第23話 泣いて揺れて驚いて雨降った夜

 夕暮れ時が終わろうとしている。


 暗くなる前に川を渡るなら、櫂を漕ぐ手を止めていてはだめだ。でもおれは櫂から手を放し、空を見上げながら息を吐く。


 ずっと。おれは長い間、かあさんは好きな男と出て行ったんだと、そう信じていた。その男がおれのとうさんだとは限らないけれど、それでも集落を出ていったのは、あの陰鬱な窮屈さに耐えかねて、志を同じくした男と再出発するためだったのだと、どこか夢見がちに心馳せていた。


 それは、かあさんと同じだと思われまいと必死に耐え、従順であることを示そうとし続けた日々の中で募らせる捨てられた惨めさ、憎らしさの残滓に見つけた甘味だった。異質を楽しむ優越感だったのかもしれない。おれの奥底には反骨の産声がいつでも呼び覚まされる気がしていた。


 けれども、ミラがほのめかしたものは、おれの想像とは角度を異なった。考えれば考えるほど思考を止めたくなる場所にそれは到達する。


 シャダイが父だった。おれに嘘を教えたジジ様たち。誰がどれほどの事実を知り、口をつぐみ、また何も知らず、疑いもしなかったのか。もっともミラの言葉が真実とも限らない。彼女の中で変容したものもあるだろう。


 だがミラを責める気持ちは消え去った。わずかの気配も残さずに消えたその感情は、なくしてしまえば思い出すのも難しくなるほど他人事になった。一方で、ミラが受けたであろう痛みを想像し、できればその傷が思い過ごしであればいいと思い始める。おれが受け止めるには、それはまだ途方もなく残酷で重すぎた。


 だからだろうか。考える代わりに、心寄せる代わりに。あふれてくる涙をそのままにした。これは逃避かもしれない。涙の理由はわからない。でも今のおれに悲しむべきものなど何もない。何もかもうまくいっている。だからこの涙はきっと、母を恋しく思っていた幼い頃ケセドが泣いているのだろう。あるいはそんな自分がいたことを不憫がるおれ自身の同情だ。


 この日の夕暮れはその姿をあまり見せようとはしなかった。気づけば暗がりの淵に星がまたたいている。月は見当たらなかった。


 櫂を持ち、手前に引いた、その時だ。


 ぐらり。


 水面が波打った。船が揺れる。刹那の無音のあと、衝撃が下から突き上げてきた。うねりながら周囲が荒ぶる。混乱の中で轟音を聞いた。その衝撃で視界が白みを帯びるほどだった。船底に頬をつけ、わけもわからず身を固くした。


 さらに二度、いや、もっとあっただろうか。空が破裂したような音がして荒ぶっていた世界がしんと止まった。


 何事もなかったように、森の水辺の音が戻る。でも鼻先が感じ取ったものは変化を示した。土と煙の臭いがする。おれは船底から身を起こして周囲を見回した。静けさの中に興奮が潜んでいて肌を敏感に刺激する。


「……何か崩れたんだ」


 本能が悟ったんだろうか。ざわりと肌が粟立つ。おれは船の向きを変えた。何者かが招く気配を辿る。


 岸にあがるとすぐに人声がした。あたりはすっかり暗くなっていたがアオキの茂みを抜けると朱に輝くランプの火が見えてきた。


「ケセド」


 人の群れに混ざろうとしていると、腕を引かれた。ヌンだ。


「やっぱりお前か。まだ岩場に戻ってなかったんだな」

「途中で引き返した。でも」


 ノムアの街とはちがう方向に舵をきった。戸惑いがわかったのかヌンが説明してくれた。ここはノムアの町はずれになるらしい。川に長くせり出した地形になっているから、ここは比較的、岩場に近い位置だという。


