夜の住処

青豆

第1話

 おそらく昨日、凍えそうな夜の底に赤子を見た。その時はただの幻覚に思えたのだが、一日が経ち記憶を冷静に分析してみると、赤子を覆っていた靄が晴れ、奇妙な現実味を帯びてきた。今の僕には、あそこに赤子がいたとしか思えない。疑念は確信に変わった。

 僕は昨日大学のサークルの飲み会に半ば強制で参加させられていた。帰ることが出来たのは夜中の一時ごろのことで、その時にはもう出来上がっていた。安い酒をすきっ腹に流し込んだせいで変な酔い方をしていた。悪さをした孫悟空のように、頭がきりきりと締め付けるように痛んだのを憶えている。

 俺が一緒に帰ろうか、と同回生の友人が言ったが、僕はそれを断った。居酒屋で何時間も人と酒を飲むことで、一人になりたい気分に陥っていたからだった。孤独は欲しい時にこそ、傍にはなく、僕はそのことを痛感した。

 夜風が冷たい中一人で歩いていると、僕は孤独を感じることが出来、今おれは一人なのだと思った。実際道には誰もいなかった。まるで、僕以外の人間を全て切り取ってしまったかのように、道は静かだった。重々しい静寂と、暗い僕の影が、孤独をより強いものとして演出していた。

 孤独は僕を安心させたが、同時に不安にもさせた。ここらは駅に近い道で、人通りは多いはずだった。何かが変だ、と僕は感じた。が、それ以上思考は先に進まなかった。変だ、で思考の糸がプツンと切れてしまうのだった。僕は本来懐疑的な人間なのだが、その時は酔いが回っていたせいで、物事を疑う能力が欠如していた。

 視界の右には、猫が昼寝でもしていそうな塀があり、それがいやに不気味だった。それはまるで、塀は僕を押しつぶそうとしているように見え、恐怖を感じた。何故だか、僕は臆病になっているようだった。ポケットに突っ込む手に、拳銃が欲しいと思った。

 暗く冷たい中、拳で空を切ると、ひどく凍えた。手はかじかんで、握力がなくなっていった。銃を撃てば、僕の手は忽ちグリップを手放してしまうだろう、と考えた。

 地面に水たまりができていた。今は十一月だから、明日にでも凍ってしまうかもしれない、と思った。凍った水たまりの上で転ぶ人の姿を想像してみたが、周囲に誰もいなかったためか、イメージは上手く膨らんでくれなかった。必死で映像の構築を命令しても、頭はそれに従わなかった。今おれは酔っているのだ、と考えた。そうすることで、僕は自分を宥めようとしていた。本当に酔ってはいたのだ。

 今自分は酔っている、という意識が高まったからだろうか、強烈な尿意を感じた。急に膀胱が排泄を求めだした。僕は便所を探した。酔ってはいたが、この場で漏らしてはいけない、という意識は持ち合わせていた。僕はうっすらと、近くに公園があったことを記憶していた。そこになら便所くらいあるに違いない、と考えた。

 蜃気楼のようにぼやけた記憶を頼りに公園を探した。歩くスピードを速めた。黒く光る水たまりが大きく広がり、僕を阻んでいても、気にせず進んだ。水が跳ねて、その度に靴とジーンズを濡らした。帰って早く着替えなければ、風邪を引くだろうな、とぼんやりと思った。が、そういった思いもやがて、尿意に全部流されてしまった。

 僕が歩いていたのは住宅街の道だった。連なる家の窓からは時折光が洩れていた。そこで僕は、街はまだ眠っていないのだ、と思った。今僕は一人だが、あの窓の内側には人がいる・・・・・・その状況は、僕の求める孤独の在り方と合致していた。一筋の光も見えない暗闇など、僕は望んでいなかった。

 夜の色をしたコンクリートを踏みしめていると、やがて遊具が目に入った。青いジャングルジムがあり、錆びたブランコがあった。僕は安心した。内心、本当に公園などあっただろうか、と疑っていたからだ。普段出歩くことがないので、土地勘は皆無に等しかった。

 僕は、謎の電話番号なんかが落書きされた、典型的な汚い公園の便所を思い浮かべた。実際、そういう類の公園だった。ひと昔前なら、「愚連隊」だとか、そういうことが描かれていたのだろうか、と思ったが、そもそも「愚連隊」は落書きにされるような単語なのかどうかも、僕はよく知らなかったし、興味もなかった。

