第4章 ガラス細工の初恋を

 フランス、パリの街の中。一人の少年が、パンが大量に入った大きな茶色の紙袋を持って、あたりに良い香りを漂わせるパン屋から飛び出した。


 使い古された茶色いぶかぶかのコートに、サスペンダーのついたショートパンツを身に着けた少年は、栗色のくせ毛に明るい茶色の瞳を持っている。ドアについたベルが、チリンチリンと音を出した。


「リュカ! 忘れ物!」


「え?」


 店の中から聞こえた声に、リュカと呼ばれた少年が立ち止まり、扉を開けて店内に戻る。パン屋の女店主が小さな布袋を持って、カウンターの向こうで手を振っていた。


「大事な命綱を忘れるんじゃないよ」


「わぁ! ありがとう、おばさん! 無一文になるところだった!」


 リュカが女店主から布袋を受け取り、袋の中から小銭の音が聞こえた。リュカは何度も女店主に頭を下げると、店から飛び出し、大通りを歩き始めた。


 馬車が車道を走り抜けていく。気さくな女店主からもらった、紙袋の中の廃棄予定だった大量のパンにリュカは目を輝かせ、パンを一つ取り出すと、嬉しそうにかぶりついた。


 そのまま大通りをそれて路地へと入っていき、複雑に入り組んだ細い路地を迷いなく進んでいったリュカは、ふと、目の前に落ちている不思議な物体に目をとめた。


「なんだろう?」


 不思議に思って近づいていくと、それは、両手サイズの緑色の粘液のようなものの塊だった。よく見れば、球体のように固まった半透明の粘液の中に、小指サイズの赤ん坊のようなものが見える。


 不思議な物体は弱々しく動いており、リュカは恐る恐る指を伸ばして、その物体を突いてみた。物体はプルンと動き、その不思議な感触に、リュカが少し驚いて指を離す。


「なに……これ……」


 リュカが困惑した声を出す。物体は弱々しく動いて徐々にリュカに近づいていき、リュカの持つパンに向かって、粘液が伸びてきた。


「……お腹、すいてるの……?」


 リュカは少し考えて、まだパンはたくさんあるのだからと、手に持っていたパンを差し出した。粘液がそれを受け取り、球体のような身体に取り入れて、中心にある小さな赤ん坊の元へと運んでいく。赤ん坊はピクリと小さく動いたかと思うと、運ばれてきたパンを受け取って、食べ始めた。


「……」


 リュカはその様子に目を奪われ、ただその場でパンが食べられていくのは眺めていた。


 すると、分厚い雲に覆われたどんよりとした空から、小さな雫がリュカの鼻先に落ち、リュカがはっとして空を見上げる。雨は徐々に強さを増し始め、リュカは慌てて走り出そうとしたが、パンを食べ続けている不思議な生き物の方を見て、そっと手を伸ばした。


 不思議な生き物はなんの抵抗もなくリュカの手のひらに収まり、崩れてしまうかと思われた粘液の塊は、ゼリーのような質感を保ったまま、リュカの手の上で震えている。手の平に冷たい感触を感じながら、リュカは強くなる雨を避けるように走り出した。


    ◇


 家にたどり着いたリュカは、テーブルの上に布切れを引いて、その上に緑色の不思議な生き物を置いた。路地の奥にある、古く狭い空き家の埃っぽい部屋の中、時折入り込んでくる隙間風がリュカの髪を揺らす。


 濡れたコートを脱ぎ捨て、パンをテーブルの上に置いたリュカは、不思議な生き物をまじまじと見つめる。パンを食べて満足したのか、不思議な生き物は大人しく布の上に乗っていた。


