第18話 逃げてきて正解だった

 先に部屋を飛び出したイシュチェル。このまま見失って離れ離れになったら、と焦ったが気鬱ですんだ。階段の踊り場まで行くと彼女の瑠璃色の髪が上から見えたから。階下の隅で小さくうずくまっている。


「やっぱりね。こんにちは、竜姫さん。街で会うなんて珍しいこともあるね。優しい男の子に誘われて岩場を出て来ちゃったのかい?」


 イシュチェルを追いつめていたのはミラだった。腰巾着のようにいつもくっついているあの男もいる。ミラの手にはイシュチェルがかぶっていたはずの山高帽があった。


「何やってんだよ」


 おれは階段を飛ぶように下りてミラから帽子を奪う。


 悪気はない、というように両手をあげるミラ。よくいう。おれはしゃがんでいるイシュチェルに山高帽子をかぶせ、ミラと向き合う。


「意地悪な人だな」

「怒らないでくれ、セラプト。わたしはちょっと確かめたかっただけなんだ」


 おれはミラをにらみ、それから彼女のやや後方にいる男へ目をやり、その奥の食堂に続く戸口を確かめてから振り返った。イシュチェルの肩にセラプトはいない。すぐそばに裏手に出る戸があるが隙間はあいてなかった。


「探してるのは、この子かな」


 ミラが男から何か受け取る。白いヘビだ。つまんだ指先で力なく紐のようにまっすぐ垂れ下がっている。


「噛んだんでね。払ったら気絶したらしい。生きてると思うよ」


 投げてよこすのを両手で受け止める。息が詰まる。見つめたミラの顔に悪意は浮かんでいなかった。それが衝撃的で。


 ぐら、と視界が傾いたようだった。どっと食堂から聞こえてくる賑やかな声に、これまで音がまとも耳に入ってなかったんだと気づいた。笑い声、グラスが鳴る音、触れ合う皿、注文、あいさつ、また笑い声。


「セラプト、大丈夫かい?」

「ケセド」

 問うミラに、おれはいった。

「セラプトはこのヘビ。おれはケセド。歳は十八だ」


 ミラの——かあさんはほとんど表情を変えなかった。ゆったり微笑が浮かぶ。


「あらあら。ククスはいつから十八の子を供物に送り出すようになったんだい?」


「おれは身代わりだ。本当の供物は前夜に逃げ出したから」


 手の中にいたセラプトがぴくりと動く。おれはイシュチェルを振り返った。目深にかぶった山高帽の下からこちらを見上げていた彼女は目が合うと立ち上がった。セラプトを渡す。ぎゅっと抱きしめている。


「ケセドの名付け親はかあさんだと聞いてたんだけど」


 向き合い、一歩、近づく。かあさんは微笑を浮かべたまま、軽く首を傾げた。後ろにいる男がその耳に何かささやく。彼女は小さくうなずいた。


「いつわかった?」

「何?」

「わたしが母親だといつ気づいた? ヌンが話したのかな」

「いいや」


 すぐそばに立つと、かあさんは少し微笑を崩し、あごを上向けた。


「名前を知ってたから。『ミラ』って。だから、そうかな、……て、自分で気づいた」


 小さくなっていく声に惨めさがにじむ。うつむくと、「ジジ様がわたしの名前を教えるとは思わなかったよ」と冷めた声が聞こえた。


 きっと。望んでいた会話はこうではなくて。夢想した光景はまったく違ったはずだった。


 それでも現実が今、容赦なく時を刻んでいく。この瞬間はのちに振り返ったとき、けっして温かく思い返す記憶じゃない。それがわかりきり虚しかった。


「集落で何度も聞いたよ。ミラ、ミラ、って」


 ミラの子。逃げ出したミラが産んだ子。罪人の子、ミラが捨てた子。


「そう」

「その人がとうさん?」


 彼女は面食らった顔をした。それから豪快に噴き出した。


「まさか。こいつはジルフの出だよ。水神祭用に育てた、元供物の少年」


 笑いながら肘で男をつく。彼は苦笑をミラに向け、それから可哀そうな子を見る目でおれを見た。


「きみの父親はククスにいるはずだよ。教えてもらってないのかい?」


「シャダイ。知らないか? まだ生きてるだろ」

 ミラは憎々しげに吐き捨てた。

「それがあんたの父親さ。名乗り出ないとはね。身に覚えはありすぎるくらいだろうに」


「シャダイ」


 ——逃げたの、供物の男の子が。見回りをしていたシャダイが気づいてね。

 ——シャダイが親父に犯人の証拠を渡したのをおれは見たんだ。


「あの人が、おれの?」


 水神祭の前夜。供物の少年はソーダ水のガラス瓶を割って縄を切り逃げ出した。その瓶の破片をジジ様に見せ、逃亡を報告したのがシャダイだった。


 ああ、なんて笑えるんだ。


「かあさんは男と一緒に逃げたと聞いたから」

 そんな身近に父親がいたとは思わなかった。一度も、考えなかった。

「その人が、そうだとばかり」

 

 男の人は悲しげに驚いた顔をした。それは少しだけ愛情深い眼差しだったが、ミラは反対に冷え冷えとした目で吐き捨てた。


「集落のやつらは、きみにそう話したのか」

 ミラは笑いだした。

「そういう連中だよ。いいかい、わたしが一緒に出て行った相手は女だよ。親友と手をつないで、あの地獄から抜け出したんだ」


 ミラは肩を揺らして笑う。笑い続ける。


「わたしと同じ目に遭う前にね。彼女は今、こっちで会った商人と結婚して幸せに暮らしてるよ。わたしだって」


 ミラは笑うのぴたりと止めた。


「あんな場所、逃げてきて正解だった。きみもそうだろ?」


 黙っていると背中にそっと触れる手があった。おれはミラを見返したまま後ろ手を伸ばした。細い指がそっとにぎってくれる。それから手首に巻きついてきた柔らかく這う感触は、昔からの友だちのものだ。


「帰ろう」


 おれはイシュチェルとつないだままの手を自分のほうへ引き寄せた。セラプトがするすると肩に這い登る。シュー、と威嚇の音を鳴らす。


「ケセド」


 階上からの声に振り仰ぐ。いつからそこにいたのか。ヌンがこっちを見下ろしていた。


「ヌン」ミラは陽気にいった。

「わたしの息子が『竜姫』と親しくしているのはどうしたことだろうね?」


 ヌンの表情が引きつる。でも彼は急いで階下におりてくることもなく、ましてやおれの前に出てかばうなんて仕草もない。ミラとおれのあいだで、どうしようかと迷っている。当然だ。でも腹が立った。何もする気がないなら、声などかけてこなきゃいいのに。まるで見世物の気分だ。どうぞご覧ください。これが生き別れた親子の感動の再会場面です。さあ満足したなら金払って奥にすっこんでろ。


「あんたらには関係ないだろ」


 低く吐き出した声は、彼らに聞こえただろうか。おれはミラたちに背を向け、裏手の戸口から外に出た。厩の脇に出、表まで回る。ずっとイシュチェルの手をつかんでいた。彼女に振り払う素振りはなかった。


 供物の衣を売り、金にした。満足のいく値はつかなかったが、持っていてもしょうがないものだ。船に乗り、川を渡って洞窟に戻った。家に帰ったと、そう感じた。

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