 公園に入り、便所に向かった。誰もブランコに揺られたりはしていなかった。時間を考え、職質なんてされたくないからだろうなと思った。しかし、何故ブランコに揺られていて、職務質問を受けなければいけないのか、僕にはわからなかった。自分を懐疑的であると評価している僕でさえそうなのだ。警察だって理由などわかっていないに違いない、と思った。

 便所は汚かったが、落書きはなかった。別に便座に座るわけでもなく、ただジーンズを下ろすだけで済む話なのだから、多少の汚れは気にならなかった。なんとなく三つあるうちの二つ目の便器の前に立った。ジーンズのボタンをはずし、チャックを下ろし、性器を出した。便所の中は暗く、僕の性器はいやに黒々として見えた。まるで自分の性器が、この空間と同化してしまったかのような、そんな錯覚を覚えた。

 引き締めていた膀胱を緩め、小便を済ませると、僕は体を少し震わせた。なんだか、寒気がしたのだった。だが、その時の僕はそれに疑問を持たなかった。小便をした後に震える、というのは、何も珍しい症状ではなかった。僕はそのまま外に出ようとした。

 しかし、出口の前に立ったとき、異様な存在感を背後に感じた。まるで巨大な人間の巨大な影が僕をすっぽり覆ってしまったような、そんな感覚だった。僕は振り返った。だが、そこには何もない。鏡でもあれば納得がいったのだが、それすらなかった。ただ角度的に、便所の中を覗けないようにするための壁があるだけだった。

 違和感が先を走り、恐怖は追い付いていなかった。深く息を吸って、どんよりと沈んだ空気を体に取り入れる。腹の中にあった違和はさらに高まる。そこで僕は、今まで人とすれ違わなかったことを思い出した。が、そのことが何か関係するのかどうか、よくわからなかった。繋がっているのかもしれないし、いないのかもしれない。よくわからない。

 咄嗟の思い付きで、中に戻った。もしかすると、個室の中に誰かがいたのかもしれない、と思った。もし扉が閉まっていれば、それで解決するのだ。僕は中に戻ると、右を向き、二つ並んだ個室を見た。が、扉は開いていた。二つの和式の便器が覗いていた。僕は首を振り、まるで本当にあった怖い話だな、と考えた。今振り返れば、そこには幽霊か何かがいるのかもしれない・・・・・・そのように想像し、おかしく思った。

 その時、僕の背筋を冷たい光がなぞった。驚いて、あっと声を上げた。小さな窓から覗く月の光だろうか、と思ったが、それは違うとすぐに頭で否定した。昨日、月は雲に隠れ、姿を見せていなかった。

 振り返っても、小便器があるだけだった。一瞬感じた青白い光は、見る影もなかった。夜の闇が空間をみたしているようだった。じゃあ、あの光はなんだったのだろう、と僕は考えた。

 視線を個室の扉に視線を戻した。すると、その時妙な存在を目にしたように思った。赤子の影の輪郭が、そこに浮いていたような、そんな気がした。光に驚いて振り向く前、個室の中には誰もいなかった。便器が覗いているだけだった。しかし、その時の僕の目にはそれがぼんやりと映っていた。

 まさか、と思って扉を閉めた。ばたん、と大きな音が鳴った。僕は、赤子が泣きださないだろうか、と考えた。そして、赤子の存在を受け入れようとしている自分に気が付いて、困惑した。

 今おれは酔っているのだから、何か幻覚でも見たのだろう、と思った。リアリティを欠いた状況は、頭の中でそのように処理された。しばらくは酒なんて飲みたくない、と思った。

 僕は扉を開けずに、その場を後にした。便所を探していた時よりも、歩くスピードはずっと速かった。あくまで僕は歩いて、その汚い公園を抜けた。走るのは、自分の恐怖を認めることに他ならないような気がして、嫌だった。住宅街の光は先程よりも減って、夜が深まったように感じられた。

 もしあそこに赤子が本当に居たのなら、誰かに見つかってほしい、と思った。このままあそこに居続ければ、数日後には腐乱した死体となって見つかるだろう。それでは気分が悪い、と思った。ちゃんと誰かに拾われ、助かって欲しかった。

 徐々に深まり、やがて明けていく夜に手を伸ばした。掴み切れずに、掌からほどけていく暗闇は、先に見える小さな街灯の光に飲み込まれて消えた。僕は歩くペースを抑えた。そのようにして、しばらく歩いていると、コンビニエンスストアに辿り着いた。煙草を吸っている男や、車の助手席でスマートフォンをいじる女が目に入った。僕は、この世界に人が存在することに安心した。そして、その人々が僕に対して無関心なことに安心した。互いに存在を認め、しかし視線を突き刺し合わない。それは僕にとって、ほとばしる鮮血の暖かさのような、心地よい孤独だった。