「君はいったい何者なの?」


 リュカの問いかけに生き物は答えない。リュカが人差し指で突くと、ゼリーのような身体がプルプルと震えた。


「持ってきちゃったけど、よかったのかなぁ……でも、あのままにしたら雨で濡れちゃうし……」


 生き物は答えない。中央にいる小さな赤ん坊のようなものは、小さく丸まって目を閉じている。


「……プルプル……プルル……プルルにしよう。呼びずらいから」


 リュカは生き物に名前をつけ、じいっと見つめ続けた。家の外では雨が強くなり、家がガタガタと揺れている。ところどころで雨漏りし始め、家の床が濡れていった。リュカはお腹がすくまで、ずっと不思議な生き物を見つめていた。


    ◇


 朝日とともに起床したリュカは慌ただしく仕事に向かう準備をしていた。適当に袋から取り出したパンを口の中に放り込み、ふと、テーブルの上を見る。


 連れて帰って来たプルルは昨夜から変わりなく、テーブルの布切れの上でじっとしている。リュカがプルルに近づいて、人差し指で突いた。


「プール―ルー」


 プルルはなにも反応を示さない。しばらくプルルをつついていたリュカは、はっと我に返り、慌ててコートを取ると、扉を開けて外に出ようとした。そしてなにかに気が付いて顔だけを扉から覗かせると、プルルに向かって「行ってくるからね!」と声をかけ、足早にその場を去っていった。


    ◇


 夕方、工場での労働を終わらせ、家の前に帰ってきたリュカは、扉の前に動物の羽や毛が落ちていることに気が付いた。慌ててリュカが家に入った瞬間、野生の猫や鳥が慌てた様子で飛び出してきて、リュカが驚いて尻餅をつく。


「いてて……」


 リュカが腰をさすりながら立ち上がり、室内を見回す。部屋の中は動物の毛や羽が散乱しており、テーブルの上にいたはずのプルルがいなくなっていた。リュカがぎょっとして部屋の中を探し始める。


「プルルー! プルルー!」


 プルルが呼びかけに答えるはずもなく、リュカは部屋の中のものをひっくり返しながらプルルを探す。しばらく慌ただしく探し回って、リュカは部屋の隅で不自然に膨らんでいる布切れを見つけた。


「プルル?」


 リュカが布切れを剥ぎ取ると、中から震えているプルルを見つけた。リュカがそっとプルルに手を伸ばすと、プルルはそれに気が付いたのか、緑色の粘液を伸ばしてきた。粘液はリュカの手を握るように掴んで離れない。


「……襲われたの?」


 口らしき器官を持たないプルルは答えない。リュカはそっとプルルを持ち上げ、ボロボロのソファーに腰掛けると、膝の上にプルルを乗せて、プルルのひんやりとしたゼリー状の身体を撫でた。


「大丈夫。僕が守ってあげるから」



 にっこりと笑いながら、リュカは膝の上に乗せたプルルを見つめた。


    ◇


 プルルを拾ったその日から、リュカはプルルと一緒に暮らした。工場での労働を終わらせると真っ先に家に帰り、プルルとともに夕飯を食べる。


 何度か野生の動物が家に侵入し、プルルのことを襲ったが、そのたびにリュカが動物を追い払い、プルルのことを守った。プルルは口も耳もないため、話すことも、リュカの声に反応を示すこともなかったが、身寄りもなく、友達もいないリュカにとって、プルルは徐々にかけがえのない存在になり、家族に近しい存在になった。


 プルルは日を追うごとに少しずつ大きくなっていき、中心の赤ん坊も少しずつ大きくなった。それに伴い、粘液は緑色から透明に変化していき、リュカはプルルを心配しながらも、どうすることもできず途方に暮れていた。


 ある日の朝、リュカはプルルが部屋の隅から動かないことに気が付いた。


「プルル?」


 リュカが心配しながら近づいていくが、プルルはピクリとも動かず、その場でじっとしている。リュカが覗き込むと、プルルの粘液の一部が繭のように変化し、壁に張り付いていた。粘液の中の赤ん坊も目を閉じて眠っているように見える。


