第11話
揺れる車内で、僕の心は強く固まっていた。窓の外で流れる景色は、酷く憂鬱で、寂れたものに見える。僕らは普段そこで生活を営んでいるのだと思うと、酷く不自然な感覚に苛まれた。
後ろには、僕と同じくらいの歳の男が立っている。僕はそれを背中で感じ、また意識していた。もしかすると、その男の中では本能的な殺意が解放されていて、通りすがりの僕をナイフで刺すかもしれなかった。そう考えると、僕は背中を無防備にすることが、出来なかった。
体勢を変え、正面に男が位置するように図った。男はイヤフォンを耳にし、スマートフォンを触っていたが、僕が動くと、彼の指は一瞬止まった。僕はそれを捉え、緊張を感じた。息が浅くなり、視界が軽く歪みだした。
僕はしばらく緊張を保ったまま、男の動向を見ていたが、不自然なところはなかった。彼の指が止まったのは、目の前の人間がいきなり動いたことに対する、生体的な反応に過ぎないようだった。僕は安心し、体の硬直した筋肉を解いた。浅かった息は戻り、視界は元の状態を再構築しだした。世界は緩慢に、変化を繰り返していた。
少しして、電車が止まった。僕が降りる駅はその次だった。幾らかの乗客が電車を降り、5人の乗客が目の前の扉から乗った。僕は新たに乗ってきた人たちに紛れ込むように、意識した。扉がそれを咎めるように音を立てて、閉まった。
電車は再び動き出し、車内にアナウンスが流れた。中国語のアナウンスに切り替わった時、人と人の隙間から、先程の男の表情が動くのが見えた。そこで、僕は彼が中国人だったのだと思った。
車内は静かだった。誰も喋っておらず、電車の揺れる音のみが空間を支配していた。窓の外には量感に充ちたビル群がそびえ立ち、その圧の中から音の気配を感じた。あえて大きめに咳払いをすると、隣に立っていた中年の女が睨みつけてきた。僕は女にも聞こえるように、舌打ちをした。僕は、世界に対して反抗したかった。
車内の端の席に、母親と息子の親子が座っていた。少年は母親の隣で熱心にゲーム機を触っていて、母親はその隣で斜め下の床の一点をジッと見つめている。少しするとゲームオーバーになったのか、少年は不機嫌そうに足をばたつかせた。母親はそれを制止し、周囲に謝罪しながら、少年を叱った。少年は唇を尖らせながらも、ゲーム機を閉じた。母親は微笑み、少年の頭を撫でた。
僕にもあのような時代があっただろうか? そして、あったとしたら、それはどれほど前のことだろう? 僕はそのように考え、自分の記憶には濃い霧が立ち込めていることに思い当たった。僕は母親の記憶を少しずつ、しかし確実に忘れていた。
電車が減速し始めた。そこで僕は、もうすぐ駅に到着するのだと思った。電車は橋の上の線路を走っていて、下には絶え間なく車の走る道路が見える。僕の目の前には、その道路を見下ろすようにビルが建っていた。ビルが作り出す影に飲み込まれた地上は、黒々としていて、いやに不気味だった。
電車が止まり、目的の駅に着いた。僕の右隣りに立っていた女が車内から降りた。僕もそれを追いかけるようにして下車した。冷たく乾いた空気の中に突然入り込んだからか、肌が引き締まるのを感じた。
隣の車両から、喫煙室で出会った男が出てくるのが見えた。僕は彼に見つかりたくないと思い、下車する人とこれから乗車しようとする人とでごった返している場所に潜り込んだ。僥倖と言うべきか、男は僕に気が付かずに、階段を降りた。心臓が、不自然に鼓動していた。
――あいつ、お前のこと見抜いていたな、と声は言った。
――適当を言っているだけだろ、と僕は思った。見抜けるわけがないんだ。
――どうだろうな。
声は笑っていた。僕はそれに苛立ち、声に対し怒鳴りつけてやりたいと思った。しかし、僕が今いるのは駅のホームで、そんなことは出来るはずがなかった。
次々と人が吸い込まれていく階段を僕は降りた。そして、人が階段を踏む音に耳を澄ませた。硬質なその音は、僕の耳元でがなる声をかき消した。
その時、視界の端に何かを捉えた。何か異様な存在が、僕の横を通り抜けたような、そんな感覚に支配されたのだ。脇の下が冷たい汗で濡れた。僕は灰色の夢の中でそうであったように硬直した体を、無理やり動かして、振り向いた。そこには純夏がいた。間違いはなかった。
