第30話 本物の供物

 イシュチェルが竜の前に連れ出されたのは夜明け前のまだ薄暗い時刻だったそうだ。その時にはもう雨はやんでいて、眠っていたはずの竜は、彼女が鼻先に触れた瞬間、まぶたを開いた。


 そんな話を、ヌンとミラに語って聞かせている男は興奮で顔がのぼせている。一人の少女が連れ去られた悲劇よりも、巨大な竜が飛翔する姿を見たことに感動しているようだ。早口にまくしたてる様子に、おれは軽蔑を覚えたが、感情の半分が欠落していて、そこまで腹は立たなかった。


「でかい」


 男はひっくり返りそうになるほど両手を広げた。まるで喜劇役者だ。


「あれはまことの竜だ。一振りで舞い上がると、ここら一体、あっという間に影が差した。目玉がぎょろっと動いておれを見下ろしていったんだ」


「それで」


 セラプトを抱きあげておれが問うと、つっけんどんな態度になっていたからだろう、男の浮かれ顔がすっとくもった。


「竜はどの方向へ飛んでいったんですか」


 和らげると男はまた笑顔に戻る。


「旋回して」

 上空を示した指をクルリと上機嫌に回した。

「あっちだ」

「岩場」


 そうか。おれは駆け出した。ヌンが名前を呼ぶ声がしたが振り向かずそのまま走る。

 人だかりを抜け、木々の茂みに踏み入った。水辺に出ると躊躇することなくそのまま進んでいく。


 ひざへ、腹へ、そして胸へ。川の水位が上がっていく。水をかくのに手を離すと、セラプトは先導するように前を泳ぎ出した。


 くねくねと動く白い体を追った。しばらくして乗り捨てた木船を見つけた。豪雨で流されたらしく、細い木の二股になった幹に挟まっていたが、下から押し上げると簡単に抜け水面に落ちた。乗り込むと運よく櫂は固定したままになっていて破損もない。


 セラプトも船に乗ると、先端で船首像のようにぴんと頭をもたげる。一度も休まずに漕ぎ続けた。手を止めるのが恐ろしくて機械的に動かした。


 それはゲン担ぎのようなもので、止めた瞬間、決意も何もかもが崩れ去ってしまう気がしたから。希望の糸をたぐりながら、今にも引きちぎれそうなそれを必死でにぎりしめていた。


 あれだけ晴れていた空に、重苦しい灰色の雲がかかり始めた。太陽が消える。緑の森が色を失っていった。雨だ。昨夜とは違う、さらさらと絹糸のような雨が降り注いだ。


 櫂を握る手は必要以上に強くなっていた。食いしばる歯からこぼれ出る呼吸が、自分自身をさらに焦らせる。それでもイシュチェルは無事だと確信していた。根拠はない。もしもあるとするなら、架空のものでなかった竜への信頼だろうか。


 おかしなことだが竜はおれを待っている気がしたんだ。水神祭が兵を募るため、戦の世が作り出した風習だとしても。それでもイシュチェルよりおれのほうが供物にふさわしい。風変わりだからと岩場に追い出された少女ではなく、竜に捧げるため、集落から選び出された本物の供物なんだ。


 船の先が岩場の岸にぶつかった。セラプトを拾って肩に乗せ、洞窟の奥へと体を滑り込ませる。


 抜けた洞窟の中に彼女の姿はなかった。灰と燃え残った薪、木箱と麻袋が以前のように置いてあるままだ。おれは数日前の光景が脳裏に過ぎるのを振り払い、外に出た。岩の段差を駆け上る。立ち止まる場所はここじゃない。『竜の胃袋』。竜とイシュチェルがいるなら、そこだ。


 かつて下ってきた川をさかのぼる。こちら側の大河は向こうと比べるとひどく寒々しい。水位は高くても肩が浸かる程度。泳ぐより歩いて渡る見渡す限りの水面。


 空も水も灰色だった。先を泳いでいるセラプトが白く輝いて見える。ここにはおれたち以外に生き物はおらず、木々は沈み、世界が沈黙していた。


 やがて絹糸の雨がやんでいく。いや、そうじゃなかった。見上げる。このあたりだけ、雨が降っていないのだ。


 立ち止まったおれに、セラプトも泳ぐのをやめ、あたりを見回している。雲が開け、丸く陽光が差し込んだ場所を見つけた。そこは木々が集まり、水面に浮かぶ島のようになっている。あんな場所、以前に通ったときは気づかなかった。それとも。今。出現したのだろうか。


「セラプト。あそこへ行ってみよう」


 竜がいる。鼓動を感じた。


 まばらに水面から突き出していた木々が密になり、樹高が増していった。幹は太くなり歩ける水面が狭くなる。根が張り出し、枝が立ち塞ぐように伸びる下を潜り抜け進んでいくと突然だ。視界を遮るものがなくなった。


 そこは緑の空間だった。鮮やかな苔が広がる浅瀬。地面だけでなく苔は木々も覆っていた。歩くとぴちゃぴちゃと水が跳ねた。踏みしめる緑の苔は弾力のある柔らかさで沈んだ足跡はあっという間に戻り消えていく。


