第6章 時を渡る者

 フランス、パリの大通りで、ディティは目の前にそびえ立つ、エッフェル塔の頂点を見上げていた。エッフェル塔の頂点に、何かが引っかかっているのが見える。よく目を凝らして見ると、それは茶色の紙袋のようで、風に吹かれてひらひらと揺れていた。


 ディティはその袋を訝しげに見つめている。道行く人々は、道の中央で立ち止まっているディティに対して迷惑そうな表情を浮かべることもなく、無表情でディティを避けて進んでいた。


 ディティは小さくため息をつくと、ゆっくりと足が地面から離れ、宙に浮いて、エッフェル塔の頂点へと飛んでいった。


    ◇


「ただいま~」


 ファントムパラディの森の中に建つ、小さな小屋の扉を開けて、ディティがマライアに声をかけた。その腕には茶色の紙袋を被ったファビュラスベートが抱かれていて、紙袋の下から黒い猫の後ろ足が二本と、上の方に開いた二つの穴から前足が二本飛び出していて、猫のような尻尾がゆらゆら揺れていた。


 ディティは小屋の中を見回してマライアを探したが、マライアの姿はなく、ディティが首を傾げながら小屋の外に出た。


「マライア~?」


 ディティが小屋の周りを見回しながらマライアの名前を呼んだが、マライアからの返事はない。ふと、地面に何かの影を見つけて、ディティが上を見た。


 上空でウサギのようなファビュラスベートの群れが飛んでいる。翼のような大きな耳を羽ばたかせ、真っ白な毛並みを持つファビュラスベートは、ディティに気が付く様子もなく、悠々と空を飛んでいった。


「……天使と悪魔ラパンエルだ……」


 ディティが呟き、ファビュラスベートの群れの中に一匹だけ、ファントムパラディの紫色の太陽の光を反射しているものを手に持った個体を見つけた。よく目を凝らして見ると、それは金色に光り輝くラッパのようで、ディティが顔をしかめた。


「嫌な予感がするな……マライアー!」


 ディティがマライアを呼びながら歩き出す。その時、ガサガサッと物音がして、ディティが音の聞こえた方を向いた。ディティの目線の先には緑色の小山があり、こんなものあっただろうかとディティが首を傾げる。


 不意にガサガサッと先ほどよりも大きな物音が小山の中から聞こえて、小山から白い腕が飛び出した。ディティがビクリと肩を震わせて、しばらくその光景を呆然と見つめた後、はっと我に返り、抱いていたファビュラスベートを地面に降ろすと、飛び出した腕を掴んで、小山の中から引っ張り出した。


 引っ張り出されたマライアは、髪にも服にも緑色の葉っぱや小さな色とりどりの花にまみれていて、ディティがおろおろしながらそれを払い落とす。今朝、ディティが一つに結った髪には葉っぱが絡まっており、着ている白いブラウスと淡い緑のスカートには、花の種のようなものが沢山ついていた。


「な、なにがあったの?」


 マライアが何も言わずに後ろの小山を指さして、小山がもぞもぞと動いたかと思うと、小山が崩れた。緑色の小山の正体は、背中にたくさんの植物の生えた、羊のようなファビュラスベートの群れだった。ファビュラスベートたちは自由に動き始め、草を食べ始めたり、森の中に戻っていったりしている。


「……お昼寝したら、羊の森ムートンフォレに囲まれた?」


 ディティの問いかけにマライアが頷き、ディティが噴き出したように笑う。


「マライアはファビュラスベートに好かれるねぇ。全身、草まみれだ!」


 マライアが不服そうに頬を膨らませ、髪についた葉っぱを払い落とす。その様子をディティが愛おしそうに見つめ、地面におろされて大人しくしていたファビュラスベートを抱き上げた。


「さあて、袋猫サークシャを群れに戻さないとなあ。まったく、いつの間にあっちの世界に行って、風に飛ばされてたんだか……」


 マライアがディティに抱かれたサークシャに興味津々で目を光らせ、袋に向かって手を伸ばす。その瞬間、「フシャー‼」とサークシャが威嚇のような鳴き声を出して、尻尾の毛を逆立てた。ディティが「おっと」とサークシャを抱きなおす。