 店に入り、缶ビールを二本ほど買おうと思った。先程、しばらく酒は飲みたくない、と考えていたことなど、とうに忘れていた。若い店員の男が、僕の顔を覗いていた。未成年かと疑っているのかもしれない。その男をよく観察してみると、正義感の強そうな印象を受けた。缶ビールをレジに通そうとすると、男は言った。

「あの、年齢確認できるものってありますか」

「え?」

「ええと、学生証とか・・・・・・」

「・・・・・・これでいいですか」

 学生証を見せた。僕は誕生日を数日前に迎えた、二〇歳だった。何故かはわからないが、その事実が途端に恥ずかしくなった。

「あ、はい、大丈夫です」と男は頷いて言った。

 レジ袋を受け取り、レシートを捨てた。捨てたあと、ポイントカードにどれだけのポイントが貯まっていたのか、と気になったが、もう確かめるすべもなかったので、そのまま店を出た。店の前で煙草を吸っていた男は、もういなくなっていた。車は止まったままで、女の隣には金色の髪をした男が座っていた。

 僕は小さく息をついて、水たまりを踏みしめた。水が大きく跳ねた。車の中の男が僕の行動に、怪訝そうな顔をしたが、やがて目線は隣の女にいった。誰も僕になんて興味はないのだ。その事実は慰めとして、そして意地悪な宣告として、僕の頭の中を巡った。

 僕の住むアパートはそれほど遠くなかった。いつも足を運ぶコンビニエンスストアではなかったが、ここには大学の終わりに時々寄ることがあった。ぼんやりとした記憶の中にあった街は抜け、ここからは僕の知る街だった。人が歩いていて、車が通っていた。光のある孤独がそこら中に浮いていて、それらはつかみ放題なように思えた。事実、僕の目に映る人々は、誰もが孤独を抱えているに違いなかった。もちろん、孤独の在り方など、人それぞれ違うにしても。

 あの赤子は、あの赤子の幻影は、孤独だっただろうか、と思った。あの子は誰かに捨てられたのだろうか、いいや、赤子なんてあそこにはいなかったんだ、あれはおれの幻覚なのだ、と、考えが連なって押し寄せた。そう考えると、あの赤子は僕自身のようにも思えた。あれは、酔いが見せた僕自身の姿なのかもしれなかった。

 歩きながら、ビールをあけた。何故だかわからないが、僕はもう少しだけ酔ってみたかった。それに、喉が渇いていた。ビールを流し込むと、腹が冷え、急に辺りが寒くなったように感じた。だが、それはただの気のせいだということくらい、僕はわかっていた。

 しかしながら、僕は明らかに凍えていた。一度店に入ったのもあり、寒さがより強く感じられたのだろう。途中立ち止まり体を少し動かすと、近くで信号待ちをしていた男が、なにやっているんだ、お前、と言った。声からして、男は酔っぱらっていた。寒いんですよ、と僕は酔った頭で出来るだけ丁寧な言葉を選び、言った。

「ああ、もう冬だよなあ」

「ええ」

 僕が短く返した時、信号が青になった。

「青になりましたよ」

「ああ、本当だなあ」と男は間抜けな声で言った。「明日には雪でも降るんじゃねえかなあ」

 僕はため息をつき、そうですね、と返した。

 信号の青が点滅しだした時、男は急いで信号を渡った。地面が濡れていたのもあって、男は盛大に転んだ。

「痛えなあ」と男は声を漏らしたが、やがて立ち上がってどこかに消えた。

 そこで、僕の頭の中で、人が転ぶ姿がありありと再生された。先程どうやっても膨らまなかったイメージは、あの酔っ払いによって無限に膨らもうとしていた。

 僕の思考は戻りつつあるようだった。それは測らずとも、酔っ払いによってもたらされたが、とりあえずその事実を喜ばしく思った。だが、同時に赤子を覆っていた靄が剥がれかけていた。あの赤子は、本当にいたのかもしれない、という気がしていた。頭の中に蘇る赤子の影は、あまりに鮮明だった。僕は心に、朝方の唾液のような、ねばつく焦りを感じた。

 しかしとりあえず、僕は赤子のことを考えまいとした。アパートが少し先に見えていた。月はやはり見えなかったから、街灯の無機質な光のみが、建物の姿を淡く浮かび上がらせていた。着替えるだけ着替えてしまったら、すぐに寝てしまおう、と思った。次の日に何か特別に予定があるわけではなかったが、僕はとにかく眠りたかった。眠りだけが、僕の求める孤独を妨げない、唯一のもののように思えた。

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