「プルル? どうしたの?」


 心配そうにリュカが問いかけた瞬間、コンコンと扉をノックする音が聞こえ、リュカがビクリと肩を震わせて扉の方を見る。


「すみませーん。いらっしゃいますか~?」


 若い男の声が聞こえ、リュカが慌てて駆け寄って扉を開けると、目の前に白いぼさぼさの長い髪を低い位置で一つにくくり、年季の入った薄汚いコートを着た、胡散臭い笑顔を浮かべる男が立っていた。よく見れば男の後ろに金髪の美しい少女が立っている。腰に赤いリボンが巻かれている真っ白なワンピースに、黒い編み上げブーツを履いて、髪をお下げに結った少女は、エメラルドグリーンの瞳でリュカのことを見つめていた。


「早朝から申し訳ありません。こちらに何か、不思議な生き物はいませんか?」


 男の言葉にリュカが目を見開いた。男はニコニコと胡散臭い笑顔を浮かべたまま、リュカの返答を待っている。


 リュカは首を横に振り「い、いませんっ!」と言って勢いよく扉を閉めた。しばらくリュカは扉の前で聞き耳を立てて様子を見ていたが、しばらくすると二人分の足音が遠ざかっていく音が聞こえた。


 リュカが胸を撫でおろし、部屋の隅のプルルに近寄っていく。動かないプルルを心配そうに見つめ、その日は労働にも行かず、ずっとプルルのそばにいた。やってきた男の正体はわからないが、リュカは嫌な胸騒ぎを覚え、夜も眠れなかった。


「……大丈夫だよ。僕がずっと一緒にいてあげるから」


 動かないプルルを優しく撫でながら、リュカは不安を振り払うように強く目を瞑った。


    ◇


 その日からプルルは一切動かず、餌も口にせず、ずっと部屋の隅でじっとしていた。日に日に粘液は繭に変わっていき、ついにその姿は繭に包まれた蛹のようになって、大きさも人間の幼児ほどの大きさに変わった。


 リュカはできるだけプルルのそばにいたが、何日も工場に行かないわけにもいかず、後ろ髪を引かれる思いで家を出て行った。そして、その日の早朝、リュカが家を出ていくのを確認し、路地の物陰から出てくる人影が二つ。


「さて、お邪魔しますか」


 マライアを連れたディティは悪びれる様子もなく扉に手をかけ、部屋の中に入っていった。マライアもそれに続いて部屋に入る。部屋を見回したディティは部屋の隅にある蛹を見つけ、近づいていった。


「これは……たまげたなぁ。開花前の蛹エクロージョンがここまで成長して蛹になれるなんて……」


 ディティが蛹をまじまじと見つめながら呟く。マライアも興味深げに蛹を見つめていた。よく見れば、蛹には小さな亀裂が入っており、ディティがそれに気が付いて蛹を覗き込んだ。


「すごい……すごいよ、マライア! この蛹、羽化寸前だ! こんなのめったに見れるもんじゃないよ! すごい……!」


 ディティが目を輝かせてマライアにそう言ったが、マライアは部屋を見回しており、ディティの話しを聞いていないようだった。ディティが少し寂しそうな顔をして、蛹のほうを見る。その瞬間、蛹が音を立てて裂け始めた。


 バリバリと繭の真ん中に亀裂が入っていき、ディティの目が蛹に釘付けになる。あたりを見回していたマライアも蛹に目を奪われ、見入っていた。繭の亀裂は大きくなり、中が見え始める。繭を破って出てきたのは、美しいファビュラスベートだった。


 人間の女性に似た上半身に、脚はなく、花のつぼみのような下半身。腕の先は布のようになっていて、風でヒラヒラと揺らめく。ブロンドの癖のある長い髪に、頭からは下向きに伸びる触覚が生え、瞳は薄いガラスのように光を反射していた。なによりも目を引くのは、背中から生えた、薄いガラスのような、蝶に似た美しい羽。光を反射し、透けて見える翅脈は虹色に輝いている。


