51話 プロローグ

「……うまく息ができない」


 誰がどう見ても国を挙げての祝典だった。


 その中心人物が自分というのは、ただ呼吸するのにもかなりの力を必要とするぐらいの緊張で、さっきから窮屈な襟を緩め、緩め、緩め過ぎて「はしたないですよ」と王女殿下の侍従長に直されたりしている。


 王城の物見台はちょいちょい王族が民に向けてお言葉をかけるステージで、そこに平民が立ち入ることは決してない。

 貴族だって、王族と婚姻する者か、あるいは特別な勲功のある英雄的人物か、というぐらいだ。


 そこに一般三十代男性が立たされる緊張たるや、比べるものさえ思いつかないほどの栄誉と重圧だった。


 俺がいるのは待機用の通路みたいなところで、ここからはまだ勇者の出立式を見にきた人たちの姿は見えない。

 だが、わかるのだ。どよどよというざわめき、人の気配というのか、圧力というのか……おびただしいまでの熱量が十歩ぐらい歩いた先にはうずまいていて、それは見えない炎と化してこちらの体を内側から焼くかのようだった。


「……しかし、まあ、あなたはこういう晴れ舞台に本当に弱いのね」


 隣にいるキリコは堂々としたものだ。

 薄桃色の聖女服は最初からキリコが着ることを想定されてデザインされているかのようにしっくりきている。

 黒髪黒目の人種がいないわけではないが、ここまで深い黒を宿した人間はこの世界では見たことがない。

 にもかかわらず、聖女服の袖口の広さ、たもとの長さ、丈から帯から、頭にかぶった左右に布の垂れた帽子まで、すべてがキリコを基準に開発された装飾であるかのようだった。


 やってられない。

 異世界生活じゃあこっちが先輩だっていうのに、堂々としているあいつを胃を痛めながら見ている。


 ああ、なるほど。

 俺は弱い。

 弱いけれど、どうにも、『格好つける』という動機があれば、それなりには、なれるらしい。


 自分の情けない姿を客観視して、そばにキリコがいることを再認識して、ようやく丸まっていた背中を伸ばすぐらいは、できるようになった。


「覚悟、決まったの?」


「決まらないよ。覚悟は決まるもんじゃない」


「水溶きコーンスターチだったかしら?」


「そう、それ」


 二人で笑い合う。


 そばにいたスルーズ王女殿下が、綺麗な緑色の目をぱちくりとさせて、銀髪を垂らしながら首をかしげた。


「それはなに?」


「えっと……デンプンの……穀物をすりつぶした? 粉でして。水に溶くとですね……」


 意外と説明が難しい。

 俺の困窮を察してか、王女殿下は微笑んでおっしゃった。


「いいのよ。今度でも」


「……すみません、気をつかわせてしまって」


「ああ、でも、そうだったわ。あなたたちはもう、すぐにでも旅に出てしまうのよね。東方……だったかしら、魔王がいるという話になったのは。そっちを目指して。旅程は半年ぐらい?」


「ええ。予定どおりいけば、ですが……」


「やっぱりわたくしもついて行ければいいのだけれど……」


「いえ! アレクシス様を同行させてくださるだけで、充分です!」


「そう? でも、他の二人の仲間は、神殿派と大公派になってしまったじゃない。仲良しが多いほうが旅は楽しいのに、まったく無粋だわ」


「国家事業ですからね……まして同行が栄誉となるのであれば、箔付けのためにも色々な派閥が噛みたがるでしょう……それでも、王女殿下のお陰で、かなり気が楽ですよ。アレクシス様とは……仲良くなれた、と思いますし」


「今からお父様に『やっぱり一緒に旅立ちたい』って、最後のお願いをしてみてもいいのだけれど」


「本当にやめてください」


 なんていうか、持っていくべき荷物が五倍ぐらいになりそうで、連れて行く人数が十倍ぐらいになりそうなのだ。

 嫁入り前の王族の少女をともなってのんきに魔王退治なんかしていられない。


 まして俺たちはまだ、魔王を発見できていない。


 これから発見してしまうかもしれないし、予定どおり魔王なんかいなかったエンドにたどりつくかもしれない。


 俺たちの旅路に不安があるとすればその一点で、魔王がいないという結末をどうやってごまかすかが、まだ詰め切れていないのだ。

 方策はいくらか考えてあるし、プランも練りに練ったけれど、それでも、全国民を欺こうと思うと、やっぱり不安はぬぐいきれない。


 ……などと話していると、物見台の方からざわめきと歓声、そして拍手が響いてきた。

 音圧にビビる。

 改めてすごい数の人が、今日、この時のために集まっているのだ。


 たぶん、俺たちとは別な通路から、陛下が物見台に出たのだろう。

 やはり王族は半端じゃない。これだけの注目を浴びて仕事をするのだ。ほぼすべての王都民、そして勇者お披露目のしらせを受けて集まった人たち……その人数たるや想像しただけで緊張のあまり吐き気がする。


