第16話 イシュチェルと買い食いデート

 イシュチェルを連れ出すのは大変だった。


 向こう側の洞窟。川を渡っていくと、ノムアという街がある。おれは昨日行ってきた。そこで知り合いにも会ったし船も借りてきた。だから泳ぐ必要はなく、きみは座って船に乗っていればいいだけだ。


 ……などなど。力説したが。


 彼女は腕組みのしかめっ面。肩を押してうながしたが踏ん張って抵抗してくる。


「街が気に入らなかったらすぐ戻ろう。でもきっと楽しいよ」


 セラプトもイシュチェルのふくらはぎをぐいぐい押している。それでも、ぶんぶん首を振って拒否のイシュチェルだ。


 こんな殺風景な岩場に留まっていないといけない理由でもあるのか。それとも出て行けない訳、精神的なものじゃなく、何か根本的に無理な事情が……と思ったら。


 イシュチェルは食い気に負けた。


 パンとハムはもうないこと、食べたいなら買ってこなくちゃいけないこと、街にはもっとおいしいものがたくさんあること。


「それにきみの着替えも必要だろ? 今度は自分で選んだらいいよ。セラプトが稼いだ金がまだ残って——え、行く?」


 こく。


「よ、よし、行こう!」


 だが狭い洞窟を抜け、いざ船に乗ろうってところでイシュチェルはまた抵抗を始めた。先に船に乗り、手を差し伸べても、後ずさりして木箱の上に座ってしまい動かない。


 セラプトが船から身を乗り出して、くいくい頭を上げ下げして呼ぶが、むっつり。「ハム、ハム」と煽ってみるも、恨みがましい目で見てくるばかりだった。


「どうしたんだよ。怖くないって」


 おれは船をわざと揺らしてひっくり返らないことを示した。泳げないのだろうか? 水が怖い? ……いや、岩場で水浴びしてたんだから水が怖いはずないか。


「小さい船だけど、きみが乗ったくらいじゃ沈まないよ」


 セラプトがとーんとーんと跳びはねて、船が丈夫なことを見せている。おれはいったん船から下りて、にらんでくるイシュチェルのそばにいった。


「ハム」

 ……っ。すねを蹴られた。

「イシュチェル、どうしたんだよ?」


 屈んで視線を彼女より下げる。イシュチェルは口を尖らすと、両頬に垂れた髪をぎゅっと握った。


「髪? 髪は綺麗にとかしただろ?」


 からまりボサボサだった髪は、今はサラサラ……とまではいかなくても、それなりに美しく整っている。


 イシュチェルの放置され続けていた髪は、櫛の歯が負けそうな頑固さだった。おれの手本を真似てとかそうとしたはいいが、頭に櫛が刺さった状態でイシュチェルが諦めるほどだ。


 それでもセラプトの芸を見せながら、おれがなんとか毛づくろいした成果で、瑠璃色の髪はまっすぐ長く伸びている。


「変じゃないよ。服だってよく似合ってる」


 でもイシュチェルはバカを見るような目で舌打ちし、そっぽを向く。船を振り返り、おれはセラプトと視線を交わした。彼もくねんと身をよじり不思議がる。


「イシュチェル、行こう」


 嫌がるイシュチェル。また髪をつかんでぐいぐい引いている。


「髪は綺麗で、あ、色? 色が目立つのを気にしてるのか?」


 こく。


「だったら」


 おれは船に戻り、昨日もらった山高帽をつかむ。袖なしワンピースには似合わないかもしれないけど、


「これをかぶったらいいよ。髪も紐で結んでおけば隠れるはずだよ」


 疑わしげにおれを見たイシュチェルだが、


「ほら。んー、鏡を買っとけばよかったな」


 イシュチェルは水面をのぞき込む。山高帽は彼女には大きくて目深まですっぽりだ。髪も高い位置で縛るとほとんど隠れて見えない。


「な? これで平気だろ?」


 ぎこちなく口をもごつかせるイシュチェル。笑ったのだと解釈して船に乗るよう手を引いた。


 そうして船上では櫂を使いたがったり、水に手をつけて水滴を跳ねさせたりして楽しんでいたイシュチェル。でもノムアの街を見るなりカチコチに固まってしまった。これ以上ないくらい山高帽を深く深く下に引っ張っている。