「……すごい……」


 ディティがその美しい姿に見とれ、感嘆の声を漏らした。マライアもファビュラスベートに見とれている。繭から出てきたファビュラスベートは、不思議そうに二人を見つめていた。


「すごいよ、本当に……。ガラス細工の蝶ルヴェールマカオンをこんなに近くで見れるなんて……」


 ディティがルヴェールマカオンに近づこうと一歩踏み出し、ルヴェールマカオンが怯えた様子で身構えた。


「大丈夫だよ。何もしない。君を君がいるべき場所に送り届けるだけだよ。あの少年には申し訳ないけれど——」


 不意に聞こえてきた大きなカラスの鳴き声に、ディティがバッと振り返る。部屋の扉を睨みつけ、マライアも不安そうな表情をした。


その瞬間、何か大きなものが扉に体当たりした音が響き、扉がバキバキバキッと音を立てて壊れ始めた。ディティが青冷める。


「まずいっ……‼」


 ディティが呟き、コートの中から本を取り出そうとしたが、ふとマライアがディティの後ろを指差していることに気が付き、振り返る。そこには、壊れた窓枠から外に出て飛んでいこうとしているルヴェールマカオンがいた。


「ちょっ⁉ ちょっと待って‼ どこいくの⁉」


 ディティが慌てて止めようとしたが、ルヴェールマカオンは止まろうとせず、窓枠から飛んで行ってしまった。羽化したての羽では上手く飛ぶことができないのか、少しふらついている。


 マライアが窓枠に駆け寄っていき、空へと昇っていくルヴェールマカオンを見て、扉が大破する音を聞いて振りかえる。大破した扉の奥には、人の倍以上の大きさがある、真っ黒の羽を持った双頭の巨大カラスのようなファビュラスベートがいた。赤い目を血走らせる双頭のファビュラスベートは、青冷めているディティを静かに睨みつけている。


「……マライア、動いちゃダメだからね」


 ディティの緊張した声が響き、双頭のファビュラスベートが大きな鳴き声を上げた。


    ◇


 部屋から飛び出したルヴェールマカオンは、フラフラと頼りない羽ばたきで空を飛んでいき、大通りを走っていくリュカを発見した。工場に向かって急いでいるのか、リュカは大通りを歩く人々を追い抜かしていく。


 ルヴェールマカオンはフラフラとリュカに近づいていこうとしたが、頼りない弱々しい羽ばたきではなかなか追いつけない。徐々に離れていくリュカに、ルヴェールマカオンが悲しそうな顔をして、届くはずのない手を伸ばした時、ルヴェールマカオンのガラスのような右目の瞳に、ビキッとヒビが入った。


 ルヴェールマカオンが驚いて止まる。右目から砕けた欠片が落ち、太陽の光を反射した。


 その時、なにを思ったのかリュカが立ち止まり、空を見上げてルヴェールマカオンに気が付いた。ポカンとした表情でルヴェールマカオンを見つめるリュカに、ルヴェールマカオンは嬉しそうな顔をして近づいていき、その頼りない羽ばたきに、リュカがオロオロしながらルヴェールマカオンがたどり着くのを待つ。


 ルヴェールマカオンはフラフラとリュカの元にたどり着き、両手を伸ばしていたリュカの胸に飛び込んだ。嬉しそうに頬を摺り寄せながら抱き着いてきたルヴェールマカオンを受け止めて、リュカは困惑している。


「もしかして、プルル……?」


 リュカの問いかけにルヴェールマカオンが大きく頷く。リュカは通り過ぎていく人々が不思議そうにルヴェールマカオンを見ながら通り過ぎていくのに気が付き、慌ててルヴェールマカオンを抱きかかえたまま細い路地に入っていって人目を避けた。


