せられているように感じられた。有馬は誰何する。声の主ははっきりとした口調で、こう言った。

「我らは、そうですね、エフロレッセンスの民とでも申しておきましょうか」

 洞窟に白い靄のようなものが浮かび上がった。宙に浮かんだ楕円の靄が上下に伸びて、人型になった。それはゆっくりと有馬たちのほうへ近付いてくる。

「やはり実在していたのですね」

「……その声は、何度もコンタクトを試みてくださった方。ええ、我らはあなたさま方が生まれる前よりずっと、この星で眠り続けておりました」

 鬼怒川の腕を掴み、有馬が尋ねる。

「何の話をしている? あいつらは何だ」

 鬼怒川の濡れた瞳が洞窟の闇の中で、あやしく光った。

「エフロレッセンス現象の原因となった海水の飽和は、知的生命体が作り出したある種の循環装置によるものだと考えられていました」

 有馬を見つめていた鬼怒川の瞳は瞬きを挟んで、靄のほうへ向けられる。

「風解獣の遺伝子には人為的な操作の跡が発見されています。私たちエフロ対策本部は、彼らを生み出した知的生命体の可能性を探っていたのです」

「じゃあ、ぜんぶあいつらのせいって訳か……?」

 靄は咳払いのような仕草で、注目を集めなおした。

「そう、我らです。エフロレッセンスとあなたさま方が呼ぶ現象も、風解獣と呼ぶ保安装置も。かつて繁栄を極めた我らですが、資源の枯渇という問題に直面しました。地球に再び豊かな資源を取り戻すべくシステムを構築しました。そして、資源が戻るまでの長い時間、眠りにつき、その間にあなたさま方、人類がこの星の支配者となった」

「なら、風解獣を今すぐ止めることもできるのか」

「ええ、可能です」

「こうして会話ができるということは、交渉の余地はあるんだな」

「……その意思は確かに。共存の道を模索する用意はございます」

 エフロの民の怪訝な言葉に、有馬は眉をしかめた。エフロの民が続ける。

「けれど、我らはあなたさま方が滅びようと構いません。交渉とは対等な立場でなければ成り立たないことを、よくご存じなはず。あなたさま方が交渉の席につかれるのをお待ちしております」

 無線が通じないはずの洞窟で、有馬のトランシーバが電波を受信した。

「『間歇泉』の石灰鱗が分裂、七号相当の風解獣が多数、住宅街に紛れ込んでいます」

「3号は個体ではありません。あれらは元々、弱い個体が群れを成したもの。その結合をほどけば、どうなることか」

 靄が蠢いて、笑ったように影になった。

「我らはあなたさま方と対話することを望んでおります。どうかお示しください。あなたさま方は生きるに値すると」


 酒匂川周辺の住宅街は混乱をきたしていた。細かい路地に風解獣が紛れ込み、自衛隊は立ち往生している。エフロ対策部隊が各個撃破で街を虱潰しにしているが、あまりに損耗率が高く、作戦行動の継続さえあやしかった。

「伊香保、状況の説明を」

 3号泉から戻った有馬はただちに部隊に召集をかけた。エフロのこびりついた装備で、伊香保は立っている。

「現状、分裂した風解獣の数は推定で三百、分裂に際して、個体での行動に順応が追い付いていないのか、大きな動きはなく、酒匂川河口付近に密集しています」

「何か気付いたことはあるか」

「……六号程度の体の大きな個体が散見されます。また群体であるためか、命令系統のようなものもあるのではないかと」

「よし。では六号相当の個体へ攻撃を集中。また呼称を『レギオン甲』とする。甲種に対し、乙種が何匹ほど集まるのか、よく観察してくれ。そのうえで、甲種を討伐後、乙種を殲滅。ユニットごとの討伐を目指す」