「ダメだよ、マライア。サークシャの袋は取っちゃダメ。怪我するかもしれないから、やめておいて」


 袋から覗く二本の足から、隠されていた爪が飛び出してきらりと光を放っている。マライアは大人しく手をひっこめて、それでもなお、興味深げにサークシャを見つめた。


Bonjourボンジュール ディティエール・ヴァン・レモンド」


 声が聞こえたかと思うと、ディティとマライアの目の前で紫色の小さな竜巻が巻き起こり、ケインが現れた。ケインは少し乱れた髪を無駄に恰好付けた仕草で治して、ディティに向かって笑みを浮かべる。その腕には布袋を被った白いサークシャが抱かれていた。


「久しぶり、というほどでもないかな?」


「……え、なんでサークシャ抱いてるの?」


「人間界で木に引っかかってるのを見つけたんだよ。君に届けた方がいいと思ってさ」


「あ、あぁ、そう。ありがとう……」


 ディティが少し困惑しながらサークシャを受け取る。


「で、何の御用ですか……?」


「あのサーカスでの一件の後、家に帰ったらパパにこっぴどく叱られてね。いや~、あんなに激怒するパパは久しぶりに見たよ。恐ろしかった……」


 ケインがその光景を思い出したように顔を青くした。


「それで、まあ、君にはいろいろ迷惑をかけたから、こうしてお詫びを、と思ってね」


 ケインが得意げな顔をして指をパチンと鳴らした。すると何もない空間から、色とりどりの宝石のような石が大量に入ったバスケットが出現した。ケインは恭しくディティにお辞儀をして、「どうぞ」とバスケットを差し出した。


「それはクラウンバーク家が管理する鉱脈からしか取れない良質な魔鉱石だよ。ぜひ、活用してくれ」


「……僕は喧嘩を売られていると認識していいのかな?」


「とんでもない!」


「まあ、ありがたく貰っておくよ……」


 ディティが複雑な顔をしてバスケットを受け取る。ふと、ケインがマライアの方を向き、二人の目が合った。


「おや? そちらのお嬢さんは、この前会ったかな?」


 ケインがマライアに向かって笑いかける。マライアは怪訝そうな表情を浮かべ、ディティの後ろに隠れた。


「可愛らしいお嬢さんだ。将来が有望だね」


「はぁ⁈ また殴ってやろうか⁈」


「まあまあ、落ち着きたまえ。僕には心に決めた女性がいるのだよ。逆に、そちらのお嬢さんが美しい僕に惚れてしまわないか心配なぐらいだ」


「よし。殴る」


「ちょっと待って‼」


 ディティが笑顔を浮かべながらケインに向かって一歩踏み出した瞬間、ディティの後ろにいたマライアがケインにサークシャを投げつけ、サークシャがケインの顔面に飛びついた。


 サークシャは爪を立ててケインの顔に貼り付いて、ケインが「イタタタッ‼」と情けない声を出す。やっとのことでサークシャを引っぺがしたケインの髪は、サークシャが飛びついたせいでぐしゃぐしゃになっていた。


「君の周りは少々やんちゃな女性が多いようだね、ディティエール・ヴァン・レモンド」


「そりゃ、どーも」


「ところで、ここにソフィーさんはいないのかい?」


「あの暴力的な幼馴染のこと? さあ、最近は会ってないよ」


「そうか……」


「あのさ、もう一回忠告しておくけど、本当にソフィーだけはやめておいた方がいいよ」


「なにを言う! 僕は生まれてこの方、あんなに強く美しい女性を見たことがない! 彼女こそ僕の運命の人だ!」


「……そう。それなら、いいんだ」


「それともなんだい? まさか、君と彼女はそういう関係……⁈」


 ケインの真剣な表情にディティが一瞬驚いたように目を見開き、ふき出したように声を上げて笑い出した。


「あはは‼ 僕とソフィーが⁈ ないない‼ 僕なんかじゃ手に負えないよ‼」


 ディティは腹を抱えて笑い、目に浮かんだ涙を拭うと、マライアを抱き寄せた。


「それに、僕にはマライアがいるからね」


 マライアは何も言わず、ただ抱きしめられている。ケインが安堵したように胸を撫でおろした。


「それなら構わないよ。何度か彼女に会いに行ったんだけど、なぜかいつ行っても留守でね。もしかしたら避けられているのかもしれないと思って、理由を考えていたんだけど、彼女に恋人らしき人がいないのなら、僕の杞憂だったようだ」