「え、え? 本当に? 本当にプルルなの?」


 ルヴェールマカオンは嬉しそうに笑顔を浮かべている。


「……すごく綺麗になったね」


 リュカがルヴェールマカオンの背中に生えた美しい羽を眺めながら言った。ルヴェールマカオンがリュカの顔に手を伸ばし、布のような手の先がリュカの頬を撫でる。ルヴェールマカオンは愛おしそうな表情を浮かべてリュカを見つめ、リュカの頬が赤く染まった。


 その時、リュカの頭上に黒い影が落ち、リュカが空を見上げる。上空の巨大なカラスの赤い目とリュカの目が合って、リュカがヒュッと細い息を吸い込んだ。


 巨大カラスが大きな鳴き声を上げ、リュカに向かって急降下してくる。リュカがルヴェールマカオンを抱きしめて、硬く目を瞑った瞬間、カラスを追ってきたディティが手に持った黒い鞭のようなものを振り、鞭がカラスの足に巻きついた。


 ディティが力一杯鞭を引いたが、振り返ったカラスがディティを睨みつけ、脚を振って鞭を引きちぎった。


「ギャアアアッ‼」


 甲高い鳴き声が響く。ディティは素早く千切れた鞭から手を離し、コートの中から手鏡を取り出して、カラスに向かってかざした。ディティの方を向いていたカラスの姿が鏡に映り、赤い瞳に自分の姿が映った瞬間、双頭のカラスの頭の一つが石のように変わり始めて動きを止めた。


「君‼ 頼むから、ルヴェールマカオンを姫を守る騎士フルーシュヴァリエに返して‼」


 ディティがリュカに叫び、リュカがビクリと肩を震わせた。ディティのコートはところどころ破けており、顔にも小さな傷がついている。石化部分にヒビが入り、動きを止めていたフルーシュヴァリエと呼ばれたファビュラスベートが動き始めた。


 その様子を見ていたリュカは、ぎゅっとルヴェールマカオンを抱きしめ、震えそうになる声を絞り出し、叫んだ。


「嫌だっ‼」


 そして、脱兎のごとく走り出す。後ろから「ちょっと待って‼」というディティの声が聞こえたが、リュカは無視して走っていった。


 後ろでフルーシュヴァリエの鳴き声が聞こえたが、聞こえないふりをして、震えてもつれそうになる脚で必死に走っていく。


「僕が……僕が守るんだ……‼」


 そう呟きながらリュカがルヴェールマカオンを抱きしめて路地の角を曲がった瞬間、目の前にマライアが現れた。マライアはリュカの進行を阻むように両手を広げて立っている。リュカが驚いて立ち止まり、マライアの姿に踵を返して逃げようとしたが、リュカの前にフルーシュヴァリエが降り立った。


 フル―シュヴァリエは血走った赤い目でリュカを睨みつけ、低いうなり声を出す。リュカは怯えながら後退ったが、ルヴェールマカオンは渡さないと言うように、フルーシュヴァリエを睨んだ。


 その様子にフル―シュヴァリエが唸りながら一歩踏み出し、「ギャア」と一声鳴いた。


 その時、今までリュカの腕の中で動こうとしなかったルヴェールマカオンが動き出し、リュカの腕をすり抜けて、フルーシュヴァリエに近づいていった。


「プルル‼」


 リュカが悲鳴に近い声を出し、それを止めようとしたが、ルヴェールマカオンは止まらずに、フルーシュヴァリエのもとにたどり着く。フルーシュヴァリエの鋭い嘴がルヴェールマカオンをついばもうと光り、リュカが悲鳴を上げたが、嘴はルヴェールマカオンを傷つけることはなく、そっとルヴェールマカオンの腕をつまむと、フルーシュヴァリエはルヴェールマカオンを自分の背中に乗せた。