「地震で崖が崩れたらしい」


 ヌンがおれの背を押しながら集団をかき分けて前に進む。


「岩交じりの崖でな、大岩が落ちたあとに空洞が出来ててな。そこから出てきたもんがあって」


 ヌンの声は進むにつれて小さくなっていった。ざわめきもなくなり、周囲には多くの人がいるにもかかわらず、呼吸もはばかられる緊張感に満ちていく。


 崖の前。最前列にいた人の背をヌンがそっと叩く。その人が半歩動くと。それは、はっきりと見えた。


 白く。発光しているようだった。とぐろを巻いている体は作り物のようだったが、生きている証にその身が穏やかに上下に動いている。目は開いてなかった。竜は眠っている。


 おれは目でヌンに問う。彼はうなずく。そっと静かにその場を離れた。野次馬のざわめきが聞こえる場所まで戻るとヌンは足を止めた。


「頬をつねりたくなるな」


 ヌンは笑ったが、頬がこわばっている。


「竜姫はいたんだ」

「雄の竜かもしれん」

「竜は白かったんだね」

「そのようだ」


 会話が止まる。無意識に首を横に振っていた。


「おれ、いないと思ってた」


 竜なんて存在しない。いるはずがない。


「でも、あれは」


 竜だ。そうとしか見えなかった。頭だけでもおれの背丈と同じくらい大きかった。眠る時のセラプトのように緩く体を巻いていた。細部まで見てはいないけれど、あの姿は目に一瞬にして焼き付いた。


「おれが蟻ほど小さくなってセラプトを見上げたらあんな感じなんだろうな」


「秀逸な例えだな。まいったよ。おれも変わった動物はたくさん見てきてが、ああいうものは初めてだ」


「これからどうするの?」

「わからんよ」

「集落を襲う?」

「わからんよ」


 ヌンは自分を落ちつかせるように長く息を吐いた。


「どうするのかは、ノムアのお偉方に任せることだな。貴重種なら殺すわけにもいかんだろうし。ともかく」


 ヌンはおれの肩に腕を回してきた。


「もう遅い。今夜はおれと一緒にアオサギ亭に泊まるんだ。行くぞ」


 おれに考える隙も与えず、ぐんぐん歩を進めるヌン。肩を抱く腕を振りほどいて逃げることもできた。でもおれは呆然としていて夢の中にいるようで。頭の中は白い竜のことばかりになっていた。


 ベッドに横になったけど寝付けなかった。心臓が騒いでいる。ヌンはおれに寝床を譲り、床の寝袋で寝ていた。いびきが聞こえる。


 寝返りを打ち、すぐにまた反転した。


 イシュチェルたちはどうしてるだろう。おれが帰らないのを怒ってるだろうか。あの揺れで岩場が崩れてないといいけれど。


 今からでも戻ろうか。でも暗闇で船を漕ぐのは危険だ。無事たどり着ける気がしない。だからこれでいいんだ。


 ざらついた騒音が混乱からくるものじゃなく雨音だと気づくのに少し時間がかかった。屋根の上を軽く弾ける雨粒だったものが、いつしか激しさを増していた。雷鳴がとどろく。


「起きてるか?」

 ヌンが身を起こした。

「うん。起きてた」


 その雨は、朝になっても降っていた。より激しさを増して、じゃぶじゃぶ、落ちるように。


 ミラが乱暴にドアを開けたのは、部屋で朝食をとっているときだった。トーストに目玉焼きとソーセージ。食欲がないながらも口に運ぶと唾液が出る。


「ヌン」

 それからミラはおれを見て。

「ケセドもいたんだね」


 微笑に微笑を返したが、長く目を合わせている気にはなれなかった。彼女はつかつかと近づいてきたが、ヌンの前で止まり、あごで戸口を示す。内緒話か。


「おれ、出ようか」

「いや。お前は食べてろ」


 ヌンが席を立つ。かり、とトーストを食んだ。考えていたのはイシュチェルとセラプトだ。でもこの雨では戻れない。


 ドアが開き、ヌンだけ戻ってきた。彼は立ったまま飲みかけのコーヒーをあおる。


「ケセド。お前は仕事に行け」

「え?」

「え、じゃない。働き始めたばかりだろ」

「……この雨でも?」

「当たり前だ。行け。まだ遅刻じゃない」


 追い払われた気がしたけれど、口の中にまだトーストが残ったまま、おれは階段を下りた。ミラの姿はなかった。裏口から外に出、雨の中、飛行船まで走った。

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