「うん。それは避けられていると思うよ」


「ああ、愛しのソフィーさん! 運命が二人の再開を拒もうとも、僕は必ずあなたの元へとたどり着きましょう!」


「聞いてないねぇ」


「なに騒いでるの?」


 聞こえた声にケインが目を輝かせ、ディティが深いため息をついた。森の奥からロイ、ロト、ロキを連れたソフィーが現れ、ケインの姿を見て顔をしかめる。ソフィーの腕には、新聞紙を被った茶色のサークシャが抱かれている。


「なんであんたがここにいるの?」


「ソフィーさん! 奇遇ですね!」


「ねぇ……僕の家を集合場所みたいに使うの、やめてくれない?」


「失礼な。私はちゃんと用があってきたのよ」


「どうして皆さん、もれなくサークシャを拾ってるの……?」


「散歩していたら木に引っかかっていたの」


「ありがとうございました……」


 ソフィーに抱かれたサークシャは、隣にいるロイ、ロト、ロキに怯えているのか、ぶるぶると震えており、ディティが手を伸ばした瞬間に、逃げるようにディティの腕に飛び込んできた。紙袋と布袋のサークシャはディティの足元に隠れている。


「ソフィーさん。この後お暇でしたら、一緒にティータイムでもいかがですか? 美味しいケーキをご馳走しますよ」


「あら、嬉しい申し出。だけどごめんなさい。私、本当にあの子を届けに来ただけだから。帰らせてもらうわ」


「では、お送りいたしますよ」


「結構よ」


「そうおっしゃらず。女性をお一人で帰すなど、紳士の風上にも置けません。帰り道に何かあったら大変です」


「それは、杞憂と言うものですわ」


「あのう……お二人とも早く帰ってくれませんかねぇ……」


 ディティが深いため息をつく。その時、大人しく三人の話を聞いていたマライアが、何かに気が付いた様子で空を見た。


 ゴーン、ゴーン、ゴーン、ゴーン……


 不意に大きな鐘の音が聞こえてきた。


「ん?」


「なんの音?」


 ケインとソフィーが不思議そうな表情をして、ディティの顔を見ると、ディティは青冷めて目を見開いていて、ただ事ではない様子に二人の表情が険しくなった。


「……時を渡る者トラヴェルセだ……」


「なに、それ?」


 ソフィーが問いかけたが、ディティはそれを無視してコートの中から本を取り出すと、慌ただしくページをめくり始め、あるページで手を止めた。そのページには金色の不思議な文字が浮かび上がっており、ケインが首を傾げる。


「まずい……まずい、まずい‼」


「ちょっと、なに? あの音はなんなのよ?」


「うわああ、どうしよう⁈」


「だから、説明しろって言ってんのよ‼」


 取り乱すディティの頭をソフィーが勢いよく叩いた。ケインが大きな声に驚いて、肩をビクリと震わせる。


「あんたが慌ててちゃ、なにもわかんないでしょ‼」


「ご、ごめんなさい……えっと、今の鐘の音は時を渡る者トラヴェルセっていうファビュラスベートが現れる合図なんだよ」


「それの何がダメなの?」


「トラヴェルセはちょっと厄介なファビュラスベートで、時空の流れに逆らって進み続けるファビュラスベートなんだ」


「時空に逆らう?」


「そう。だからトラヴェルセが通った世界には時空の穴が開くんだ。今回、鐘の音がファントムパラディで響いたってことは、トラヴェルセがファントムパラディに現れるってことで、そうなるとまず間違いなくトラヴェルセはファントムパラディの隣にある人間界にいくから、二つの世界の壁に穴が開くんだよ!」


