第2話
このようにして昨日のことを思い返すと、やはりあの時赤子はいたように思える。僕は朝起きて、まずそのことについて検討してみた。恐怖もあったが、僕の心に第一としてあるのは、あの出来事の真偽を追求しなければならない、ということだった。
一限に講義が入っていたが、昨日飲み会に参加している時点で、出席する気はなかった。なので、予定は実質的にないと言えた。僕は布団に入ったまま、ゆっくりと思案した。時計を見ると、もう一〇時だった。
立ち上がり、レーズンの入ったベーグルをオーブンで焼いた。じじじじじ、という音を聴きながら、やはり僕は昨日のことを考えていた。そして、ベーグルが焼きあがった時、やはりあそこには赤子はいたのだ、と結論付けた。
しかし、そうなると、僕はあそこに赤子が放置されているのを放っておいたことになる。そこで、それは、例えば刑事的な責任が問われるのだろうか、と思った。だが、僕が昨日あの公園の便所にて赤子を発見したことなど、誰が知ることが出来るだろう? 考えた末、僕が何らかの罪に問われることはないだろう、と思った。
スマートフォンを確認すると、五分前に哲学から連絡が入っていた。『今日の授業、出ないの? レジュメ、貰っておくか?』と表示があった。
哲学というのは、僕の友人のニックネームだった。出席率の低い『西洋哲学史』の講義を、一度も欠かさず出席しているから、そう呼ばれているのだった。今日僕がサボったのも、その『西洋哲学史』だった。アプリを開き、返信をしようと考えた。
『二日酔い。頼む』と僕は送った。すると、数秒も待たずして、『了解』と返ってきた。
哲学なら、昨日の話をどう捉えるだろう、と僕は考えた。もしかすると、哲学的な視点から、こちらをあっと驚かす面白い解釈を与えてくれるかもしれない。実際、哲学はそう期待させるような人間だった。
僕は今まで、『西洋哲学史』を一度も欠席したことが無く、サボるのは今日が初めてだった。そして、それは哲学がいたところが大きかった。授業はパワーポイントの音読に過ぎなく、つまらなかったが、授業終わりに聞く彼の考察は中々に面白かった。
「カントってのはさ、すごいよ」と哲学は言ったことがあった。「カントは、わからないことなんて考えるな、ってそれまでの哲学を否定したんだろう? 疑うのがデカルトの哲学だったけど、カントの哲学はもっと大きいよな、うん。それまでの軌跡を、全部ひっくり返したんだからさ、すごいよ、本当に」
それが学問の解釈として正しいのか、僕にはよくわからない。いいや、むしろ彼の言うことは、とても一般的なものに思えた。教授の語るつまらない話から、それをくみ取れるのであれば、それは評価してもいいと僕は考えていた。事実、哲学の言うことであれば、僕でも理解することが出来た。つまるところ、一般的とはそういうことだ。
僕は体に疲れを感じていたが、もしそうじゃなければ、今すぐにでも彼に昨日の話をしたい、と思った。赤子を放置した、というのでは具合が悪かったが、そういう幻覚を見たのだ、ということにすれば、問題はないはずだった。大事なのは、僕の目に赤子の影が映ったという事実なのだ。それが本物であれ、幻影であれ。あらゆる事象には、何らかの意味付けがされているはずだ、というのが、僕の考えだった。
ベーグルを一口かじり、レーズンの酸味を感じながら、体をもう一度ベッドに投げた。昨日シャワーを浴びずに寝たので、居酒屋で纏った煙の臭いや、夜の空気の匂いを、枕から微かに感じた。そこで、あとでシャワーを浴びた方がいいな、と思った。
ひとまず、考えるのをやめることにした。僕は自分の生活を営む必要があった。床に散乱した昨日の服が、生活の乱れを証明しているように思えた。僕はそれらを掴み、洗濯機に投げ入れた。そうすることで、少しだけ生活を取り戻すことが出来たような気になった。
