8話 一年と三ヶ月後のあなた/十三年後のあなた

 エイミーが寝静まるまで、さほど時間はかからなかった。


「少し歩くけど、景色のいい場所があるんだ」


 そうやって誘えば、キリコは否もなくついてくる。


 そうして俺たちは、星空の下を少しだけ散策した。


 月明かりに照らされて銀色に輝く草原を見ながら、俺たちは高校時代の話をした。


 共通の思い出は多かったけれど、やはり話は、俺とキリコの関係が始まる原因となった、ある事件に及ぶ。


 けれど、その『事件』は。


「まさかあの時、哲学書のカバーの中に漫画を仕込んでいるのを見られるなんてね……」


 ……ああ、その『事件』は。今の俺の感覚からすれば、とてもじゃないけれど、事件とは呼びようのない、ささいすぎる偶然なのだった。


 哲学書などの難しい本しか読まないと思われていたキリコが、実は、漫画を読んでいた。


 それはたしかにキリコにとって、自分が作り上げた『理知的な美女』というキャラクターを揺るがしかねない秘密だったのだろう。


 当時の俺はその気持ちをなんとなく理解できた。

『作り上げたキャラクターが損なわれる』ことへの危機感を、高校生という属性を帯びた俺は、しっかりと理解できたのだ。


 けれど、三十歳の俺は、そんなもの、放っておいたって大したことがないものだと理解してしまっている。


 そもそも、自分が一生懸命作り上げた、『クール』だとか、『知的』だとか、『格好いい』だとかいうイメージは、自分が思うほど、人の間で浸透していないのが常なのだ。


 それを今の俺は、わかってしまっている。


「……どうしたの?」


 目的の場所が近くなったあたりで、不意にキリコが足を止めた。

 こちらを見る目はどことなく憂いを帯びている。


 俺は、首をかしげた。


「なにが?」


「急に、寂しそうな顔になったから」


「いや。まあ、なんだろう。ただ……自分が歳をとったことを自覚しちゃったんだ」


「もう三十歳だものね」


 そう言ってキリコは笑う。


 俺は、うまく笑えなかった。


 彼女は大したことなさそうに言うけれど、俺にとっては、大したことだった。

 それは、あれほど仲良く遊んだキリコと、もう、同じようにものを感じられなくなってしまったということだから。


「……そろそろ、『大事な話』をしてもいいかしら?」


 キリコは星空を背負って、まっすぐに俺を見る。


 制服姿の彼女。

 異世界の、銀色の草原の中で、二人きり。


 和風というか、古風というか、そういった看板がつく黒髪美人のキリコにまっすぐ見つめられて、俺は一枚の絵画を見ているような、静かな気持ちになっていた。


 ドキドキはしない。

 当事者意識というものが欠如している。


 だって、高校の制服をまとった彼女の姿は、俺が十年前に忘れ去った、もう戻れないはずの過去の象徴なのだ。

 俺にとっての『現実』はいつのまにか、彼女との高校生活ではなく、この世界で過ごした時間になってしまっている。


 夢のような存在となった彼女が、ゆったりと口を開いた。


「少し前まで……あなたにとっての、十年前まで、あなたの運勢を褒め称えてあげようと思っていたの」


「どういう意味だよ」


「だって、ほら、私は綺麗じゃない。こんな私とかかわれた幸運を、これでもかと称えるつもりだったの」


 こいつは自分の容姿に自覚的で、だからこそキャラ作りに余念がなかったとも言える。


 そこには子供時代、『大人びてるのに趣味は子供っぽいね』とかなんとか言われたトラウマがあるという話を聞いたことがある。


 すべての言葉が満遍なく突き刺さる、心の柔らかい時期が誰にでもある。

 そういった時に浴びせられた心ない言葉が、後年にわたって行動指針を決めてしまうことは珍しくないだろう。


 キリコの『外面に気を払う』『漫画やゲームをやっていると人に知られるのは恥ずかしいことだ』という性質も、そういった影響で醸成されたもののように考えられた。


 大人びた美人にも、大人びた美人なりの苦労がある。

 若かった時は雷鳴のような衝撃を伴ったそのアハ体験は、今ではもう、『そりゃあそうだろう』としか思えない、当たり前のこととなってしまっていた。


 俺は。

 きっと、高校生の時なら、恥ずかしがって、うつむくばかりだったはずの俺は、はっきりとうなずいて、答えた。


「うん。お前は綺麗だよ」


「……ああ、本当に許せない。そういうところよ。あなたがそうなってしまったから、私は数ヶ月かけて考えていたプランを練り直さなきゃいけなくなったの」


「ごめんな」


「許せない」


「ごめん」


「あなたじゃない。あなたをこんなところに追いやったものが、許せないの。追いやったどころか、私たちを十年も引き剥がしたものが、許せないのよ」


「それはもう、取り戻せない時間だ」


「取り戻せないことと、許せるか許せないかは、関係ないわ」


「関係はないけれど、それに怒っても仕方がない。……俺にはね、そんなどうしようもないことに怒るエネルギーが、もうないんだ。お前と怒りさえ、共有できないんだよ」


「……やっぱりあなたも、許せない。私がなにを言おうとしてるかわかって、そんなことばっかり言うんでしょう? 『今ならまだ、なにも言わずに戻れる』って、言外でも、言葉でも訴えかけ続けてくる。そういう小癪な大人らしさが、私は絶対に許せない」


