第3話
帰り道、昨日の公園に寄ってみようか、と考えたが、結局のところやめてしまった。
普段、あまり自分から話をすることが少ないからだろうが、僕は疲れていた。話すということは、僕にとって、とてつもなく体力を消費することだった。頭で考え、口を使って説明し、場合によっては体を使わなければいけない。オーバーワークだ。
しかしながら、すぐに家に帰ろうとも思えなかった。帰ったところで、何もない閑散とした部屋が、自然と思考を赤子と女に繋げていくだけだということは、僕にもわかっていた。先程の空間には女がまだいるかもしれない。帰ったところで、そのことを考えるだけならば、少しあの女を観察してみようか、と僕は考えた。そして、それは僕にとって、魅力的な選択に思えた。
女はまだそこにいた。教科書を広げ、熱心に読みふけっていた。僕は、彼女の二つ後ろの席に座った。リュックサックを椅子に置いた。立ち上がり、自動販売機で缶コーヒーを買った。缶コーヒーの微かなメタリックな味が好きではなかったが、他に興味があるものもなかった。消去法で選ばれる缶コーヒーには申し訳なく思ったが、僕は人生においての選択を大抵そうやって乗り越えてきた。自動販売機を前にしても、その信頼は揺らがない。
リュックサックには教科書と、哲学からもらったレジュメくらいのものしか入っていなかった。後ろに座っている男が本を読んでいるのをチラと見て、おれも本を持ってきていればな、と思った。仕方がないので教科書を開き、観察を開始した。彼女は教科書を読み、僕はその姿を読み取ろうとした。
十分ほど経ったとき、僕は彼女の行動に一つのリズムがあることに思い当たった。毎回ラップを刻んでいるかのように、正確なタイミングで一連のルーティンを行うのだ。
まず女は、教科書を閉じる。首を左右に捻り、こめかみを指で押す。そして、最後には左手を前に突き出し、指を眺める。それが終わると、教科書に戻る。それが、ほとんど正確に三分毎に繰り返されていた。ルーティンが出来上がるほどに、彼女はここで勉強をしていたのだ、と僕は解釈した。
彼女のことを眺めていると、段々わけがわからなくなっていった。彼女を構成するファクターには矛盾が存在しているように思った。しかしながらそれは、反発しあいながらも、バランスを保ち、一つの複雑な形を作り上げていた。それがますます、僕をわからなくさせた。
さらに十分ほど経ったとき、突然彼女は立ち上がった。講義に行くのだろうか、と僕は考えたが、今は講義が始まる時間でもなかった。
不思議に思っていると、彼女がこちらに近づいてくるのがわかった。まずい、と僕は咄嗟に思った。見ているのが見透かされていたのかと考えたのだ。
「ねえ」と女は僕のことを見て言った。「もういい時間になるし、行きましょう?」
「は?」
「何って、約束していたでしょう?」
「・・・・・・約束?」
「いやね、約束していたの、忘れちゃったの?」
彼女は静かに僕を睨みながら、言った。
そこで理解した。彼女は僕の行動に気が付いていたのだ。それに抗議するために、周囲に不審に思われないように、僕を連れ出そうとしているのだろう。嫌な汗が背中を伝うのを感じた。それでも彼女の心配りには感謝をしなければならなかった。もし彼女が配慮をしなければ、僕はストーカーのレッテルを張られてしまっていたに違いない。僕は動揺するのを抑えつつ、今片付けるから、と言った。彼女は冷たく笑い、早くして、と返した。
急いで教科書をリュックサックに入れ、机に置いていたスマートフォンをポケットに入れた。缶コーヒーを一気に飲み干し、不愉快な苦みと冷たさを腹の中に感じた。それでも、ホットの飲み物にしなくてよかったと思った。ホットだったら、こんなにも急いでは飲めなかっただろう。こんな時にも関わらず、僕は自分の選択は間違っていなかったことに、微かな快感を覚えた。
立ち上がり、缶を捨てた。行きましょう、と彼女は言った。
「ああ」と僕は気のない感じで言った。「行こう」
僕らは建物を出て、立ち止まった。周囲に人のいないことを確認すると、彼女は刃のように冷たい目で僕のことを睨みつけた。僕は思わず両手を挙げて、降参だ、と言いたくなった。しかし、挑発と取られて彼女が激昂することを想像し、断念した。
「ねえ、どういうつもり?」と彼女は押し殺した声で言った。
「・・・・・・何が?」
「ずっと私のこと見てたでしょ」
「そうかな」
「そうよ」と彼女は声を尖らせて言った。