今だ、と僕は考えた。今だ、今殺さなきゃダメだ、おれはあいつを殺すんだ・・・・・・僕の中で殺意が膨張していた。それは周囲にこだまする足音を飲み込み、僕の中に静寂を作った。ポケットの中で指を動かした。階段を降りきり、電光掲示板を見た。彼女が向かったホームを5分後に通過する電車があった。僕は振り返り、彼女を追った。
階段を上っている間、僕は最初に赤子を見た時のことを思い返した。僕の背中をなぞった青白い光と暗闇にぼんやりと浮かぶ赤子の輪郭は、僕の頭の中で生々しく再生された。僕はずっと赤子を怖れていた。彼女が赤子を自らに宿すイメージは、僕の情緒を何度も破壊した。が、今はもう怖くはなかった。それは僕の意思で殺すことの出来る、脆弱な存在に過ぎなかった。
階段を登りきり、周囲を見渡した。一瞬、僕は彼女を見失ったかと思った。が、やがて、ホームの端の方に立ち、スマートフォンを見ている純夏を見つけた。僕は反対側の線路にやってくる特急列車に乗るために並んでいる客を盾にしながら。彼女に近づいた。一両分の距離を詰めると、そこに立ち食い蕎麦の店があったので、その影に隠れ、壁にもたれた。近くに立っていた女が怪訝そうに僕を見た。ため息をつき、目をつむった。僕はそこで30秒を数え、再び距離を詰めた。彼女は酷く遠い場所に立っているように感じられ、僕は空間が歪んでいるんじゃないかと思った。「おい」突然、声がした。「おい、危ねえな、前見て歩けよ、前を」僕はその声視驚き、視線を彼女から目の前にずらした。そこには30代ほどの男が立っていた。どうやら、僕は彼とぶつかりそうになったようだった。「すみません」と僕は言った。「すみません、少しボーっとしていて」男は不満そうな顔で、若え奴はよお、と呟いた。その時、僕は何故かそれが滑稽に思え、鼻で笑ってしまった。「おい、何がおかしいんだよ」と男は言った。男は怒りで、汚れたスーツの肩を震わせていた。僕にはそれがますます滑稽に思え、笑いが止まらなくなった。「おい、なんだよ・・・・・・なんなんだよ!」男が腕を上げ、それを僕に振りかざした。僕はその腕を掴み、強く握った。痛っ、と男は大きな声を上げた。周囲がざわつき、多くの視線が僕らに注がれるのを感じた。純夏の方を見ると、彼女はイヤフォンを耳に付け、こちらに気が付いていなかった。僕は、この騒ぎを大きくして、彼女に気が付かせることを想像した。混乱するホームと、それに気が付き、僕の存在を認める彼女、そして怯えに顔を歪ませる彼女・・・・・・僕は首を振った。違う、そうじゃない、彼女は悪くない、何も気が付かないうちに、静かに殺さなきゃいけない、僕はそう思った。手を離した。突然に解放された男の腕がだらんと垂れた。彼はもう片方の手で握られた部分を抑えた。「次は殺すぞ」と、僕はそう吐き捨てて、その場を離れた。周囲の人間は安心したように、前に向き直った。男だけが、その場で呆然と立ち尽くしていた。
僕は着実に純夏に近づいていた。既に彼女との間隔は、距離にして、10メートル程だった。僕は人陰に隠れ、徐々に彼女の背後に近づいた。完全に彼女の背後に立った時、時間は残り一分に迫っていた。彼女は僕に、全く気が付いていなかった。ポケットの中の手には。男の腕を掴んだ感触が残っていた。僕はポケットから手を出し、ズボンで拭った。男の感触を、この手から失くしてしまいたかった。ようやく手に新しい感覚が宿り、彼女を殺す準備が出来ると、僕は煙草の煙を吐くみたく、宙に息を吐いた。息は前よりもずっと白く立ち上った。季節は変わったのだ。ふと、このまま僕ももろとも、線路に落ちて死ぬのもありかもしれないと思った。僕には、生きる理由が無かった。しかし、やがて思い直した。僕には、彼女が赤子に対して責任を果たすのを見送る、義務があるはずだった。一緒に死んでしまっては、それは叶わないと思った。掌に息を吹きかけ、何度か握り、覚悟を決めた。その時、電車が駅に近づく音が聞こえた。やっとだ、僕はそう思い、手を彼女の背中にかざした。やはり、彼女は気が付く様子が無かった。
やがて、電車が僕の目に入った。車体は、窓に太陽の光を反射させていた。光はあらゆる生命の明滅を象徴するように、近づいていた。そんな光を孕んだ空気の中で震える僕の息が、彼女の髪を静かに揺らしていた。
僕はそっと目を閉じた。彼女が振り返った気がしたが、よくわからなかった。
夜の住処 青豆 @Aomame1Q84
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