第17話 あんたにはいわれたくなかったよ。

 ヌンはホーローのマグカップにコーヒーを入れて勧めてきたが、おれは一口だけ飲んでやめていた。イシュチェルの肩にセラプトを乗せたままで、部屋に入るなり窓辺に立ち、外を見ている。


 ノックして部屋に入ったとき、ヌンはおれの隣にいるイシュチェルを見て、わずかにだが笑顔が引きつった。


 山高帽のつばを握り、うつむいていたイシュチェルはその表情を見ていなかったろうが、ヌンのその態度に、おれは少しがっかりした。きっと笑顔でおれとイシュチェルを迎えてくれると思っていたから。


 今思えば、そこからうまくいかない気配は漂っていた。ヌンはいつものようにおれと接しようとしていたが、気まずそうなのが見え見えで、イシュチェルがいることに戸惑っている様子だった。


「ミラ。さっきも会ったよ」


 おれは窓辺のイシュチェルへ目をやりながら小声でいった。ヌンはコーヒーをすするように飲むと視線をあげずにいった。


「そうか。よく外を出歩いてる人だからな」

「一緒にいた男の人。この前もそうだったけど。あの人がそう?」


 詳しくいわなくてもヌンならわかるはずだ。ミラは集落を出るとき、男と一緒だった。ヌンは置きかけたカップをまた口に運んだ。おれは向かいに座るヌンへ身を乗り出した。


「そうなんだろ、ヌン。向こうはおれに気づいてないよね。歳は十五で名前はセラプトだと信じてるんだ。もっと」


 もっと、運命的とか。

 血の縁とか。会えば感ずるものがあると期待交じりの空想をしていたけれど。


「あっさりしたもんだよね。おれだって名前を知らなかったら、粋な女性だ、くらいにしか印象を持たなかったろうな」

「彼女も苦労した」

「だろうね」


 ヌンは何かいおうとしたが渋った。結局、またカップに口をつけ飲み込んでいる。彼は答えないつもりだ。本人が街にいるんだ。聞きたいことはミラに直接聞けってことか。それはおれの目には卑怯に映った。


 何でも知っていて、何でも教えてくれるヌンがこの日は小さく見えた。


 目にすることのない服を着て、見たことのない物を運んできてくれる行商人のヌンは、おれにとって英雄だった。大きくて。憧れの。手に届かない場所で生きている、希望に満ち溢れている人。


 でも目の前にいるヌンは、よれよれの色あせた上着を着てシャツは皺だらけ。羨望がくすんでいく。好きの気持ちが疑念に変わる。太陽が動いて影を作るように、直視するのも眩しかった人が、陰り、熱を冷ましていった。


 ヌンはおれの境遇を知っていた。母親に捨てられ、罪人の子として耐えることでしか自分を守れない、そんな生活。


 いつだったか。ヌンにいったことがある。旅する彼におれは愛を託した。


「——もしもね。かあさんにあったら」

 ヌンはおれの頭に手を置いたはずだ。優しく微笑みながら。

「ぼくがね、あいたがってるって、つたえてね。森のはしっこのところまでいくから。いっかいだけ。どんなひとか、みたいんだ」


 ヌンはミラがどこで何をしているか知っていた。彼女はずっと遠くまで行ったわけじゃなかった。ここに、ノムアにいた。


 ヌンが何も教えてくれなかったことは責めない。彼の気持ちは理解できる。集落のしきたりやおれの境遇、ミラの新しい生活もある。そんなもののあいだに入って何かするには相応の犠牲が彼にも強いられる。自由を好む彼にそれを求めるのは酷だ。


 それに。あの様子から。集落に残してきた息子を、ミラが気にかけていたとは思えなかった。だからこそ、ヌンだって何もできなかったのだろう。


 けれど理解できたとしても憤りを簡単に消せるわけじゃない。ふつふつと湧くのを抑えていないと、当たり散らしてしまいそうだった。


 この場にイシュチェルがいて良かった。彼女の前で怒鳴ったりわめいたりするおれを見せたくない。おれは話題を変えてヌンと話そうとした。でも適当な言葉が浮かばない。浮かぶのはイシュチェルに聞かせたくないものばかりだ。


 マグカップを見ていた視線をあげるとイシュチェルの肩にいるセラプトと目が合った。おれの心を見透かすように、澄んだ瞳が優しくおれを気にかけている。


 おれは窓辺に寄ろうと席を立った。と、何か見つけたのか。イシュチェルが突然、窓を開け放ち、身を乗り出す。そばに行って彼女が何に気を引かれたのかわかった。空だ。空に浮かんだ大きな楕円形の球体が、街に影を落としながらゆったり飛んでいる。