「お前はまだ十七、八歳ぐらいだろ。それに、お前の居場所はまだ、こっちの世界じゃないはずだ。でも、俺は、こっちの世界の人になったんだ。捨てられないものがあるし、元の世界に戻れたとしても、もう、そこで生きていく自信もない」


「私だって、一年もこの世界にいたのよ」


「わかってるはずだろ? この世界で十二年経っても、元の世界では三ヶ月しか経っていない」


 それはもちろん、わかっていたようだった。


 キリコは一年前にこの世界に来たと言った。

 俺が失踪して三ヶ月後のことだったと、そう言ったのだ。


 つまり、時間のレートはそういうことだった。

 キリコが向こうの世界で失踪してから、まだまだ全然、時間が経っていないことになる。


「お前はまだ戻れる。俺は、戻る方法が見つかっても、戻らない。こっちで歳を重ねすぎた。……住むべき世界が違うんだよ。近いうちに離れるんだよ。わかってくれ」


「元の世界に戻る方法が見つかるとは限らないでしょう」


「だとしても……」


「黙りなさい」


 彼女は精いっぱいの迫力をにじませて、低い声で言った。


 威圧的で、迫力があって、ついつい従ってしまうような不可思議な力を帯びていたその態度も、今ではただただ、かわいらしく感じるだけだった。


「ねぇ、私は、二度と後悔したくないの」


「後悔しない人生はないんだよ」


「あなたが知らないだけよ」


「ないんだよ。本当にないんだ。俺たちは無数の『もしも、あの時』を魚の小骨みたいに突き刺しながら生きていくんだ。そういうふうに設計された生き物なんだよ」


「……本当に許せない!」


「……」


「あなたが私を勝手に過去にしようとしてることが、何よりも許せない! だって、私は、私にとってあなたは、まだ過去じゃないのに!」


 キリコは、怒声を上げながら、泣いた。


「あなたがいなくなってから、私がどれほど悔いたかわかる? 自分のせいかもって思ったわ。でも、自分のせいじゃないかもって思える瞬間にも、やっぱり悔いたわ。格好ばっかり気にして、言うべきことを言えなかったのを永遠に後悔するって確信した」


「……永遠に後悔するなんてことは、ないよ。いつか忘れる」


「黙って。次に私の許可なく口を開いたら、舌を噛んで死んでやる」


「……」


「格好いい言葉をせっかく考えていたのに、あなたが異世界で十年も過ごしたせいでみんなご破算なの、本当に許せない。今の私は飾り気のない言葉しか持ってないの。勢いをつけないと消えそうな声でしか言えないの。だから黙って静かに聞いて」


「……」


「私の恋人にしてあげる。喜んで承諾なさい」


「……だから、それは」


「黙りなさい。舌を噛むわよ」


「……」


「うなずくだけでいいわ。気の利いた返事なんか期待してない。首を縦に少し揺らすだけよ。簡単でしょう?」


「キリコ、あの」


「誠実なだけの言葉も、空虚な慰めもいらないから。前の世界でも、あなたしかいなかった。異世界に来てまで、あなたしかいない。これに運命を感じないほど私はリアリストじゃないの」


「わかった。でも、少しだけ聞いてほしい」


「一分ならあげる」


 本当にきっかり一分しかくれないだろうことは、経験からわかった。


 だから言葉と気持ちを整理する必要性にかられて……

 俺は、こんな、『景色のいい場所』に彼女を案内した理由を……

 彼女がなにを語ろうとしているのかなんとなく察していたくせに、こんな場所に連れてこようと思った理由を、思い知らされたのだった。


 だから俺は、覚悟を決めた。


「『押し切られて仕方なくオーケーしました』なんていうことにはしたくない。だからちょっとやり直させてくれ」


「どういう意味よ」


「俺の年齢だと、結婚が前提になる」


「……」


「だから……だから……ああ、クソ、俺の中の倫理観が悲鳴を挙げてるんだ! 十三歳差だぞ!?」


「冷静になって。私たちは、同級生」


「……」


「そして、誕生日は私の方が、早い」


「……」


「問題あって?」


「大ありだよ! 大ありだけど……! あのなあ、俺は本当に、お前が知ってる俺とは変わり果ててて……」


「そろそろ一分ね」


「嘘だろ!?」


「それで?」


 意地悪な笑顔だった。

 それは、俺が大好きだった、できればハッキリと『恋人』と思いたかった当時のままの、笑顔だった。

 もう、ダメだった。


「……俺と結婚を前提に付き合ってほしい。お願いします」


 憎たらしいほど綺麗な星空の下だ。

 月明かりをその真っ黒な髪に写しながら、キリコはうなずいた。


 それは首を縦に少し揺らすだけの、簡単な返事だった。

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