洗濯機を覗き込むと、五日分の洗濯物がこんもりと溜っていた。やる気が遠のきそうになったが、必死にしがみついて、気力を維持した。洗濯物が溜っている、という事実は、想像以上の精神的な苦痛だった。
三限に講義が入っていたので、それには出席するべきだった。『経済学』、大して興味のある内容でもないが、講義毎に短いレポート課題を提出しなければいけなかった。哲学は僕と同じ学部だったので、同じ講義を取っているはずだ。そこで、昨日の話をしてみればいい。哲学に赤子の話を聞かせることに、何故こんなにも執着しているのか、自分でもよくわからなかったが、とにかく心が解放を欲しているのは確かなようだった。
スマートフォンを開き、哲学に、『三限は顔出すよ』とメッセージを入れた。
『おっけい』と哲学は返した。
『レポート、流石に書かないとまずいからな』
『それな、あの授業だるいよ、本当に』
僕はアプリを閉じた。そして、二時間半後にスマートフォンのアラームをかけた。昼までもう一度寝て、講義を受けよう、と計画を立てた。スマートフォンを充電器に繋ぐと、体が眠れと号令を出し始めた。それに従い、目をつむり、眠気に体を授けた。そのまま二時間半、僕は深い眠りに落ちた。憂鬱な眠りは、まるで僕の意識を永遠に沈めようとするかのように深く、暗いのだった。
目を覚ました時、頭は驚くほど冴えわたっていた。まるで、対岸に小さく島が見える海辺のように澄んでいて、見通しが良かった。僕は冷蔵庫から、ペットボトルに入れていた水道水を取り出して飲んだ。喉を水が通ると、頭の片隅にわずかに残っていた眠りと夢の欠片が剥がれていくように感じられた。
シャワーを浴びて寝癖を直し、服を着替えた。そして洗濯機を回した。帰ってきたときには洗濯は終わっているだろうが、仕方がない。僕はリュックサックに教科書だけ突っ込み、家を出た。やはり昨日の雨で地面には薄く氷が張っていた。風があり、大学までの道のりは寒かった。
大学には、あえて遠回りの入り口から入った。僕が向かうのは三号館だったが、その経路が一番人と会わずに済むのだ。もう一つの入り口を通れば、近くにある校舎と繋がった地下鉄の駅から多くの人間がなだれ込み、うんざりさせられるに違いなかった。
目当ての教室に辿り着き、既に席を取っていた哲学の隣に座った。哲学は僕に気が付くと、おはよう、と言い、『西洋哲学史』のレジュメを渡してきた。僕はそれに礼を言い、軽くレジュメに目を通した。それで大体の講義の様子は想像することが出来た。教授が著中に挟む咳払いさえ想像できることに気が付き、自分でも驚いた。
「お前、飯食ったの?」と哲学は僕の目を見て言った。「今、一時前だけど、寝てたんだろう、どうせ?」
僕は頷いた。
「朝食べるの遅かったし、別にいいと思ってさ」
「不健康だなあ。俺、一日二食の生活続けたら、げっそり痩せて、健康診断の時焦ったぜ」
「僕はもともと痩せてるからな」
「それ以上痩せたらなあ」
哲学はそう言って、僕の身体のラインを眺め始めた。「うん、これ以上痩せたら、内臓をしまう場所がなくなるよ」と彼は言った。気を付けるよ、と僕は答えたが、その一方心のうちでは、自分が痩せていき身体が壊れていくのを、快感に思っていることに気が付いた。それは生活を取り戻したい、という思いに矛盾するように感じられたが、感情の発露は自分ではどうにもできない。仕方のない事なのだ。
やがて講義が始まったが、僕は話をほとんど聞いていなかった。哲学に、昨日のことをどう話せばいいか、ずっと考えていた。哲学はつまらなそうな顔をしながらも、ノートを取っていた。僕は小声で、後でレポート書くとき見せてくれ、と言った。哲学はこちらを向き、頷いて、またノートに目を落とした。
