第22話 かあさん

 アップルパイよりも屋台でついでのように買って帰った鳥の串焼きのほうが好評だったが、イシュチェルは「ウプッ」といいながらも完食した。セラプトが名残惜しそうにパイ生地から落ちた欠片をチロチロ舐めている。


「飛行船で働けることになったよ。配属は厨房だから、きっと残り物を持って帰れるんじゃないかな」

「ハム」

「あると思う」


 イシュチェルは、に、と笑う。すぐ無表情に戻ったけれど。


 明日はきみも一緒に街へ行こう、の言葉は結局、彼女が丸くうずくまって寝てしまったあとも口には出せなかった。代わりに小声でセラプトにたずねる。


「明日、お前も飛行船に乗るか?」


 ぷい、とヘビは頭を振り、イシュチェルの腕にあごを乗せた。今日もセラプトはイシュチェルと一緒に寝るのだ。抱え込む彼女の腕は苦しそうに見えるが、ヘビに不満はないらしい。むしろ若干、自慢げに見えもする。


「こっそりついて来たからって、空から落とされることはないぞ」


 そもそも明日からさっそく乗船するとは限らないし。でもセラプトはあしらうように短い鼻息を吹き出すと目を閉じる。


「つれないなあ」


 イシュチェルとセラプトの向かいで、おれも横になった。手を伸ばしたところで触れないくらい離れた距離だけど。それでも目を開くと洞窟の暗がりに人の輪郭がぼんやり見て取れるだけでも、おれは嬉しかった。


 翌朝。


 ノムアの街に到着すると、緊張が高まりすぎて尻尾を巻いて逃げ出したくなった。でもヌンの余計な世話もあって——もちろん感謝してるけど——まっさらで清々しい気分より、どんより疑り深い考えまでついて回るので、逆に吹っ切れもした。


 そして飛行船の事務所について制服を渡されて替えた後は、あれこれ悩む間もなくなった。新しく覚えることが多くて、体中、すっかりのぼせてしまいそうだったから。


 厨房の制服は生成りの襟が詰まったシャツに薄茶色のだぼっとした太いズボンだった。それに着替えると、停留している飛行船まで案内してもらった。


 飛行船はあまりに大きく、端から端まで、一目で全体を把握することは無理だった。ましてや案内してくれた長い金髪をぐるぐる巻きにしている女の人は、赤いハイヒールを履いた足がとても速くて、ゆっくり見てもいられなかった。


 急きたてられるように船内に入ると、そこでもびっくりさせられた。道順を覚えるだけでも一苦労だ。広すぎて、おれからするとひとつの集落に入ったのも同じだった。


 おれが働く食事場はレストランと呼んでいて、両脇が巨大なガラス張りになっていた。カツカツ歩く足音を追って急ぎながらちらと目にした給仕の服は、おれが着ているのに比べるとずいぶん質が良いようだった。まっさらな白シャツに黒のベストとズボンは光沢がある。


 うらやましがってると思ったのか、案内の女性はいきなり立ち止まり、おれのあごに手をかけると顔を近づけてきた。


「あっちがご希望なら、もうちょっと笑えるようになることだね。あんた、十八のわりに目が据わりすぎだよ。戦に出るんじゃあるまいし」


 むせ返る香水の匂いに、なるべく表情を崩すまいと努力していると、


「いいや、ここは戦場だ、気を抜くと首が跳ぶぞ」


 調理場から太い男の声がして、出刃包丁を持った料理人が出てきた。女の人が振り返ったので、あごから手が離れてほっとする。こっそり鼻をこすった。


「あんた、いつも物騒だね。絶対厨房から出てこないでよ。このレストランでは人を捌いて客に出してるなんて噂が立ったら困るからね」


 ふんっ、と男。

「新入りか。わしは料理長だ。いいか、使えないようなら」

 きら、と包丁が光った。

「鍋にぶち込むぞ、小僧」


「……ケセドです」

「ヌンさんの紹介だよ」

「ほう、この子か」


 ヌンの名が出て、つい不満が顔に出そうになったが、料理人の男の人はずんずん近づいてきて、包丁を持つのとは逆の手でおれの首根っこを捕まえるので、不満どころじゃなくなった。


「真面目でよく働くと聞いている。さっそく洗い物をしろ。そのあとは床掃除、それからまた洗い物だ。怠けると指を切るぞ」


「可愛がっておやり」

「もちろんだとも」


 それからちょっと記憶が飛んだ。気づいたら「お前はもう帰れ」と飛行船から押し出されていた。初日にクビになったわけじゃない。時間があっという間に過ぎて今日は終わりなだけだ。


 余り物がもらえるかも、といった儚い希望は散ったが、それでも明日からもうまくやっていけそうな気がして心は軽かった。


 料理長はよく怒鳴ったが同時によく笑いもした。厨房で一緒に働くことになった人たちの年齢は様々で、男も女もどっちもいた。


 でもズンダのような人はひとりもいなかった。彼らの輪の中に、おれもちゃんと入っていた。全員が明るく気さくに話しかけてきて、新入りでもむやみに蔑んだりしてこなかった。