「……それってつまり、人間界にファビュラスベートが流れ込む、または人間がこっちに来てしまうってこと?」


「そういうこと! だからやばいんだよ‼」


 ディティが大声を上げた瞬間、遠くの方からズシーンという大きな音が聞こえて、ディティがさらに青冷める。ディティが上空に飛び上がって音がした方を見ると、ファントムパラディの森に生えたどの木よりも大きい穴が開いていて、穴の中は銀河のような空間が広がっていた。


「やばい‼」


「で、私たちはどうしたらいいの?」


 ディティを追いかけて飛んできたソフィーが問いかける。ケインもついてきて、大きな穴を見て目を見開いた。


「えっと……とりあえず、トラヴェルセはファントムパラディを通過した後、間違いなくあんな感じで穴を開けながら人間界に行くから、人間界にいって、なんとかして穴を塞がないといけないんだけど、そうなるとファントムパラディに開いた穴は放置になってしまって、ファントムパラディに他の世界からなにかしらのものが流れ込んだり、ファビュラスベートが異世界にいってしまう可能性が高いぃ……‼」


「とりあえず、穴を塞げばいいのね。そこのお坊ちゃん!」


「……あ、僕ですか?」


「あんたしかいないわよ。あんたなら時空の穴を塞ぐぐらい造作もないでしょ。こっちに開いた穴、塞いできて」


「え?」


「私たちは人間界の方を対処するわ」


「ちょっと待って、ソフィー! そんな簡単にできることじゃないって……‼」


「できるでしょ?」


 ソフィーがさも当然というようにケインに言い放ち、それまで呆然と話を聞いていたケインはにやりと笑うと、恭しくお辞儀をした。


「もちろんです」


 その時、穴の中に黒い影が現れ、穴から大きなファビュラスベートが出てきた。細く長い四本足に、三つ目の鹿のような頭を持つファビュラスベートは、身体が白く発光しており、全体に青白い謎の文字が浮かび上がっている。細長い尻尾のようなものには金色に光る鐘がかかっており、ファビュラスベートが動くたびに大きな音をあたりに響かせた。頭に生えた二本の角は六つに枝分かれしており、金色の文字が浮かび上がっている。


「うわあ‼ 来たぁ‼」


「うわあ、じゃないわよ。あんたが慌ててちゃどうしようもないでしょ」


「僕だってこんなの初めてなんだよ! トラヴェルセの横断なんてそうそう見れるもんじゃないんだから! 本に書いてあるのを見ただけなの‼」


「じゃ、お願いね。お坊ちゃん」


「おまかせあれ」


 ケインが目にも止まらぬ速さで穴に向かって飛んでいった。


「さて、私たちも人間界に行きましょう」


「大丈夫かなぁ……」


「大丈夫よ。ちょっと頭が弱いけれど、クラウンバーク家の一人息子よ」


 ソフィーはそう言うと、パチンと指を鳴らした。次の瞬間、ディティとソフィーは人間界のエッフェル塔の目の前に立っていた。マライアも一緒に連れてこられたようで、呆然とした表情でディティの隣に立っている。


「鐘の音が聞こえたら来るのよね」


「そうだけど……うわぁ、厄介だぁ……」


「情けないわね」


「マライア、離れちゃダメだからね」


 ディティの言葉にマライアが頷く。その時、大きな鐘の音が響いて、ディティの表情が険しくなった。


 三人のすぐそばに、大きな次元の穴が開き、中からトラヴェルセが現れた。エッフェル塔よりも少し大きいトラヴェルセは圧倒的な存在感を放っているが、道行く人々はその存在に気が付かない。トラヴェルセは穴から出てくると、ずしん、ずしんと大きな足音と鐘の音を響かせながら、悠々と歩き出した。


「あれを閉じればいいんでしょ」


「うん……」


「いいわ。やってあげる——」


 ソフィーがそう言った瞬間、トラヴェルセが開けた時空の穴から、大量のファビュラスベートが飛び出してきた。薄い布のような長いヒレを持つ、魚のような姿をしたファビュラスベートたちは、パリの上空に飛び出し、風に攫われて四方八方に飛んでいく。