「確証は?」
僕はそう言いながら、確証を求めるのは、おれの癖なのかもしれないな、と頭の片隅で考えた。
「私がそう感じたのが確証ね。感覚は嘘をつかないの」
「なあ、感覚が嘘をつかないんだったら、どうしてこの世に勘違いなんてものが存在するんだ。おかしくないか?」
「話を自分のフィールドに持ち込まないで」ぴしゃりと彼女は言った。「今、私はあんたを弾劾しているのよ、わかってる?」
弾劾、という言葉を聞いて、僕は裁判にでもかけられている気分になった。いいや、実際そうなのかもしれない、と僕は思った。それも、ソ連時代の即決裁判のような裁判だ。考えた末、弁解は無意味だろう、と僕は結論を出した。
「確かに、君を見ていた。不快にさせたのなら、謝る」
「いやに潔いのね」
「・・・・・・君の前なら、誰だってそうなるんじゃないか」
「どうして?」
「さあ」と僕は肩をすくめて言った。「・・・・・・どうしてかな」
もういいわ、とでもいうように、彼女は大きくため息をついた。そこで、僕は佳境を越えたことを確信した。安心して、僕もため息をついた。安堵と共に、彼女に対する好奇心が湧き起こってきた。いっそのこと、僕が彼女に抱いている疑問を全部洗いざらい吐き出してしまおうか、とすら思った。しかし、それが危険な行為であることは僕も理解していた。佳境を超えただけで、彼女はいつだって裁判を再開することが出来るのだと思った。
「あのさ、どうして私を見ていたの?」
彼女の声は、先ほどよりも幾分か柔らかくなっていた。もちろんのこと、警戒する感じはまだ残っていたが、出だしを考慮すれば、それはかなりの進歩だと思った。
「いつもあそこに座っているようだったから」と僕は嘘をついた。「だから、気になった。何してるんだろうって」
「何って・・・・・・どう見ても勉強をしてたじゃない」
「勉強なら、図書館とか自宅とか、色々あるだろう。あそこじゃなくても」
「・・・・・・あなたには、お気に入りの場所って無いの?」
「あるかな、ないような気もするな」
「変な人」と彼女は吐き捨てるように言った。「あそこにいるのは、お気に入りだから、それが答えよ」
「ふうん」と僕は頷いた。
「納得がいかない?」
「まあ、そうだな、変な感じはするな」
「でも、事実だから」と彼女は首を振って言った。「受け入れてくれなきゃ」
その時、根拠はないが彼女は嘘をついている、と思った。他人には確証を求めるのに、自分には求めない、というのは、ひどく自己中心的なことのように思えたが、確証がないからといって、その考えを捨てるわけにはいかなかった。彼女は嘘をついているということ。それは一つの事実として、僕の中に存在していた。
「とにかく、ストーカーの類じゃないのよね?」
「・・・・・・多分」
「多分?」
「人によっては、僕をストーカーとみなすかもしれないなってことだ。・・・・・・君がそう思わないなら、それでいい」
「さあ、でも、私の感覚では、ストーカーではないわね、危ういけど。私、ストーキングされることには、ちょっとした権威なの」
「よく被害にあうってことか? でも、一体どうして・・・・・・」
「なんとなく想像つくんじゃないの? さっき、お友達と話していたでしょ」
彼女は、違うのか、とでもいうように、僕を見た。
「・・・・・・相当小さい声で話してたんだけどな」
「やっぱり話していたのね」と彼女は呆れたように言った。「あのね、雰囲気で話していることって大体わかるの。だって、私の話をする奴なんて、みんな同じような顔をするし・・・・・・あんな子が身体を売るだなんて、みたいなね。どうせそんな感じでしょ?」
「・・・・・・まあ」と僕は曖昧に頷いた。
何人かの学生が横を通った。彼らは皆、僕らを稀有なものとして見ているようだった。僕らはどう見ても恋人同士といった感じではなかったし、お互いに不機嫌そうにしていたから、不思議に思ったのだろう。あまりここに長居するのもよくないな、と僕は考えた。
「もういいだろ」と僕は言った。「もうこんなことはしないって誓う」
「急ぎの用事でもあるの?」
「大学で女性を観察したりするのは、暇人のやることだろうな」
僕が少しおどけて言ったにも関わらず、彼女はくすりとも笑わなかった。まるで仏のように、まんじりともせず黙っていた。