結局のところ、最初から少しずつ話していく他ないように思った。僕に話術があるならば、何か効果的なディレクターズカットをなすことが出来るのだろうが、生憎そんな技術は持ち合わせていなかった。僕は昨日の出来事を今一度思い返した。現実味を欠いた、しかし生々しいリアルを僕に押し付けるその状況が、言語化されて僕の頭の中で再構成された。
講義は終わり、適当にレポートを書いて提出した。僕も哲学も、今日は他に講義が入っていない。話す時間は取れるはずだ、と僕は考えた。
「なあ」と僕は切り出した。「流石に少し腹が減ったし、食堂に行かないか?」
「食堂? でも、俺は食わないぜ」
「話したいことがあるから、付き添ってくれればいいんだ」
そう言うと哲学は若干不思議そうな顔をしたが、やがて頷いた。僕らは教室を出て、食堂へと向かった。食堂に着くと、僕は適当なメニューを注文し、奥の方の席に座った。人が少なく、話を聞かれそうな感じのしない場所だった。
「それで、話ってのは?」
僕が箸を取り、竜田揚げ丼を食べようとすると、哲学は言った。僕は箸を置き、少し息を吸って、それから言った。
「昨日さ、妙なことがあってさ」
「妙なこと?」
「ああ、妙なこととしか言いようがないんだ」
それから僕は、昨日起こったことを、ほとんどありのまま伝えた。しかし、僕は事実よりも、自分が酒に酔っていたかのように伝えた。それを僕の幻覚として片付ける以上、そのような編集作業は必要であった。もちろん、嘘にならない範囲でではあるが。
「なるほどなあ」と話を聞いて、哲学は言った。「確かに妙ではあるかもな」
「例えばなんだが」と僕は言った。「もし、この話が小説だったら、お前はこれを、どういう作者の意図だと解釈する?」
「ふうん。・・・・・・お前の言いたいことはなんとなくわかったよ。そういう幻覚を見るなら、それなりの理由があるってことだろう?」
「そういうことだ」
「そうだなあ・・・・・・俺だったら、自分の内面の具現化と解釈するなあ。というか、その状況なら、大抵はそう解釈されて然るべきなんじゃないか? 赤子だろ、例えば・・・・・・そうだな、自分の幼さの暗喩だとかさ」
「僕もそれは少し思った。あれは僕自身なんじゃないか、って」
「ならそれでいいじゃないか?」
そこで、僕は期待していたような答えを得られなかったことを悟った。僕の心はたちまち無機的な失望にみたされた。しかし、食堂まで連れてきた手前、それを察せられないようにする必要があった。僕は小さく笑い、そうだな、と言った。
丼ぶりを急いでかき込んでしまうと、僕らは食堂を後にし、地下鉄の駅まで向かった。哲学は僕と違って、地下鉄に乗り通学していた。駅には、二号館を通って一号館まで行き、そこから階段を下りればいい。駅に着くまで、哲学は教授の悪口を言い続けた。
「これは結構マジの話なんだけどさ」と哲学は興奮しながら僕に説明した。「憲法教えているあいつ、かなりやばいレイシストなんだってさ、法学部のやつが言ってた」
「ふうん・・・・・・」
「やばいだろ?」
哲学は鼻で息をしていた。
「・・・・・・でも、確証は?」
「フェイスブックだか、ツイッターだかを見たやつがいるんだとさ。とんでもないことばっか投稿してたって」
「どうしてフェイスブックなのか、それともツイッターなのかわからないんだよ。それじゃあ、確証はないってことじゃないのか?」
「まあな」と哲学は悪びれもせず言った。「でも、火のないところに・・・・・・っていうだろ。今の時代、疑わしきは陰口の刑さ」
「それでいいのかね」と僕は呆れて言った。
すると哲学はあたりを見渡して、それから言った。「例えばさ、いつもあそこに座っている女いるだろう?」