「あ、最悪……‼」


「え? なに?」


漂う群れフロートポアソンの進行方向に次元の穴を開けたんだ‼」


「はぁ⁈」


「こんなに大量のファビュラスベートがこっちに来てしまったら、世界の均衡が保てなくなる‼」


 焦りを浮かべるディティのことなど露程も知らず、フロートポアソンたちは青い空を漂っていき、トラヴェルセは悠々とパリの街を歩いていく。トラヴェルセがエッフェル塔に近づき、ぶつかるかと思われたが、トラヴェルセの身体はエッフェル塔をすり抜けた。


「どうしよう‼」


「どうしようじゃなくて、どうにかするのよ‼」


 ソフィーが空に向かって片手をかざし、上空に光を放つ魔法陣が現れた。魔法陣から光の糸のようなものが無数に伸びてきて、上空を漂っているフロートポアソンたち網で捕らえるように包み込もうとしたが、フロートポアソンはそれをすり抜ける。


「あ、ソフィー‼ フロートポアソンに魔法は効かない‼」


「はあ⁈ なにそれ面倒くさ‼」


「ソフィーは穴を閉じて‼」


「わかってる‼」


 ソフィーが手を穴の方に向けると、穴を囲むように魔法陣が出現し、穴が少しずつ閉じ始めた。


 ディティがコートの中から本を取り出してページを開こうとした時、ディティの視界の端で人影が動き、ディティがぎょっとしてそちらに目を向けた。ディティの隣に立っていたマライアが不意に走り出し、時空の穴に近づこうとしている。


「マライア⁈」


 マライアはディティの声を無視して穴に近づいていくと、穴のすぐそばにいた小さな女の子の手を握り、女の子が驚いてマライアの方を向く。マライアの行動の意図に気が付いたディティが何かを叫ぼうとしたが、マライアと女の子は閉じかけている穴に吸い込まれるように姿を消し、時空の穴が完全に閉ざされた。


「くっそおおお‼」


 ディティの悲痛な叫び声があたりに響いた。


    ◇


 マライアがゆっくりと目を開ける。手に何か温かい感触を感じて隣を見ると、先程とっさに手を握った女の子が「んん……」とうめき声を出しながら目を開けようとしていた。


 マライアと女の子が倒れていた場所は、薄暗く不気味な森の中。黒くてゴツゴツした葉のついていない木が生い茂り、足元の地面は硬くて石がごろごろ転がっていて、空気は重く、あたりから不気味な獣の唸り声が聞こえてくる。マライアがその光景に表情を曇らせ、不安げに辺りを見回した。


「……ここ……どこ……?」


 ゆっくりと身体を起こした女の子がマライアの顔を見つめて問いかけた。


「お姉さん、誰……?」


 マライアがどう答えればいいかわからす、困ったような表情をして女の子を見つめる。マライアの様子に女の子の瞳にじわじわと涙が浮かび、ついに泣き出してしまった。マライアが慌てふためく。


「ママ……‼ パパ……‼ 怖いよぉ……‼」


 女の子が声を上げて泣き出す。その声は不気味な森に響き渡り、二人の近くから獣の鳴き声が聞こえてきた。マライアが青冷める。


「……大丈夫だから、泣かないで」


 マライアが女の子と目線を合わせるためにしゃがみ込み、女の子の手をぎゅっと握った。マライアが優しく微笑み、女の子の頭を撫でる。


「大丈夫。一緒にいるから怖くないよ」


「でも……」


「怖くない、怖くない。ほら、泣かない強い子には、甘い飴をあげよう」


 マライアがポケットの中から飴を取り出し、女の子に渡した。それはマライアが持っていた最後の一つであり、マライアの口の中にあった飴も、すでに溶けて消えていた。


 女の子はマライアから渡された飴を口の中に入れる。食べたことがない不思議な味だったが、どこか安心するような優しい甘さが口の中に広がり、女の子の涙が止まる。マライアが安堵して立ち上がると、女の子と手を繋いで歩き出した。


「行こう。大丈夫。きっと、ディティが来てくれる」


 マライアの言葉はどこか不安げで、自分に言い聞かせるように言っているように聞こえた。不気味な森の中から恐ろしい獣の声が聞こえてくる。


    ◇


 エッフェル塔のすぐそばに開いた時空の穴はソフィーによって閉ざされたが、フランス、パリの上空で大量のフロートポアソンは悠々と泳ぎ続けており、トラヴェルセは鐘の音を響かせながら歩いていた。