「飛行船か」

 窓辺を振り返ったヌンがいった。

「飛行船? あれは、人が作ったもの?」

「当たり前だ」


 ヌンは笑った。いつも尊敬を抱きながら耳にしていた、あの懐かしい笑い方だった。


「空気より軽い気体を詰めて浮いている。お前は風船を見たことがなかったかな」

「さあ、ないと思うけど」


 飛行船は強大だった。そこらの建物より大きい。三軒分くらいあるかもしれない。いやもっとかな。動きはのろいがあんな大きなものが空に浮くなんて信じられなかった。


 イシュチェルに視線を落とすと、彼女もすっかり魅了されている。山高帽がずり落ちそうになっていても気にせず、ぽかんと口をあけ、あんぐり見上げている。でもセラプトのほうはそうでもないらしい。胡散臭い物を見る目で、斜に空をにらんでいた。


「あれはまだ小さいほうだな」


 部屋にもうひとつある隣の窓から顔を出し、ヌンがいう。


「あれより大きいのがあるの?」


「ああ。あれは観光用だ。もっと大量に人や物を運ぶ貨物用のものがある。そういえば新しい乗組員を募集していたはずだ。若くて力のある子をな」


 にやっと笑うヌン。おれは窓から首を伸ばして飛行船をながめた。


「イシュチェル。一緒に飛行船に乗ろう」


 ぎょっとしたのはセラプトだ。ぼくは嫌だね、って顔をしている。イシュチェルはハムを食べたときよりも、輝いた目でおれを見た。


 でも。


「その子は無理だ」

「なぜ」ヌンの言葉に腹が立った。

「女の子だから?」


 横目でうかがうとイシュチェルは身を乗り出すのをやめ、山高帽をぎゅっとかぶりなおしている。


「いいや。女の乗組員もたくさんいるさ」

「だったら」

「その子は」


 ヌンはおれから視線を外した。見たのはイシュチェルか、それともセラプトか。


「そのヘビと同じだ」

「同じ?」

「お前もよく知っているだろう、ケセド。外れ者がどんな目に遭うか」


 おれはヌンの視界にイシュチェルが入らないよう前に出て隠した。


「どういう意味?」

「髪だ」


 ヌンは疲れきった長いため息をつく。


「髪の何がそんなに問題なんだよ」

「そんな髪色をした子は他にいない」

「だから?」

「ケセド。ノムアでは、その髪色を持つ子にはいわれがあって」

「瑠璃色だろ」

「瑠璃色?」

「……海の、色」


「ああ、ガラス瓶の色か」


 ヌンは笑った。憐憫と嘲笑交じりの、思わず漏れてしまった本音といわんばかりに短く口をついたその乾いた音が、おれの中にあったヌンへの幻想を完全に砕けさせた。


 ソーダ水の瓶の色を海の色だと、瑠璃色だと教えてくれたのは彼だ。その彼がおれの大切にしていた言葉を笑ったんだ。


「おれは海を見るんだ。イシュチェルと」


 一緒に、の言葉をさえぎり、ヌンがいった。


「その子は『竜姫』だ」


 イシュチェルがおれの背後から飛び出した。あっという間に部屋を出て行く。追いかけようとして前をヌンが立ち塞ぐ。


「やめとけ、ケセド。お前はやっと自由になれたんだ。厄介者をなぜ背負いこむ」

「どいてくれ」

「お前の気持ちはわかる。ヘビと同じだ。同情してるんだろ? 慰め合う仲間が欲しいんだ。だがな、お前はもうあいつらとは違うんだ」


「ヌン。どけよ」

「お前を罪人の子だと呼ぶ者はここにはもういない。虐めてくるズンダだっていないんだ」

「どけって」


 おれはヌンを力いっぱい押した。だが彼は動かず、逆に手首をつかまれる。


「ケセド。おれは飛行船の乗組員に知り合いが何人かいる。頼めばお前も乗船できるはずだ。あれは外国にだって飛んでいく。海の上だって飛ぶぞ」


 腕を振り、何とか抜け出した。ヌンの声が背中にぶつかる。


「大人になれ、ケセド。利益をつかめ。あんな少女に固執してどうなる。会ったばかりだろう。お前は何も知らないんだ」

「……固執なんかじゃ」


 立ち止まった自分が嫌だった。そして彼の続けた言葉は否定できなかった。


「自分より弱い物を守って力を誇示したい、そうだろ? 異形の白ヘビに対してもそうだった。自分にも何かできることがあるんだと感じていたいんだろ。でもそれは少女にかまって連れまわすことじゃない。お前に必要なのは挑戦だよ」


 おれは振り返らなかった。どんな顔でヌンがそんなことをいってようとかまわなかった。二度と会うつもりがないから。


「じゃあね」


 おれは部屋を出た。ヌンはおれのことがよくわかっている。イシュチェルに抱くこの気持ちは同情だ。何かしてやることで虚栄心が満たされる。でもね。あんたにはいわれたくなかったよ、ヌン。

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