 もちろんまだ緊張はあるし失敗を恐れて固くなってしまうけれど、卑屈な気分が入り込む余地がないほど、おれは高揚していた。走って跳びはねたいくらいだった。


 でも実際にそうしなくてよかった。心地よい疲労と高揚感が冷や水を浴びたようにハッとする。事務所で着替えをすませて外に出ると、ミラが立っていた。出てくるのを待っていたようだ。おれに気づくと微笑を浮かべて近づいてくる。


「うまくやっていけそうかい」

「ヌンが話したんですか?」


 言葉にかぶせてすぐ返すと、ミラは面食らった顔をしてから豪快に噴き出した。


「ああそうだけどね。まあ聞き出したってのが正解かな。彼がきみの世話をするといったけど、どうするつもりなのか気になってね」


 息子だから? そう思ったが口に出さなかった。でも顔に出ていたのかもしれない。ミラは少し表情をくもらせ、落ち込んだみたいだった。


「わたしはまだ飛行船に乗ったことがないんだよ。おっかなくてね。きみはそうでもないみたいだね」


「本当に空を飛んでみたら、そう思わなくなるかもしれません」


「そうなったらなったで別の仕事があるさ。わたしたちの手伝いをしてくれてもいいよ」


 おれは顔がゆがみそうになるのをなんとか堪えた。


「帰らなくちゃ。暗くなったら船が漕ぎにくくなる」


 早く立ち去りたくて余計なことをいってしまったと気づく。ミラが立ち塞がるように横に動いた。


「船? 街に部屋をとってないのかい。用意してあげようか。お金が必要なら、わたしが出すから」


「世話なら」

 嫌になるくらい尖った声が出た。

「ヌンに頼むから。あなたは他の人を心配したらいいでしょ? そういう活動をしてるんだから」


「ケセド」


「親子だと思われて何かあなたの特になります? ならないと思うな。子どもを捨ててきた、なんて聞こえがいいとは思わないし」


 無理やり意識して笑うと、おれの肩は小さく動いた。痙攣するみたいに。


「かあさんに会いたいと思った日もあった。でも会ったら」


 おれは目を伏せた。乾いた声が震えないよう、腹とのどに力を入れた。


「会ったら、会わなきゃよかったと思った」

「すまなかった」

「何に対して?」


 つい顔をあげ、彼女を見てしまう。心内を読み取りにくい表情だ。煩わしそうでもあり、悲しそうでもある。目にしてると腹が立ってきた。


「さあ。すべてに対してかな。白状するよ。嘘をついても仕方ないから。わたしはきみに会いたいと思ったことがなかったよ」


 おれは嬉しくなった。


「いいね。そういう話が聞きたい」

「でもね」

「否定か。その続きは聞きたくないかも」

「大きくなったきみも見て、ちょっと気持ちが変化した」


 にらむとミラは恥ずかしがる少女みたいに笑った。


「きみは、わたし似だったんだね」


 怒涛の勢いで込み上げてきた感情を飲み下した。それは怒りなのか悲しみなのか判断できないけれど、ひたすらに激情だった。今が夜だったらどんなに良かったろう。まだ陽が高すぎる。空はまだ染まり切らずにあたりを照らしてばかりいる。


「シャダイには似てない。まったく」

「ああ、そうだとも。きみはあいつのように醜くない、ちっとも似てない」


 ミラはおれを見つめたまま黙ってしまった。立ち去ろう。何だってヌンもミラも、こっちが気分最高のときに、現実のとどめを刺すように現れるんだろう。


「ケセドの名前だが」


 横を抜けてすぐミラがいった。立ち止まる。振り向くのはやめた。


「わたしが付けたんじゃない」


 ああ、この人は。笑えるくらい率直だ。


「ババ様が、先代のババ様が付けた名前だよ。わたしは……、すまない。関わりたくなかったんだ、きみと」


 その言葉におれは深く傷ついた。でも。そのあと噴き出したのは憎しみの血液じゃなかった。腑に落ちた。流れ出たのは悲痛な哀しみだった。これは同情だ。おれに対してでなく。彼女に対しての。


「もしも」


 背を向けたまま微かに出た声だった。でもミラが聞き逃すまいと耳をそばだてている気配が伝わってくる。


「もしもおれが女の子だったら。あなたは捨てて行かなかったでしょうね」


 そうだね、とつぶやく声が弱々しくて。


「あんな場所に、女の子は置いて行かない」

「よかった」


 不思議なことに救われた気がした。おれが女だったら一緒に連れて行ってもらえたのだと思ったら、恨みがましさじゃなく、安堵が肌を包んだ。彼女が捨てたかったのは記憶であり、母子の血縁ではないのだから。


 じんわりと胸の奥から。遠い幼い記憶の底から。あの長く湿った孤独の矛先が。ミラに向かうのをやめた。


「おれが」

 軽く、肩越しに振り返った。

「かあさん似で良かったよ」


 きっと。


 先代のジジ様がおれにつらく当たった理由の一つは、この見かけだったのだろう。罪人と似ている孫なんて可愛くないさ。


 けれど確実にあるもう片方の血が一滴でも表出してなくて良かったと心から思う。本当に。似なくて良かった。何よりの贈り物だ。


「ケセド」

「またね」


 ミラの頬に涙が伝っていたように見えたのは落ちていく日差しが長く照りつけたための錯覚かもしれない。おれは歩き出したから、よく見ていないのだ。

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