「ディティ‼ ディティ‼」


 マライアが穴に飲み込まれたことで思考が停止し、その場に立ち尽くしていたディティにソフィーが大声を上げる。


「マライアは⁈」


「……たぶん、ファントムパラディに飛ばされてる。最悪の場合、禁足地、恐怖の巣窟オルールニドとかに飛ばされててもおかしくない……」


「だとしても、あんたはこの状況をどうにかしないといけないでしょう⁈」


 ソフィーの言葉にディティが拳を握りしめた。


「でも、マライアが危ない目に合っているかもしれない‼」


「あんたはアドミニストレーターでしょ‼ 世界の均衡を保つのが役目‼ マライアは私が探すから、あんたはすべきことをして‼」


 ソフィーはそう言うと、マントをひるがえしてその場から消えた。ディティは歯を食いしばりながら本のページを開いた。


「アドミニストレーターの権限として、ファントムパラディおよび、汝の干渉を許可する」


 本のページが光り輝き、ディティの紺色の瞳が輝く。


雲虫ニュアージュアレニエ


 本のページから、人の手の平ほどの大きさがある、金色の蜘蛛のようなファビュラスベートが数匹飛び出した。


 ニュアージュアレニエたちは上空に向かって飛んでいくと、白い雲の中に潜り込み、雲から蜘蛛の巣のような白い糸が伸びてきて、雲の下にいたフロートポアソンを大量に捕らえた。


 ディティが捕らえられたフロートポアソンたちに向かって本をかざし、フロートポアソンが本のページの中に吸い込まれていく。その間にトラヴェルセがパリの街並みを横断していくと、バリバリと音を立ててトラヴェルセの進行方向に穴が開いた。トラヴェルセは悠々と穴の中へと進んでいき、しばらく進むとその姿は穴の中に消えていった。


 全てのフロートポアソンが本の中に吸い込まれ、ニュアージュアレニエも本の中に戻っていって、ディティは本を閉じると、トラヴェルセが開けた穴の方に向かっていく。穴の前にたどり着くと、表情を強張らせて穴を見上げた。


「……ソフィーなら、秒で終わらせたんだけどな……」


 ディティの頬に冷や汗が伝い、コートの中からケインにお詫びとしてもらった紫色の魔鉱石を一つ取り出して、穴に向かってそれをかざした。


「早くしないと、マライアが危ない……無能だろうが何だろうが、ごたごた言ってる場合じゃないだろ、僕‼」


 魔鉱石が光り輝き、穴の周りを囲むように魔法陣が出現した。ありったけの魔力を注ぎ込んでいるディティの額に玉のような汗が浮かび、手に持っている魔鉱石にひびが入ったかと思うと、魔鉱石が弾けて、穴を取り囲む魔法陣の光りが弱くなった。ディティが苦々しげな表情を浮かべ、コートの中から魔鉱石を大量に取り出すと、それら全ての魔力を使って、魔法で時空の穴を閉ざそうとした。


 しばらく時間が経ち、ディティがもはや自力で立つことが困難になってきた時、ようやく次元の穴が閉ざされた。その瞬間、ディティは膝から崩れ落ちそうになり、なんとか持ちこたえ、肩で息をしながら大きく息を吸った。


「……マライアを……助けに行かないと……」


 ディティは何度か深い深呼吸をすると、表情を引き締めて前を向き、次の瞬間、ディティはファントムパラディの小屋の前に立っていた。少しふらつきながら、ディティが体勢を持ち直す。


「……さて、ファントムパラディに禁足地はいくつある? 恐怖の巣窟オルールニド騒然密林ブリュイアンジャングル地獄の門ラ・ポルト・ドゥ・ロンフェール……山ほどあるな……」


 ディティがもう一度大きく息を吸うと、両頬を叩いて気合を入れなおした。


「マラン‼」


 ディティの声に反応して、ディティの指示ですでにファントムパラディでマライアを探し回っていたマランが、コートのポケットの中から飛び出した。


「マラン、マライアはどこ?」


 ディティの言葉にマランが「キキッ」と小さく鳴いて、森の奥へと走っていくと、プティと同じ種族の妖精のようなファビュラスベートを連れて戻ってきた。それはプティと同様にマライアの耳飾りとしてついていたミミというファビュラスベートだった。ミミはディティを案内するように数回頭上を旋回すると、森の中へと羽ばたいていく。