「……え?」


 リュカが間の抜けた声を出す。


「いたたた……」


 すると、フルーシュヴァリエの後ろから、ボロボロのディティが左腕を押さえながら現れた。


「あ、君! 怪我してない?」


「え、あ、はい……大丈夫……です」


 リュカが困惑しながら答える。ディティは胸を撫でおろしながら、マライアに向かって手招きをした。マライアはなんの躊躇いもなく走り出し、フルーシュヴァリエの方に近づいて行って、リュカがぎょっとした顔をする。


 マライアはフルーシュヴァリエの横を通り抜け、フルーシュヴァリエもマライアに対してなんの反応も示さずに、背中に乗せたルヴェールマカオンを心配するように嘴で突いていた。


「あ~、よかったぁ……僕以外、みんな無事で……」


「あ、あの……あなたは誰なんですか……? それに、その大きな鳥と、プルルは……」


「あぁ、申し忘れました。私はディティエール・ヴァン・レモンド。世界の管理人、アドミニストレーター。魔法使いです」


「魔法……?」


 リュカは訝しげに眉をひそめたが、目の前の巨大カラスやプルルのことを思い出し、もう何が起きてもおかしくないと納得した。ディティのもとにたどり着いたマライアが、心配そうにディティを見つめている。


「この子たちはファビュラスベートと呼ばれる別世界の動物です。ルヴェールマカオンとフル―シュヴァリエ。こんななりですが、この大きな鳥にルヴェールマカオンに対する敵意はありません。この二つの種族は共存関係ですから。ただ、少々気性が荒いので……」


 ディティが左腕をさする。ルヴェールマカオンを取り戻したフルーシュヴァリエは大人しく羽を休めていた。リュカは説明について行けず、ただただ困惑している。


「巣からいなくった一匹を探し回って人間の世界に無理矢理入り込んだようですね……探し出すのに苦労しましたよ……」


「え、あの、じゃあ、プルルは……」


 リュカの言葉にディティが少し悲しそうに微笑んだ。リュカの胸にモヤッとした不安が広がる。


「それについては残念ですが……ファビュラスベートと人間は、本来関わってはいけないもの。それが世界の均衡を保つための定めです。ですから、あなたにはルヴェールマカオンについてのすべての記憶を忘れてもらわねばなりません」


 ディティの言葉にリュカが目を見開く。


「そ、そんなっ……嫌、嫌です‼ 僕はプルルと……」


 泣きそうな顔をしながらリュカは必死に訴えるが、ディティは悲しそうな笑顔を浮かべ、首を横に振った。


「僕は、プルルとずっと一緒にいるって約束したんだ……‼」


「それは、叶えられません。あなたとルヴェールマカオンは住む世界が違います。一緒にいることはできないんです」


 リュカはまだディティに訴えかけようとしたが、ディティはそれを遮るように「プティ」と呟き、ディティの耳飾りとしてその場にいたプティがディティのもとを離れてリュカに向かって飛んでいく。リュカが驚いて身構えたが、プティはリュカの頭上を旋回して羽の鱗粉を振りかけた。


 その瞬間、リュカの意識は遠のいて、リュカが最後に見たものは、どこか悲しそうに微笑む、美しいプルルの表情だった。


    ◇


 目を覚ましたリュカは、いつもと同じ、狭くて汚い自分の家のベッドの上にいた。慌てて飛び起きたが、自分が今まで何をしていたか思い出せず、自分がなぜ飛び起きたのかもわからなかった。


 リュカは不思議に思いながらもベッドから降り、ふと部屋の隅に目が行く。その理由もわからなかったが、リュカは突き動かされるように部屋の隅に歩いていき、何かを探そうとして、自分がなにを探しているのか思い出せず、首を傾げた。


「……時間! 仕事行かなきゃ!」


 リュカが慌てて仕事に行く準備を始めようとしたとき、視界の端にきらりと光る何かを見つけた。不思議に思ってリュカが手を伸ばしつまみ上げると、それは薄いガラスのような美しい羽の欠片のようで、虹色の翅脈が透けて見える。