僕は哲学の向く方を見たが、確かにそこには女が一人いた。そこは通路の端で、机と椅子が設置されていた。近くには自動販売機があるので、休憩するスペースなのだろうと僕は解釈していたが、本当の所何が目的なのかはわからない。
「いつも座っているのか?」と僕は尋ねた。
「ああ、いつもあそこに座ってるよ、ずっと教科書広げて、勉強してるんだ。・・・・・・なあ、はっきり言って、そういうのって大学生らしいとは言えないだろ?」
「まあ・・・・・・確かに、そうかもな」
「だろ? なんか変に達観しているっていうか・・・・・・」
そこで、今一度その女のことを見てみた。すると、確かに、彼女にはそういう印象を抱かせる何かがあることに気が付いた。それが具体的に何なのか、僕にはわからない。しかし、彼女の目は深く、教科書の文字だけを見ているわけではないように思えた。まるで、その行間に存在する言葉にしようのないカオスを読み取っているかのようだった。そんな彼女の姿に、僕は本能的な恐怖すら感じた。そして数秒後、あの赤子のことを思い出した。何故かはわからないが、彼女の子宮の中で眠る赤子の姿が、映画のワンシーンのように明瞭に思い浮かんだ。
その鮮烈な生のイメージからは、微かに死と腐敗の臭いがした。あの女は赤子を捨てたのかもしれない、という考えが僕の身体を覆い、冷たい汗となって流れた。
「どうかしたか?」
哲学が僕の顔を覗き込んで言った。
「いや、なんでもない」と僕は首を振った。「それで、その女がなんだって?」
「いやさ、なんていうか、噂だぜ、これ。彼女、売春でもしてるんじゃないかって、みんな言ってるんだよ。だってさ、怪しいだろ、あの女」
「売春?」と僕は驚いて言った。「どうして売春なんてしているやつが、昼間、講義の間に自習をするんだ?」
「彼女、結構美人なのに、幸せそうな感じが全然しないし、そういう噂があるんだよ。それに、若いころからそういう道に足突っ込んでる女は、結構勤勉な子が多いって聞いたことあるしさ。多かれ少なかれ、事情があってやってるんだろうから」
「そういうもんかねえ」
僕は彼女がゆきずりの男に雑に抱かれるのを想像してみた。そして、それは自分でも驚くほどにはっきりと思い浮かべることが出来た。輪郭どころか、声や臭いすら感じとることが出来た。あらゆる行為が終わり、シャワーを浴びる彼女の姿を想像した。やはり彼女の子宮には、あの赤子が隠れているように思った。そこで僕は、自分はあの赤子に意識を囚われつつあることを知った。
僕らはちょうど自動販売機の前で立ち止まっていた。右上に配置されたジュースの値段には、上から「130円」のシールが張られていた。それを見て僕は、外の人間から勝手に評価を下されている、彼女のことを思った。彼女は今、「娼婦」と書かれたシールを顔に貼られてしまっている。そしてそれを貼り付けているのは、哲学であり、学部の人間であり、僕なのだろう、と思った。
「お前、あの女に興味でもあんのか?」
哲学は僕の様子を見てか、笑いながらそう言った。
「・・・・・・別に、そういうわけじゃない」
「まあ、噂だよ、あくまで」
哲学はあっけらかんと言った。さあ、行こうぜ、と彼はまた歩き始めた。シールは剥がれず、そのままだった。
駅に着いて、哲学が改札を通り階段を降りていくのを眺めていた時も、僕の頭の中にはあの女と赤子がいた。地下鉄がホームを発つ音が聞こえたが、それは何も運び去ってくれなかった。これから先も残り続けるかもしれない不穏な予感が、僕の心の中で本格的に芽吹きつつあるのだ、と思った。
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