第19話 囲む火とイシュチェルの声

 ソーセージが焼ける食欲をそそる香りも、おれの気分をあげてはくれなかった。洞窟の外で火を囲み、おれたちは夕食を作っていた。


「セラプト、そっちは煮えたか?」


 白ヘビが頭をぶんぶと振る。


 今晩の石窯は二つあった。ひとつはおれが焼くソーセージ、もうひとつはセラプトが加減を見守っている汁物の鍋。市場で野菜も買ってきていたし、おれたちにとってはかなり豪華な食事だ。


「イシュチェル。そんなに近づいたら前髪が燃えるよ」


 向かいでソーセージを見張っている彼女をたしなめる。若干、下がったようだけどまだ近い。絶対熱いと思うのだが、まばたきひとつせずジュウジュウ音を立てるメインディッシュを凝視している。


「これも焼こうかな」


 輪切りにした丸ナスとひと房を三つに割ったトウモロコシを追加する。イシュチェルの眉間にわずかに線が入る。どっちかが嫌いなのかもしれない。甘唐辛子を追加したらさらに険しくなった。彼女は肉食のようだ。


「今日は最悪だったけど」


 おれは焼けたソーセージを小皿に取り分け、彼女に渡した。


「また街に行こう。ヌンは行商人だから、そのうち他の町に移るだろうしミラも、あの女の人だって、もうおれに絡んでくることはないさ」


 金ならセラプトの芸でそれなりに稼げることがわかった。だからしばらくは路上芸でつなぎ、飽きられる前におれがノムアで仕事を見つければ、二人と一匹くらいなんとか暮らしていけるはずだ。


 おれは焼き加減を見るふりをして上目でイシュチェルの様子をうかがった。はふはふと熱そうにしながらソーセージを頬張っている。橙色の火に染められながらも、彼女の瑠璃色の髪は蠱惑的に美しかった。


 竜姫。たしか二人はそう口にした。ヌンとミラは、イシュチェルの髪色に反応したように思う。竜姫は森の守り神のはずだ。


「それならもっと丁重に接して——お、煮えた?」


 セラプトが、にょろにょろ体をくねらせて合図している。身を乗り出して鍋の人参に串を刺すとスッと通った。


 味付けは簡単だったが、美味さは十分だった。何より温かい物を食べ、三人で火を囲んでいるのだ。他に何を望むだろう。


 殴られる心配も空腹に耐えることもない。寒さに身を固くし、隙間風に怯えた。眠りながら聞き耳を立て、常に神経をとがらせていた日々はもう終わったのだ。


「幸せってやつだよな」


 イシュチェルが一瞬目をあげ、すぐに伏せた。彼女はトウモロコシと薄切りにしたきのこは食べたが、丸ナスと甘唐辛子は、はねてしまった。


 でも汁物は野菜が入っていようが三杯も食べた。彼女は贅肉のこそげ落ちた痩せた体型をしているが、この調子だとすぐに丸くなるかもしれない。


「このあたりを耕しても野菜は育たないだろうな」


 周囲は岩場と細い木々が根が張った固い土があるだけ。開墾となると大仕事だ。だから、こんな洞窟暮らしより、ノムアに居を構えたほうが生活は楽だろう。


 でも髪色を気にして船に乗ろうとしなかったイシュチェルや、ヌンたちがいう『竜姫』の言葉が、そんな展望をためらわせる。


 あぐらをかいたイシュチェルのひざの上で、こくりこくりとセラプトは眠たげに頭を揺らしている。イシュチェルがへびのあごを支え、離れた目の間をなでた。


「ヘビにとっても今日は不運な日だったよな。お前が気絶しているのを見て、ズンダを思い出したよ」


 セラプトが薄目でにかりと口角をあげる。尖った牙がのぞく。あれでミラの手を噛んだと思うと良い気味だった。


「ヘビをなめると痛い目に……」

「セラプトはヘビではない」


 消えかかった火を木の棒でつついていたおれの手が止まる。かた、と炭になった薪が崩れて音を立てた。


「ヘビにまぶたはない。だからセラプトはヘビではない。お前、間違ってるぞ」


 イシュチェルをまじまじと見つめた。彼女の小さな口が動く。


「こんなに手足が動くアシアリヘビもいない。だからセラプトはヘビではない。わかったか、ケセド」


「……話せたのか?」


 イシュチェルはバカにしたように鼻を鳴らした。ひざのうえでは寝落ちしかけていたセラプトも目を見開いて彼女を見上げている。


「当然だとも」

「でも、今まで」

「必要がなかった」


 いやいやいや。あったでしょ。会話が必要な場面が何度も。おれは耳を疑い、幻を払うように頭を振った。イシュチェルはそんなおれにあきれた目を向けてくる。


「わたしが話せたらだめなのか」

「だめじゃないさ。ただなんで話さなかったのかと」

「必要がなかった」

「……ああ、そう」


 イシュチェルは抑揚のない話し方をした。声も勝手に想像していたよりも低い。年下だと思っていたが、しゃべり出したとたん、その確信すら揺らぐ。


「イシュチェルって何歳?」

「なぜ?」

「え?」

「なぜ聞く」

「……十五歳くらいかなあ、って思ってたから。おれは十八」

「だから?」


 だから? だからと聞かれても。泳ぐおれの視線。たどり着いた先のセラプトは、目が合った瞬間ふいっと横を向いた。


「覚えていない。数えていないから」

 イシュチェルはため息交じりにいう。

「四つくらいの時、ここへ来た。それから、たぶん……わからないな。十五くらいでいいんじゃないか?」


「四つからここで暮らしてる? 嘘だろ。一人で?」


 イシュチェルはきょとんと小首をひねる。おれの驚きが理解できないらしい。


「最初は頻繁に出入りがあった。何晩か続けて滞在する者もいたし。でも」


 あごに手をやり思い返している。その表情に辛そうな感情は見えない。


「次第に誰も来なくなって荷だけ川を渡ってくるようになったんだ」

「運んでくる人には会うだろ?」

「いや。あそこに行くと、もう荷が到着している。だから」


 指を折るイシュチェル。


「三年ぶりくらいか? 人間を見たのは。男を見たのはもっと久しぶりかもしれない。お前、男だよな?」


「あ、ああ。い、いちおう男だ」


 はじめまして、で下帯が解けていた記憶は消してもらえないものだろうか。しかもそれが三年ぶりの人間との邂逅だったとは。申し訳なくて血の気が引く。


「そっちから人が来るとは思わなかった。いつも」

 イシュチェルは洞窟のほうを指差す。

「あっちから来るものだから。水辺の奥から人が出てくるとは想像もしてなかった」


「おれは供物だからな」

 いや。

「供物だったからな。ククスから『竜の胃袋』をひたすら前に進んできたんだ。この川が『竜の胃袋』って呼ばれてるのは知ってる?」


 イシュチェルは首を振った。


「知ってたかもしれない。でも覚えてはいない」

「そっか」


 まだ聞きたいことがたくさんあったけど。


 イシュチェルは久しぶりの会話に疲れてしまったようだ。ゆっくりした呼吸を何度も繰り返している。セラプトが優しく彼女の腕を噛むと、イシュチェルは微笑し、立ちあがった。


「寝る」

「おれも火を消したら寝るよ」


 歩いていくイシュチェルの背に声をかける。


「おやすみ、イシュチェル」


 彼女は肩越しに顔を向けた。


「おやすみ、ケセド。……セラプトは今日もわたしと寝るぞ。こっそり盗むなよ」


 おれは両手をあげる。彼女の肩にあごを乗せたセラプトが、ちろちろと長い舌をくゆらせた。

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