第20話 職探しと飛行船

 おれはひとりでノムアにいた。セラプトもいない。イシュチェルと一緒に洞窟で留守番をしているから。


 というか。


 街に来たがらなかったイシュチェルがセラプトを人質にとってしまい、仕方なくおれだけノムアに来ていたのだ。芸をするヘビがいないと手っ取り早く金を稼ぐ手段がなくなるというのに。


 巾着袋には。この前稼いだ金がまだ少し残っていたが、昨夜のような量の食事を続けるつもりなら、あっという間になくなってしまう。


 もともといつか職は探すつもりだったのだ。日雇いで何か仕事はないかと考えていると、張り紙が目に入った。飲み屋の外壁に貼られているそれは、ふっくらした雲のような飛行船の絵が描いてあった。


「厨房の乗組員、募集中……」


 ◇◇


 拍子抜けした。しつこくすがりついてでも雇ってもらう気概で行ったのに受付の男は、おれの見てくれにさっと目をやり、名前を聞くと、明日から来るようにいって、前払いだと金までくれた。


 どうやら近々航路を拡大するらしいのだが、最近あった墜落事故の影響で、うまく人員が確保できないでいるのだとか。


「墜落事故」の言葉に一瞬迷いが生じたけど、起こしたのは別会社の飛行船だとのことで、男はおれの肩をがっしりつかんで放さない。


「心配するな。うちの会社は最新技術を使ってて起業から死亡事故は一件もなし。速度は遅いが『安全安心』ってのがウリだから」


 それに万が一危険だとしても操縦士や燃料室で働いている従業員で、厨房の下働きは最高級のうまい物を食えて上空から眼下を眺める余裕もあるのだと力説する。


「決まりだ、採用。ケセドくん、よろしく頼むよ。明日から早速仕事を教えるから、今日は最後の休暇だと思ってしっかり休みな」


 とにかく男の圧力がすごくて逃げ場がない感じだった。募集の受付をしていた事務所のそばに飛行船はなかったこともあり、こんなに簡単にあの空飛ぶ船に乗れるのかと思うと、狐につままれた気分だ。


 でもまあ素直に頑張ってみるしかない。街で見かける料理は不慣れだけど、集落では長く炊事場の手伝いをしてきたんだ。少しは自信がある。


 飛行船は数時間飛行するのでまだ精一杯なんだそうだ。それでも複数の街を経由して長い航路を数日かけ戻ってくるという。最長で一週間。今後はもっと長くなる予定だとか。


 男はぺらぺらと饒舌だった。どの言葉も、弾ける刺激に満ちていた。飛行船は深い谷間の上を飛び、見渡す限りの海の上も進むといった。朝日の中も、夕陽の中も。月夜の番だって飛ぶのだ。


 話を耳にしているだけで、まるでおれ自身に翼が生えて飛び立つような高揚感があった。軽く地を蹴れば、そのまま雲も突き抜けていける。


 事務所を出たあとは何もかもが愛情深く見えた。人目が怖くなかった。「飛行船に乗れるんだよ」と誰彼かまわず捕まえて自慢したくなった。誇りを感じた。着実におれはおれの人生を自らの手で切り開いていけている気がした。


 あまりの充足感で腹は減らなかった。昼食を抜きにして服を買いに店を回った。自分の私服を選ぶのは簡単だった。飛行船では制服が支給されるらしいから、あとは寝間着や外着用を数着用意すればいい。だから白シャツを二枚と黒のズボンを一本買い足した。


