65話 閑話5 オープニング・彼女の異世界生活
アスファルトの地面には底も見えないほど深い穴が空いていて、淵に立ってそれを見下ろすのが趣味だった。
この穴がどうにも自分にしか見えないものらしいと気づいたのは十二歳になった夏のことだ。
けたたましい蝉の声を聞いて、卵でも焼けそうなぐらい熱いブロック塀に背中を預けて、誰も通らない住宅街の奥まった場所でその穴を見下ろすのが日課になっていた。
ジリジリと太陽に焼かれながら、どうしてこんな暑い日にじっと穴を見下ろしているのか考えたことがある。
強いていえば日課だったからだろう。
離れて暮らす祖父母の家に向かう途中にこの穴はあって、幼い頃の自分はこの穴をぴょんと飛び越えていた。
ところが一緒にいる両親は穴の上を普通に歩く。そこに穴なんかないかのように。穴が見えている自分のことを、『幼い子供特有の妄言』でも吐いているかのように扱う。
あるいはそれは、幼い時分には本当にただの妄想だったのかもしれない。
けれど眺めて、実在を確かめて、消しゴムなんかを落としてみて、そうして穴の実在を確かめるうちに、自分にとって真実となってしまった。
日課はほんの五分ぐらいで終わる。
翌年には三分ほどに減って、中学三年生になって高校受験が近くなってくると、ついにこの日課は忙しない日常の中に消え失せた。
その辺りの年代で祖父母が両方ともいなくなって、穴のある場所まで向かう動機がなくなったのも大きかっただろう。
高校生になった頃、穴は思考の中からさえ消え失せた。
多分二度と思い出すこともないだろう。
……でも。
嫌なことがあったんだ。
とても、とても、嫌なことが。
穴のそばにしゃがみ込む。
身を切るような冷たい風が吹き込んでいる。
凍りそうなほど冷たいブロック塀に背中を預けて、底の見えない深い深い穴を見下ろす。
消しゴムを落としたことがあった。
それは穴に吸い込まれて消えた。落ちた音はしなかった。いつまでもいつまでも落下を続けた。
この穴はきっとブラジルあたりまで続いていて、途中でマグマ層にたどり着いて『ジュッ』と消え失せるのかもしれない。それはそれは跡形もなく、苦しみもなく、一瞬で、漫画みたいに消え失せてしまえるのかもしれない。
そんなふうに思った瞬間にはもう、穴の上に一歩踏み出していた。
母は落ちなかった。父も落ちなかった。
祖父母の家から家財を運び出した業者の人も落ちなかったし、その人が尻ポケットに入れていたマジックも落ちなかった。
でも、自分で落とした消しゴムは消えたし――
自分もどうやら、落ちるらしい。
落下して二秒ぐらいで早まったなと後悔した。
この暗闇の穴が永遠に続いたらどうしよう、と怖くなった。消え去りたいという願いがあったはずなのに、自分の人生は落ちながらずっとずっと続いていくのだとしたら、それはどれだけ苦痛だろうと怖くなった。
でも叫び出す暇もないぐらいには早く、落下は終わった。
気づけば、広大な草原の真ん中。
異世界に、落ちていた。
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