第2話

 突然やってきた私を、彼女は笑顔で迎えてくれた。

「いらっしゃい」

「どうも……。気付いたらここに……」

 確かに目的を持ってここに来た。ただ温かい飲み物を飲むだけなら、駅ビルの中で事足りる。今どきはコンビニのコーヒーでさえ充分だ。

 だが、どうしてこの店に来たのか。自分でも訳が分からない。当たりをキョロキョロと見渡してみても、答えはどこにも見当たらない。

「それはそれは。怪我をしていますね、こちらにどうぞ。」

 怪我?

 彼女は私のために椅子を引き、手を取ってくれた。

「あの、すみません」

 我ながら何とも情けない声だった。疲れてなどいないはずなのに、椅子に座った瞬間「やっと休める」と感じていた。バスの中で、あんなに夢の中を泳いでいたというのに。

「さぁ、怪我を見せて。手当をしましょう」

 彼女は私の前に片膝をついて手当を始めた。どうやら足をくじいているらしい。少し擦りむいてもいるようだ。くるぶしに赤い線が何本か入っている。

「ありがとうございます。ここは暖かいですね」

 身体も一瞬で冷えきっていた。

 彼女は治療を続けながら私を見上げ、笑顔だけで応えた。

 丁寧に包帯を巻き、私の顔を見ながら軽く足首を押さえて、私の表情が苦痛に歪むことがないのを確認すると、彼女は二度満足そうに頷いた。

「これでよし。では、暖かいものを持ってきますね」

 そう言って彼女は一旦私のそばから離れた。

 もう一度私は店内を見渡した。私は確かにこの店を知っている。

 中央には二階にのびる緩い弧を描いた階段。その階段のカーブに沿うように置かれたグランドピアノ。

 カウンターに三つ並んだガスバーナーとサイフォン。

 様々なフレーバーシロップや、洋酒類が並んだカウンター。カップやコーヒー豆、茶葉もインテリアの一部のように行儀がいい。

 そのカウンターから、彼女が持ってきたふたつのうちのひとつを私のテーブルに置いた。

 甘い香りが湯気となって部屋中に広がっている。

 私は温度を確認するように、両手で包み込むように持ち上げたカップのふちに唇を付け、息を何度か吹きかけた。

 自分の息の白さなど、遠い海に昇るけあらしほどの濃さもない。目の前で揺れるココアの深い波に、私自身が溶け込んでしまいそうになった。

「どうも。ふぅ、少し落ち着きました」

 落ち着いた?

 私は落ち着く必要があるほど、平静ではなかったのだろうか?