 でもイシュチェルはそうはいかない。女物は種類も多くて、どこからどこまで買いそろえていけばいいのかわからなかった。


 女物の助言といえばミラの顔が浮かんだが、彼女に助けを求める気は全くなかった。逆に通りで出くわさないかと警戒して歩いたくらいだ。


 結局以前と同じ店に行き、店員に勧められるままブラウスとスカートを買った。その店は化粧品も少しだが置いてあって、おれは目に留まったその瓶を手に取った。


「これってどれくらい染まりますか? たとえば……、赤毛も真っ黒に?」


 気になった瓶は毛染め剤だ。店員はおれの髪に目をやり、瓶裏の説明書を確認する。


「お客さんほど真っ黒に染めるのは無理かな。赤毛なら明るい茶がせいぜいだろうね。なあに、お客さんの恋人は情熱的な赤毛の娘なのかね?」


「こっ、妹の話です。この服も。そういったでしょう?」

「きょだいで髪色が違うのかい?」

「異邦人の血が入っているので」


 店員は大いに納得とうなずいているが、にやっと笑ったところを見ると、次からは別の店にしたほうがいいかもしれない。


 その毛染め剤も購入して店を出た。イシュチェルは髪の色を気にしている。あの瑠璃色を染めるなんて宝石をどぶに捨てるようなものだが、何やらいわくありげなのだ。変えられる方法があり、それで彼女が街で過ごしやすくなるなら試して損はない。


 黒は無理でも赤毛が茶に染まるなら十分だろう。それにしてもこうして毛染め剤が店で売っているくらいなのに、生来の髪色を気にするなんておかしな話だ。なんだって瑠璃色だとだめなんだ。 


 イシュチェルはセラプトと同じだと、ヌンはいっていた。つまり彼女の髪色は普通じゃない。異端。外れ者。でも、だからこそ尊いはずだろう? と、そこでばったり出くわした人物を見て、おれの表情はゆがむ。


「ケセド」


 ヌンがぎこちない笑顔で片手をあげている。おれは無視して横を抜けようとした。


「おいおい、ケセド。昼は食ったか? 今日はひとりだな。こっちに住むなら部屋を探すのを手伝おう。そうだ、飛行船の募集は見たか? まだなら一緒に事務所へ」


 人込みに紛れて逃げるつもりだったが、「飛行船」の言葉に反応して立ち止まる。


「何かしたのか」

「何か?」


 ヌンは飛行船の乗組員に知り合いがいるといっていた。おれが頼めばお前も雇って……。


「そういうことか。やけにあっさり採用してくれると思った」


 かまをかけたつもりだった。でもヌンの目に焦った色を見てとり、おれの口から乾いた笑いが漏れる。


「ケセド。おれはお前に」

「人手不足は嘘なんだ?」

「そうじゃない。それは本当だ。それにおれは気にかけてやってくれと頼んだだけで」

「どうだか」


 これ以上聞きたくなかった。おれの実力? 運が良かった? いいや。ヌンのおかげだ。彼が身元を保証してくれた。それが現実だ。


 数日前なら。


 おれはきっとヌンの心遣いに感謝して涙ぐんだはずだ。そこに愛を感じて。両手広げて飛びつきたいほどの喜びに震えただろう。


 でも今は違う。砕け散る自尊心と息苦しくなる情けなさで鼻の奥がつんとする。純白だと信じて受け取ったものが開けてみたら薄汚れていた、そんな失望でいっぱいだ。


 それでも明日、おれはあの男に会いに行き、仕事を教えてもらうだろう。ヌンの名前が出たら純真な目をして感謝を述べる。


 ぼくは恵まれている。

 ぼくはヌンに感謝してもしきれない。

 彼に恥をかかせないように働く。お金を得たら、誰よりも先に彼に見せるだろう。


「ありがとう、ヌン。助かったよ。飛行船に乗れるなんて夢みたいだ」


 おれは無理やり口角をあげて言葉を吐き出したが、声音の固さは誤魔化しきれなかった。もっとうまくできるだろ。できるはずだ。


 罪人の子として、情けで飯を食わせてもらっている少年として生きてきた日々がある。自己を守るためにどうすべきか。おれは学んだ。だから、もっとうまく振舞える。


 遠く捨て去った日々が少し戻ってくるだけだ。騒ぐことじゃない。ちょっとだけ傲慢が過ぎただけだ。勘違いして恥ずかしかっただけだ。


「ケセド。おれはお前に」

「ありがとう、感謝してる。本当に」


 金がいる。腹がすくから。服が欲しいから。暖をとりたいから。


 ——ほら。今度は上手に笑えただろ?


「ヌン。安くてうまいものを買うにはどこに行けばいいかな。案内してよ」


 肩に手が回される。ヌンの腕は重く力強い。そして温かく頼りになる。だけど。


 どうしてだろう。街はもう愛情深く輝いては見えなかった。くすんだ幕がおれの眼前には下りている。

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