「マライア……無事でいてね……」


 ディティが険しい表情でつぶやき、ミミを追いかけて走り出した。


    ◇


 不気味な森を、女の子とマライアは手を繋いで歩いていた。どこまで行っても森が続いており、重い空気と硬い地面は二人の体力を削り、女の子は時折小さなしゃくり声を上げて涙ぐんでいた。その様子をマライアは心配そうに見つめながら、どうすることもできず、ただ歩き続けるしかなかった。


「……お姉さん……疲れた……」


「え?」


「足痛い……もう、やだあ……!」


 女の子がその場に座り込んで泣き出してしまった。


「ご、ごめんね? 疲れたね。ちょっと休憩しようか」


 女の子がマライアの言葉に首を横に振る。


「もう帰りたい……! お腹すいたぁ……!」


 女の子の悲痛な叫びに、マライアが困り果てた表情をして女の子の頭を撫でようと手を伸ばした瞬間、マライアの口から何かが飛び出した。


「きゃあっ⁉」


 女の子がマライアの口から飛び出したものに悲鳴を上げる。マライアが口から飛び出したものを受け止めて見てみると、それは黒く大きな羽で、目を見開いた。


「お、お姉さん、大丈夫……?」


 視界の端が黒く染まり始め、マライアが驚いて目をこすったが、視界は戻らない。マライアのライトグリーンの瞳が、端から黒く染まり始めていた。


「お、お姉さん……」


 女の子が心配そうにマライアの顔を覗き込む。その時、二人のすぐそばで、大きな獣の鳴き声が聞こえた。二人が息を飲み、声が聞こえた方を向いた。


「……離れないで」


 マライアの言葉に女の子がマライアのそばに来て、ぎゅっと手を握る。女の子の手が震えていて、マライアの声も少し震えていた。


 二人の目の前に大きなファビュラスベートが現れた。真っ黒な毛並みの大きな猿のような身体に、山羊のような頭を持つファビュラスベートは、明らかな敵意を持って、真っ赤に光る目で二人を睨みつけていた。額から二本の内巻きの角が生え、上下に生える四本の牙が口からはみ出しており、鋭い牙は噛みつかれでもしたらひとたまりもない。荒い鼻息は二人にかかりそうなほどで、細く長い尻尾は硬い地面を打ち付けている。


「オオオオゥッ‼」


 ファビュラスベートが雄叫びを上げ、女の子が両手で耳を塞いだ。マライアが女の子を守るように立ちふさがり、ファビュラスベートを睨みつける。ファビュラスベートが地面を蹴り、二人に向かって突進して来た。


 女の子がぎゅっと目を瞑り、マライアの手を強く握りしめた瞬間、驚くべきことが起こった。


 突如、マライアの背中から大きな孔雀のような黒い羽が生え、威嚇するように広がった。ファビュラスベートが驚いて動きを止める。女の子が小さな悲鳴を上げながら尻餅をついた。


 マライアのライトグリーンの瞳は黒く染まり、手や顔を覆うように黒い羽毛が生えてきている。苦しげにせき込むと、マライアの口から羽が飛び出して、女の子が後退った。


 マライアがファビュラスベートの方を見て、その鋭い眼光にファビュラスベートが怯み、踵を返して逃げ出した。


 女の子はマライアを食い入るように見つめ、マライアが女の子の方を向いた。その目から黒い涙が流れていて、女の子はあまりの恐ろしさに何も言えず、涙を流す。


「……に……げて……」


 マライアがかすれた声でそう言ったが、女の子は腰が抜けていて動けない。マライアの手が鳥の手のように変化していく。背中から次々と羽が飛び出し、マライアの身体が覆われていった。