 それが一体何かわからず、リュカはしばらく羽を眺めたが、気が付けば、瞳から涙がこぼれていた。


「え⁈ 僕、なんで……」


 自分の涙の意味も分からず、リュカは困惑しながら涙を拭う。それでも涙は止まらずに、リュカはよくわからない衝動にかられ、準備もしないまま家の外へと飛び出した。


 細い路地を抜け、大通りに出ると、朝から労働に向かうために、人々がせわしなく歩いている。リュカはわけもわからず空を見上げ、手に持った羽の欠片が輝く。


「大丈夫ですか?」


 ふいに声をかけられて、リュカが声の聞こえた方を向くと、白いぼさぼさの髪を低い位置で一つにくくり、着古されたコートを着た男が立っていた。リュカはまだ自分が涙を流していることに気が付き、慌てて涙を拭う。


「だ、大丈夫です!」


「そうですか……」


 ふと、男がリュカの持っている羽の欠片に気が付き「それは?」と問いかける。


「あ、よくわからないんですけど、なんだか大切なもののような気がして……変な話ですよね」


「……いいえ」


 男が柔らかく微笑む。リュカはその男とどこかで会ったことがあるような気がしたが、どうしても思い出せない。男はリュカの片手を開かせると、そこに羽の欠片を乗せ、優しく握らせてリュカの目を真っすぐ見た。男の紺色の瞳がリュカの瞳に映る。


「大切にしてくださいね」


「え?」


 リュカが問いかける暇もなく、ふいに強い風が吹き、目を瞑った。目を開くとそこに男の姿はなく、リュカは驚いてあたりを見回して男の姿を探す。


 リュカが違和感を感じて手を開いてみると、握っていたはずの羽の欠片には紐が付けられており、首からかけられるネックレスに加工されていた。


 リュカは不思議に思いながらもネックレスを握りしめ、悲しいぐらいに晴れわたっている空を見上げた。


    ◇

 エクロージョン『開花前の蛹』

 緑色の粘液の塊のようなファビュラスベート。ゼリーのような質感をしており、人の両手の平ほどのサイズをしている。中に核と呼ばれるものがあり、よく見れば小さな胎児のような姿をしていて、それがエクロージョンの本体。核を覆う粘液は自在に動くが防御力は皆無に等しい。核は大変美味なため、他のファビュラスベートに食べられてしまうことが多く生存個体はとても少ない。生き残ることができれば粘液は繭に変わり、蛹になる。


 ルヴェールマカオン『ガラス細工の蝶』

 蛹になったエクロージョンが羽化した成体の姿。上半身は人間の女性のような姿をしており、脚はなく、下半身は花のつぼみのようになっている。腕は退化していて、薄い布のようになっており、背中から薄いガラスのような、蝶に似た羽が生えていて、翅脈は虹色に輝く。人間の幼児ほどの大きさになるため、外敵から身を隠すことは難しい。羽や瞳はとても脆く、手足が退化しているため、羽が割れると自分で移動することはできない。どこまでも弱く、繊細なファビュラスベート。


 フルーシュヴァリエ『姫を守る騎士』

 ルヴェールマカオンと共存する、双頭の巨大カラスのような姿をしたファビュラスベート。光物を集める習性があり、ルヴェールマカオンの羽に魅入られている。エクロージョンを自身の巣に運び、大切に育てて生かし続け、ルヴェールマカオンに成長させる。ルヴェールマカオンの羽が割れた場合でも、ルヴェールマカオンの寿命が尽きるまで世話をし続け、割れた羽の欠片を使って美しい巣を作り上げる。ルヴェールマカオンが進化を止めたのは弱い存在のまま守ってもらうためと推測でき、ルヴェールマカオンが巣から逃げたり、攫われたりすると、死に物狂いで探し出す。

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