第31話 竜がいなくなり、森も変わった

 長く森の守り神だった竜が天空に飛び立ち、人々の前から姿を消した。供物として差し出された少女とその彼女を追って『竜の胃袋』に踏み入った青年も行方知れずである。


 彼らの知人たちは、川や森、岩場の洞窟を懸命に探したが、見つかったのは木箱や麻袋、少しだけのりんごと真新しいマグカップくらいだった。


 そうして日々は過ぎていき、供物は竜が食ったのだという噂が流れた。それを信じる者が多かった。特に森の集落、ククスではそうだった。水神祭を無事に終えたのだと安堵する声の数々。それは忍び泣く声を打ち消すには十分な数だった。


 そして。因習とみなされながらも途切れることなく続いていた水神祭だが、森の神、竜の不在により、形を変えていくこととなった。


 供物は人から食物や踊りへ。祭事は五年に一度から毎年に変わり、五つの集落以外からも観光客を迎えながら開催する賑やかな祭りへと変貌した。


 竜姫と呼ばれた少女が暮らしていた岩場には祭壇が設けられ、季節の花や食べ物が供えられるようになった。


 人々は感謝した。

 竜がもたらした水源を、水の恵みを。

 そして犠牲になった供物を。


 こうして竜が実在したこともまた伝説となり、記憶の彼方へと消えていく。あの岩場の祭壇も朽ち果て、参拝に来る人もいなくなった。


 竜の胃袋として親しまれていた大河は綺麗に整備され、名前を変え、やがて浅瀬の水辺として川の名残すら見せなくなった。


 森はなくなった。今は街が出来ている。煙が立ち込め、空はくすんでいった。


 それでも海は瑠璃色に輝き、誰かの憧憬を誘っている。そこには自由があり、愛があり、夢があるから。何者をも育む力があり、何者をも引きずり込む強さがある。


 そして仄暗い海底も存在する。


 竜は今、森ではなく海で眠っていた。かつて瑠璃色の海を夢見た青年がいたことを、竜は覚えていたからかもしれない。


 竜は海流にひげをくねらせ漂わせながら追憶していた。それはうたたねのように頼りなく、思い出しては消えていく泡の記憶だったけれど。


 ——あのあと。


 ミラとヌンのもとに手紙が届いた。持ってきたのは、野菜を育てながら身を立てている男なのだろう、荷車には大蕪おおかぶや人参、芋や甘藍キャベツが山と積んである。


 男は中年でひょろひょろとした無精ひげを生やしていた。街に出入りしている者ならおおかた見知っているはずのミラだが、その男の顔に見覚えはなかった。男は土の染みついた茶色の指でミラに折り畳んだ紙片を渡した。訝しみながらも受け取った彼女は、中を開き、瞳を震わせる。


 丹念に文字を追っていたが、ミラはそれ以上読めなくなった。涙に濡らすのを嫌がった彼女がヌンに手紙を渡すと、沈痛な面持ちだったヌンも、その記された文字を見て、明るく笑いだした。


 一体、どこでこの手紙を。


 たずねようと視線をあげたが、そこには男の姿はなく、あれだけ重そうだった荷車ごといなくなってしまっていた。


 不思議なこともある。だがそれよりも、もっと不思議で嬉しい知らせが届いたのだ。ヌンは空を見上げた。まるでそこに親子ほど年の離れた友がいるかのような笑顔で。


「ケセド。おれはここでお前を待つよ」


 それは青年が冒険の旅に出る決意をしたためた手紙だった。海が見たい、異国に出たい、飛行船や列車にも乗りたい。


 純粋で眩しい希望にあふれていた。彼の傍らには白いヘビもいるだろう。そしてきっと、あの瑠璃色の髪の少女も。

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