 だが、確かに私は落ち着きを取り戻して気が抜けていた。

 彼女はそんな私を見ながら、もうひとつのものを懐に仕舞い、やはり頷いている。

「それは良かった。お風呂も沸いてますから。ゆっくり入りましょう」

 彼女は食事の準備に取り掛かりながら促した。

「お風呂、ですか……」

 私は胸にざわつきを感じ、俯いた。

「どうしました?」

 彼女はリズミカルな包丁の音を途絶えさせることなく、私の様子を窺っている。

「水が、少し怖くて」

「怖くて」と口にした自分に、恐怖が上乗せされる。怖い。私は、水が怖い。

「大丈夫。ゆっくりでいいので、入りましょう」

 そんな私の気持ちを分かっていると言わんばかりに、彼女は優しく、だが強くそう言った。私には必要な過程なのだ。そう感じたが、恐怖は変わらずそこにある。

「大丈夫」

 彼女は繰り返し優しく促していた。


 私は、人生の選択で、いくつ正解したのだろう。いくつ間違えたのだろう。

 書道を辞め、友達との話題について行くことを選んだ。

 ピアノを辞め、バスケットボールを追いかけることを選んだ。

 高校、大学。選びたかったものが選べていただろうか。

 就職先も、初めての彼も、妥協していなかっただろうか。

「ありがとう」と「ごめんなさい」

 言葉を間違ってはいなかっただろうか。


「お湯加減はどうですか?」

 どうやって私はお風呂に入ったのだろう。外から彼女の声がして、湯船の中で揺れて見える、つるりと丸くふたつ並んだ膝を優しく撫でてみた。

 温かい。

「ええとっても、気持ちがいいです」

 噓ではない。本当に気持ちがよかった。ただ、どうしようもなく寂しかった。

「それは何より」

 脱衣所から聞こえた彼女の声は、笑みを含んでいた。その声に続けて収納扉の開閉音が聞こえてくる。

「さ、温まったら、よく乾かしましょう」

 扉を開けた彼女が、タオルを持って手招きをする。

「そんな、子供じゃないんですから!」

 私はそう言って、彼女からタオルを奪って逃げようと試みた。いや、そう言ったはずだ。だが、次の瞬間には彼女からくしゃくしゃと頭をバスタオルで拭われていた。

「いいからいいから」

 初めは強引に拭かれているように感じたが、何とも言えない懐かしいバスタオルの香りに、私は小さくなっていた。

「なんだか恥ずかしいなぁ」

「恥ずかしい」と口にすることで、羞恥から逃れていたのだろう。

 そして、この時の私は、これが夢の続きなのだと気付いていた。

 あの一階の喫茶店も、階段横に置かれたピアノも、そしてこの夕飯の香りも、私は知っている。

「さ、どうぞ召し上がれ」

 この喫茶店からさらにバスでゆけば、山の中腹に小さな牧場がある。その牧場で作られた生クリームとチーズを使ったシチュー。私の大好物だ。

「わぁ、すごく美味しい!」

 私の笑顔に、彼女の笑顔が増す。

「お口に合って何より」

 彼女もそう言って、シチューを口にする。


 それから何を語っただろうか。良く覚えていない。

 ただ、時は信じられないほど早く流れている。そして、ときにそれは後退する。

 その繰り返しに、私は時折どうしようもなく寂しくなる。

「さぁ、寝ましょう。」

 彼女は灯りを消して、私をベッドに誘った。

「ありがとう。……あの」

 私は書けるべき言葉を探した。彼女の表情ははっきり見えているというのに、その顔はぼやけている。

「えぇ、どうしました?」

 彼女は優しかった。その優しさの源も私は知っている。知っているからこそ、甘えてはいけないと思った。

「いえ、あの、明日にはここを出ますから……」

 私の気持ちを知ってか知らずか、彼女は相変わらず優しい。

「焦らなくて大丈夫。傷が治っても気が済むまでここに居てもいい」

 そう言ってほほ笑む彼女に負けた。

 きっと、この選択は正しい。

「ありがとう、手を握っていてもいいかな」

「ええ、もちろん。おやすみなさい」

「おやすみなさい」


 翌朝は一緒に起きて、一緒に食事をした。

 お風呂に入り、一緒に夕食を食べ、一緒に眠る。

 そういう日々を何日過ごしただろう。

 まだ圧雪され道の上を、ゆっくりと、ゆらゆらと、揺られて、進んでいるようだ。

 菜の花は、まだ咲かない。

「どう? あったかい?」

 お風呂。思えば、湯船に浸かるこの時だけは独りだった。

「冷たいっ!」

「え?」

 思いがけない私の言葉に、彼女は不思議そうな声を上げた。

「あ、違うんです。天井から露が……」

 露が頬に落ち、涙になった。

 手で冷たい涙を拭うと、小さくなっていた膝が、少しヒビが入ったような可愛げのない膝になっていた。

 私は選んで今を生きているのだろうか。

 それとも、選ばれて今を生かされているのだろうか。

 ……どちらでもいいか。

 私は独りの浴槽で思い切り顔を洗った。そして、脱衣所で待つ彼女に精一杯の笑顔でこう言ったのだ。

「今までありがとう、おかげで元気になった。それじゃあ!」

 彼女は、一瞬。ほんの一瞬だけ驚いていたが、すぐにいつもの笑顔になった。

「それは何より。えぇ、それじゃあ」

 そう挨拶を交わして、お互いに笑って私はその店を出ていった。

 彼女は手を振って見送っている。私が見えなくなるまで。

 もうここに来ることはないだろう。

 次に私のもとを訪れるものがなんであっても。

「今」に帰った私を見送った彼女は、ずっと懐に仕舞ってあった春を出した。


 冷たいダムにバスが転落して、たったひとり助かった私。

 私は、明日を生きるために、今に帰ってきた。

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ひとり揺れて 西野ゆう @ukizm

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