 葉の隙間から差し込む陽光が、暖かな春のように竜の白い体を照らしていた。竜の目は青かった。それがずっとおれを見ている。


「イシュチェルは」


 竜が身動きした。巻いていた半身が緩むと、その中にイシュチェルがいた。竜の体に身を預け、横たわっている。


 駆け寄ろうとすると、竜の顔が眼前に下りてきた。まばたきをしない透き通る瞳が飲み込むように迫る。


『案ずるな。あの娘は眠っているだけだ』


 低い。地の底から吹き上げてくる風のような声。魅入られそうになる瞳から顔を引きはがした。いつの間にかセラプトがイシュチェルのそばにいて、動かない頬に白い頭をこすりつけている。


「おれが本物の供物だ。あの子は違う」

『偽りの供物よ』

「偽りじゃない。おれが今年の供物なんだ」


 竜の太いひげが、おれをからかうように取り巻く。


『十五でなく、齢十八のケセドよ。ククスの罪人の子。お前が本物の供物だというのか』

「少しくらい年食っててもいいだろ」


 ぶわりと吹きつけてきた風は竜の吐息だろうか。眼前に迫っていた顔が離れていく。


 おれはゆっくり動いた。竜はそのままだ。おれを見下ろしているだけで邪魔はしない。意を決して駆け寄り、イシュチェルのそばにひざをついた。


「起きろ、イシュチェル。目を開けて」


 瑠璃色の髪が白い竜の肌に広がっている。鱗に触ると驚くほど温かく、イシュチェルがぐっすり眠っている理由がわかる気がした。彼女の表情は穏やかだ。


「毎年」


 おれは竜を見上げた。竜はわずかに顔を下げてきた。話を聞いてくれるようだ。竜からは包まれるような香りがする。森林と花、そして水の匂いだ。


「こうして供物の前に現れてたんですか。今年はおれが、何か、手違いを?」


 ごう、と風がうなる。竜のひげがおれの頬をくすぐる。


『いいや。人前に出たのは百年ぶり、いや、もっと長く経過したかもしれないな』

「だったら、なぜ」


 今、目覚めるんだよ。


 おれが供物になった年に、イシュチェルと出会った、その時に。これまでずっと眠っていたんだろう。おれが何かしでかしたせいでこうなったのだと、そう突き付けられたほうが腹もくくれるのに。


「どうして」


 さわりと目元にひげが触れる。髪をなで、体を包む。竜の瞳がイシュチェルにするりと向いた。息がかかったのか、瑠璃色の髪がふわりと舞いあがる。


『わたしはこの子を連れていく。お前はどうする、ククスのケセドよ』


 イシュチェルの傍らにいたセラプトが、シャアと威嚇する。竜の目が愉快そうに弓なりになった。


『お前はその青年に従うのだ。ケセドが行かぬなら、お前も来てはならぬ』


 威嚇を続けているセラプトに、ちょんと竜のひげが当たる。セラプトは鱗からあっけなく滑り落ちてしまった。


『どうする、ケセド。ノムアに帰るか、娘と共に行くか』

「行くって、どこへ?」


 でも竜は答えない。迷っているうちに、竜の口が開いた。イシュチェルを丸飲みできるほど大きく。牙からは唾液がぽつぽつ滴っている。


 おれは竜に会ったらいってやるつもりだった。なぜ供物を要求するのか、なぜイシュチェルを連れて行ったのか、なぜ今目覚めたのか、なぜ実在するのか、どうして空想でいてくれなかったのか、と。


 でもそんな言葉は竜を前にすると、ちりぢりに逃げてしまう。のどの奥が締め付けられて思考が鈍り、ただただ悲しくなった。


 立ち向かうとか、そんな気持ちは意味をなさない。竜は選択を迫りながらも、言葉を失わせる。それでも。


「何しに追いかけてきたと思ってるんだよ」


 イシュチェルはおれがここにいることを笑うかもしれない。望んでいないことで、おれは未練がましい愚か者だろう。


 それでもあのまま飛行船に乗ってイシュチェルがどうなったのかも知らぬまま生きていくことが、おれの力になるはずがなかった。


 それはきっと足かせになる。あらゆる瞬間にこの選択を思い出す。たとえ遠く飛び立てたとしても、おれの足には常に鎖が重く揺れ続けるのだ。それが切りたくて。おれはこの場にいる。


 おれを見る竜の瞳は青く——そして、気づく。イシュチェルのように瑠璃色だ。澄んでいながら底の見えない、深淵を育む海の色。


「おれも連れて行ってくれ」

『街には戻らないか?』

「戻らない」

『行くのだな?』

「行く」


 竜の裂けた口角がぐいりと上がる。歓喜の笑みにも嘲笑にも見えた。その口が迫る。生暖かい湿り気を帯びた息。そこに獣の臭いはなく、ただすっきりとした水の匂いがした。


 清浄な水面に飛び込むように。その口がおれを飲み込んだ。なんだ。どこへ行くかと思ったら。


「死の世界か」


 ごくりと青年を飲み込んだ竜は、次にイシュチェルを、そして震えあがっているセラプトを食った。


 腹を満たすには小さき者たちだけでは足りなかったのか。竜は水辺でのどを潤すと苔の大地を蹴り、空へと飛んだ。


 差し込む陽のしるべを辿り、上へ上へ。

 その姿に気づいた人々が空を指差す。


 白い竜は雲と見分けがつかなくなり、彼方へ姿を消した。人々はずっとそれを見ていた。

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