 有馬の号令に隊員たちは分かれていく。その場に残った伊香保は、有馬に顔を近付けた。

「3号泉の方は上手くいきましたか?」

「それは後で話そう。奴らが混乱している今がチャンスだ」

「上手くいかなかったんですね」

 にやりと笑う伊香保の肩を、有馬はぐっと押しのけた。

「いいから、さっさと行け!」

 伊香保の背中を見送った有馬は、ゆっくりと鬼怒川のほうへ振り返った。

「希望が見えてきたんじゃないか」

「……そうでしょうか。まるで叶うはずのない、途方もない夢を見ているみたいなものでしょう?」

「それは今までも同じだ。ゴール地点は何も変わってない」

「彼らとの胸像が本当に可能だと思っているんですか」

「彼らもまた望んでいることだ。成し遂げられるかは私たち次第だろう」

 トランシーバが鳴る。

「もう行かなければ」

 鬼怒川はひとり、箱根から吹き下りる風を浴びた。どことなく硫黄の香りがするようだった。


 伊香保と有馬の読み通り、身体の大きな個体は群れに命令を伝達する個体であるようだった。甲種を失い足並みの乱れた『間歇泉』たちを各個撃破していく。市外から海岸線へ包囲網を狭めていくことに成功し、厚い石灰鱗を持つ『間歇泉』は海へ逃れることもできず、協同部隊に討伐されていく。

 今は西湘バイパス沿いの松林に、二ユニット、計六体の『間歇泉』が紛れている。

「有馬さん、どうしますか」

 遺棄された旧団地を背に、有馬たちは待機していた。他にも自衛隊の部隊が展開して、『間歇泉』を追い詰めている。

「奴らはユニット間での連携も取れていた。恐らくは、甲種を指揮する存在がいるはず。できれば、そいつを見つけ出したい」

「で、どうやるんです?」

「……逃がしてしまうか」

「え!」

 伊香保が声を上げるのを、有馬は笑う。

「逃がすのはあくまで乙種の方だ。被害が拡大しないよう、バイパス上へ誘導する。住民の避難は完了しているだろう」

「だからといって……いえ、分かりました」

 諦めたように伊香保は受け入れた。

「有馬さんがそういうなら、そうするのが最善なんでしょう」

 伊香保は隊員を率いて、松林へ突入していった。銃声、風解獣の断末魔。有馬の視界の向こうで、松の枝が揺れた。

「有馬さん、西湘バイパスを小田原方面へ逃げていきますよ」

 有馬はすぐに車を出させた。自衛隊のヘリが風解獣を追っている。

「あちらに撃たせるな。車を寄せろ!」」

 県政射撃をしつつ、車を風解獣に寄せる。逃れようと風解獣は車に体当たりする。

「充分だ、距離を取れ」

 有馬は安全圏まで下がらせた。風解獣とヘリの直線状に車を配してある。熱のこもった薄笑いが、有馬の顔に張り付いていた。

「さあ、案内してくれ」

 風解獣は料金所を越えた。しきりにヘリの音を気にしているようだった。やがて、奴はパーキングエリアに飛び込んだ。休憩所の壁を破壊し、建物の中へ身を隠す。

 車を停め、有馬は風解獣が飛び込んだ場所から中へ入っていく。伊香保の声が空しく響いた。

 自動販売機が並ぶだけの質素なパーキングエリアだった。ほぼ全面がガラス張りのスライドドアになっている。風解獣はその隅にうずくまっていた。自販機の蛍光灯の光が、黒目の表面を滑る。辺りはうっすらと暗い。

「有馬どの。そのあたりで許してはもらえませんか」

 不意に風解獣の隣に靄が立ち現れた。

「……指揮をしていたのはあなたか」

「負けが決まった場面でこうして顔を出すのは、いささか無礼な振る舞いであると自覚していますが、しかし、負けを認めるために出てきたのです。免じていただくことは……」

 銃声がコンクリートの壁に神経質に響いた。有馬の右手に拳銃が構えられている。

「逆の立場でも同じことを言うか?」

 靄は不定形に揺れた。

「交渉とは対等な立場でしか成り立たない。あなたにも分かっているだろう」

「……なるほど。完敗いたしました」

 有馬は風解獣に近付いていく。たとえ八号でも、骨の薄い肩のあたりを狙えば、殺せる。

「それで、共存はいつ選べる?」

「時が来れば、我らは再び姿を現しましょう」

 割れた窓ガラスから風が吹き込んだ。有馬は思わず顔を覆う。風が止んだ時には、既に靄はなかった。怯え切った風解獣が無心で有馬を見つめているだけだ。

「お前に恨みはない。ただ、お前の兄弟が私の兄を喰ったのさ」

 静かに引き金を引いた。

 終わりとはじまりを告げる鐘が鳴る。

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ナトリウム・カルシウムー塩化物泉(低張性・弱アルカリ性・高温泉) 茜あゆむ @madderred

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