「昨日のおれより目立ってないことは保証する。だから安心して」


 右肩にかけていたリュックをちゃんと背負う。セラプトがその上に乗った。


「さて。念願のハムを買いに行こうか」


 イシュチェルはすっかり気弱になり、終始おれの背に隠れていた。でも肉屋によりハムとソーセージを、パン屋で白い丸パンと砂糖がかかった揚げパンを買って食べ歩きしていると、だんだんと前に出てくるようになった。


 あれ、これ、それ、と指をさしていく。買えばにんまり笑う。欲しがるのは全部食い物だった。右手に串焼き、左にべっこう飴を持ちながら、次は饅頭が食いたいようだ。


「イシュチェル」


 おれは硬貨が入る巾着を開けて見ていた。残りがちょっと寂しくなってきた。


「そろそろ服を見に行こう。着替えが必要だか」と、通りがかったその人を見て言葉を切る。べっこう飴をかじっていたイシュチェルが、きょとんと振り返る。


「やあ。もうガールフレンドができたのかい?」


 ミラだ。また昨日と同じ男の人が一緒にいる。もしかしたら、あの人がおれの。黙っているとミラはイシュチェルのほうに興味を移した。


「お嬢さん、かっこいい帽子だね」


 手を伸ばし、帽子に触ろうとする。イシュチェルは素早くおれの後ろに隠れた。


「あ、彼女。帽子をかぶってないと落ち着かないらしくて」

「そうか。それは申し訳ない」


 ミラは微笑んだが、イシュチェルはじっと動かず、固まってしまっている。


「セラプト」


 ミラの声にリュックの上にいたセラプトがぴくんと動く。だが彼女の視線はおれを見ている。


「きみはヌンと一緒に働くつもりかい?」

「働く?」

 すると、これまで黙っていた男の人がいった。

「行商人になるのかな、って」

 おれは彼とミラを交互に見て首を振った。

「さあ。わからない」


 ミラは男と目を見交わして肩をすくめる。


「今から」


 おれは男の顔をじっくり見た。あまり器量はよくない。四角い輪郭で大きな鼻をしている。おれの頬は角ばってないし、鼻もあそこまで大きくはない。


「ヌンに会おうと思って。今後のことは彼に相談する」

「そうか」


 ミラは微笑した。よく笑う人だ。でもどこか安っぽい笑顔だった。彼女はセラプトとイシュチェルにも別れの笑顔を向けると颯爽と通りを進んでいった。隣の男と親しげに話し、声を上げて笑っている。


 視線を戻すと探る目をしたイシュチェルが真向かいにいた。彼女の肩には、いつの間にかセラプトが移動して乗っている。


「あー、名前のこと? あの人の前ではセラプトで通すつもりなんだ。だから」


 ケセドとは呼ばないで、といいかけ、黙る。イシュチェルは細目で斜に見てきたが、セラプトをなで、くるりと背を向けた。


「イシュチェル、ごめん。そっちじゃなくて、こっち。ヌンに会いに行こう」


 反対の路地を示す。


「ヌンの前ではケセドでいるんだけどね。ミラは——あの女の人は、その、苦手なんだ」


 イシュチェルはじっと見つめてきたが串焼きとべっこう飴を食べつくすと、ゴミをおれに押しつけ、すたすたと向かいの路地へ歩き出す。だいぶ街にも慣れてきたようだ。肩に乗るセラプトが早く来いとおれを招く。


 ヌンがいるアオサギ亭まで迷わずに行けてほっとした。中に入ると女将さんにヌンが滞在している部屋の場所を確認して、階段をあがる。イシュチェルは中に入ってから歩の進みがのろくなり、階段の前で立ち止まってしまったが、腕をつかんでちょっと無理やりだったが引っ張っていく。


「ヌンは良い人だよ。おれは信頼してる。大陸中を旅していて、いろんなことに詳しいんだ」


 そう、だから。


 今日は避けずに聞こうと思う。かあさんのことや、岩場に住んでいるイシュチェルと運ばれてくる食料ことについて。


 彼ならきっと、知っているはずだ。

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