 その時、風が吹いたかと思うとマライアの後ろにディティが現れ、マライアを後ろから抱きしめて両目を隠した。


「大丈夫。大丈夫、マライア。僕が助けてあげるから」


 ディティがマライアに優しく囁き、マライアの目を隠しているディティの手の甲に魔法陣のような紋章が浮かび上がって光を放つと、その光がマライアの身体を包み込む。


「アドミニストレーターの権限として、汝を封印より解き放つ」


 女の子はすでに失神しており、意識を失っていた。ディティがマライアの小さな身体を強く抱きしめる。


堕ちし者ファミーヌ


 マライアの身体から大きな黒い影が飛び出し、天に向かって昇っていった。マライアの背中から飛び出した羽や羽毛が消え、気を失ったマライアがディティにもたれかかる。


 天に昇っていった影は上空で弾け、黒い幕に覆われたようにファントムパラディの空が黒く染まった。


「キャアアアアッ‼」


 上空で聞こえた悲鳴のような鳴き声に、時空の穴を閉じ終えたケインと、マライアの姿を探していたソフィーが空を見上げる。森の中からファビュラスベートの驚いたような鳴き声が聞こえてきた。


 ディティが顔をしかめ、気を失ったマライアを見つめると、小さな身体を強く抱きしめた。


    ◇

 サークシャ『袋猫』

 様々な袋を被る習性があるファビュラスベート。袋の下と穴から猫の足と尻尾のようなものが飛び出している。袋の中を見ようとすると必死で抵抗し、鋭い爪で攻撃されるため、袋の中身を見た者はいない。体重がとても軽いため、風に乗っていろんな場所に飛ばされる。基本的にどこかに引っかかっているので、見つけ次第助けてあげよう。


 ラパンエル『天使と悪魔』

 大きな耳と白い毛並みを持つ、ウサギのような姿をしたファビュラスベート。耳が翼のような形をしており、空を飛ぶことができる。天使の起源と思われるファビュラスベート。稀に黒い毛並みを持つ、悪魔と呼ばれる個体が生まれ、それを見てしまうと不幸になるとされる。一匹だけラッパ吹きと呼ばれる金色のラッパを持った個体がおり、ラッパ吹きがラッパを吹くと世界が終わるとされている。


 ムートンフォレ『羊の森』

 背中にたくさんの植物が生えた羊のようなファビュラスベート。内巻きの二本の角が生えている。背中に生える植物は個体によってさまざまで、花が咲くものもいれば、木が生えるものもいる。動くたびに植物の種が落ち、ムートンフォレが通った場所には植物が生えてくる。ムートンフォレが死ぬとその死体から植物が生え、その一帯が森になる。


 トラヴェルセ「時を渡る者」

 細く長い四本足に、三つ目の鹿の頭を持つ、山のように大きいファビュラスベート。身体中に青白い謎の文字と、六つに枝分かれした二本の角に金色の紋章が浮かび上がっており、文字は解明されておらず、なにが書かれているかはわからない。時空の流れに逆らいながら世界を横断し続けており、尾にかけられた鐘の音が聞こえたら、トラヴェルセがやってくる合図。世界を横断する際、時空の大穴を開けていくため、トラヴェルセが通った世界には異世界から未知のものがやって来てしまうことが多い。世界を横断し続ける理由はわからない。地域によっては神として崇められている。


 フロートポアソン『漂う群れ』

 薄い布のような長いヒレを持つ、魚のような姿をしたファビュラスベート。空を漂いながら群れで移動し、一つの群れには百匹以上が存在する。魔法による干渉を受け付けないため、捕獲の際は網を用いること。


 ニュアージュアレニエ『雲虫』

 ファントムパラディの雲の中に住む、金色の蜘蛛のような姿をしたファビュラスベート。人の手の平ほどに大きさがある。雲の中で作る糸は強い耐久力を誇るが、雲でできているため数時間も経てば水蒸気になって消える。


 オグルシュヴロー『恫喝の悪魔』

 ファントムパラディの恐怖の巣窟オルールニドに住む凶暴なファビュラスベート。黒い毛並の大きな猿のような身体と、山羊のような頭を持ち、額から太い内巻きの角が二本生えている。上下に伸びる四本の牙は鋭く、鞭のように太く長い尻尾が生えており、目は真っ赤に染まっている。気性がとても荒いので出会えば一巻の終わり。

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