 そして陛下が出て行ったということは、じきに、俺の出番も来る。


 と、キリコが微笑んで問いかけてくる。


「勇者様、聖剣は持った?」


 ハンカチ持った? みたいなノリで聞くな。

 忘れてたわ。


 慌ててアイテムストレージから聖剣を取り出す。


 それは身の丈ほどもある巨大な剣だ。

 柄や鍔の装飾は美しく、刃に彫り込まれた紋様も美しい。

 芸術的センスのない俺にはチープな表現しかできそうもないとにかく立派なこのアイテムが、俺のためにあつらえられた聖剣なのだった。

 これ自体がマジックアイテムらしく、俺自身に魔力がほぼないため回数制限つきではあるが、『なんでも斬る魔法』を発動できる。


 美しさ、実用性……様々な点が目を見張るほどの技術の集大成。

 けれど俺はといえば、これのすさまじい重さにばっかり心を奪われている。すごく重い。めちゃくちゃ重い。鍔にはめこまれた宝石をいくらか外してしまいたくなるほど重い。


 これをみんなの前で直上にかかげなければならないのだ。

 この一年、筋トレは欠かさなかった。他の訓練だってやり続けた。

 それでも二秒ぐらい維持できれば立派なんじゃないかというぐらい、すさまじい重さだ。


 ……大きな拍手が聞こえる。


 陛下のあいさつがひと段落ついたのだろう。


 緊張による吐き気はだんだんひどくなってくる。


 ふと、余裕がなくて振り返ることもできなかった、背後を振り返った。


 そこにはエイミーがいる。


 視線が合うと、黄金のしっぽが揺れる。


 表情はない。


 声を出すことも、苦手としている。


 それでも彼女は、口をパクパクと開閉させて、


「い……て、ら……しゃい」


 絞り出すように、そう言ってくれた。

 直後、膝をついてへたりこむ。


 スルーズ王女殿下の侍従たちが駆け寄っていく。

 俺も駆け寄りたかったが、出番がきたようだった。


 それを無視してエイミーのそばに行ってしまっては、彼女のせいいっぱいの声援を無碍にすることになる。


「いってくる」


 緊張で手が震えている。

 その手はキリコに握られた。


「情けないわね」


 なんていうキリコの手も震えていて、俺はようやく、ちょっと笑えた。


 手をとられたまま、進んでいく。


 物見台には陛下と第一婦人、そしてアレクシス様を含む旅の仲間が三名いた。


 陛下は俺たちの姿を確認すると、手すりのほうまで来るように示す。


 それに従って歩み出れば、すさまじい数の人たちが、俺たちの登場に合わせて歓声を挙げた。


 栄えた王都。成熟した文明。


 そこら中に高い建物が見える王都。隙間なく建物の並んだ石造りのこの街も、しばらく見納めになるかもしれない。


 俺たちは旅に出る。


 魔王なき魔王退治。

 勇者なき勇者の冒険。


「では、勇者よ。聖剣をかかげ、誓いの言葉を」


 言われるままに、聖剣の切っ先を天に向けた。


 晴れ渡る空。風は穏やかで、昼間の日差しは目が眩むほどまぶしい。


 輝く刃はマジックアイテム特有のものか、不思議な光を帯びていた。


 なんていう無垢な輝きだろう。

 使い手の不純さが対比によって浮かび上がるような気がして、直視できない。


 目を閉じた一瞬。


「あ」


 誰かの叫びが聞こえた。


 その叫びは不自然な途切れ方をしていた。唐突に俺の耳でも聞こえなくなったかなと思うほどに、いきなり切れたのだ。


 閉じた目を開く。


 一秒も閉じていなかったと思う。


 しかし、その一瞬で視界は一変していた。


 人が消えていた。

 地面が消えていた。

 空さえ消えていた。


 左手を握ったキリコと、右手で掲げた聖剣と、それから自分の身に付けているもの以外のすべてが消失していた。


 これは。


 これは……


「……異世界転移!?」


 あまりにも見覚えのある漂流。

 めまいさえ覚えるほど懐かしい、世界と世界のあいだの回廊が、目の前にあった。

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