彼女はそのまま黙り続け、やがて大学の棟に戻っていった。何か捨て台詞があると予想していたので、彼女が黙って去っていった時僕は驚いた。最後に出来上がった空白が、何を意味するのか、わからなかった。しかしながら、そこには何か意味があるように思った。意味を全く孕まない沈黙など存在しないことを、僕は知っていた。
鼓動が早くなっていた。彼女という存在が赤子に結び付き、どうやら僕に緊張をもたらしているようだった。深く息を吸い、十一月の冬の空気を体に取り入れた。その乾いた空気は肺をみたし、僕をせき込ませた。息が白くなって上がっていくのを、しばらく眺めていた。もしも、あの白い靄のような息が言葉だったら、僕らは冬の間に全く口がきけなくなるに違いない、と考えた。でも、もちろん、それは言葉じゃなくただの息だった。言葉が口から出ていくなんてことはありえない。しかしながら、僕は言葉が失われていくのを望んでいた。僕から、赤子の存在が言葉ごと消えてしまえば、いくらかは楽になるだろう、という気がしていた。
彼女は僕に腹を立てたのだろうか、と考えた。多分立てたのだろう。確かに僕の態度には相手を舐めてかかるようなところがあった。怒るのも仕方のない事だ。が、しかし、それだけではないだろう、とも思った。何故なら、僕は最初から一貫してそういった態度だったからだ。彼女がそれだけを理由に突然黙り込むというのは、何だか不自然なことのように思えた。
大学の構内を出て、僕はしばらくあてもなく歩き続けた。その間、通り過ぎていく景色を見ながら、おれだったら赤子をどこに捨てるだろう、と考えた。そこで僕は、赤子を捨てられそうな場所というものが、案外身近に存在しないことを知った。もし捨てられたとしても、すぐに発見されそうな場所ばかりだった。僕は、様々な場所を検討し、最終的にあの公園の便所に赤子を捨てる、彼女の姿を想像した。男子トイレに捨てたのも、彼女の策略のうちなのかもしれない、と考えると、それはやはり自然なことのように思えた。
吹きすさぶ風で、顔が少し痛かった。太陽は眩しく、粉のような白い光をばら撒いていた。もしかすると、雪は無数の光の礫から出来上がるのかもしれない。それはあまりに突拍子のない考えだったが、そういった思考こそが僕という人間の本質なように思った。
昔母親に言われたことを思い出した。「見えるものだけを見なさい」と母親は言ったのだった。僕はその時中学生になったばかりで、言葉の意味なんて何も理解していなかった。今の今まで、そんな言葉を思いだすこともなかったくらいだ。しかし、その言葉は、今の僕に何か訴えているように思った。もしそうでなければ、思い出すこともないはずだった。
僕の頭の中は、やがて母親の幻想に繋がっていった。死ぬ前の、まだ元気だった母親が、そこにはいた。しかし、その元気な姿に内包した死を僕は知っていた。やがては小さな箱に収まる骨だけになってしまうのだ。
もしかするとあの赤子は、母親に捨てられたという意識から生まれたバケモノなのかもしれない、と思った。だとしたらあの女は僕の母親なのだろうか、と思った。しかし、考えるのはそこでやめた。僕は体の力をフッと抜き、その場にしゃがんだ。辺りを見回すと、そこは丁度、大学から一つ隣の地下鉄の駅だった。歩くのも面倒だったので、僕は大学まで地下鉄に乗って戻ることにした。
階段を降りると、地下鉄の駅特有の臭いが鼻を刺した。エスカレーターには誰も乗っておらず、動いていなかった。静かな空間で、階段を踏む音だけが硬く響いた。僕は、昨日自分を覆っていた孤独のことを思い出した。おれはまた一人だ、と思った。普段なら誰かが座っている自動販売機前の椅子にも、人は座っていなかった。僕は脊髄反射的に、何か飲み物を買おうかと考えたが、先程コーヒーを飲み干したことを思い出し、やめた。取り出した小銭入れをポケットにしまい、便所に向かった。急に膀胱をコーヒーがみたしているように感じられたのだ。
小便を済ませ、一応のこと個室を見た。もちろんそこには何もいなかった。茶色い汚れのこびりついた便器と、微かな悪臭しかそこにはなかった。しかし、昨日あそこには赤子がいたのだ、と僕は思った。それは蜃気楼のように頭に浮かぶ幻想ではなく、本当に存在したのだ。
駅の便所に赤子が現れなかったことは、昨日の記憶をより確固たるものにしたように思った。赤子は僕の幻覚なんかじゃなく、昨日僕の前に表れた本物だったのだ、と。
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