第15話 ハムとワンピース
パン切り用のナイフも買うべきだった。おれはヌンが前にやっていたように、パンを薄く切って中にハムを挟みたかったんだ。
「でもまあ、パンが気に入ってよかったよ」
おれはハムを焼きながら感想をもらす。イシュチェルはパンをもひもひ丸かじりしている。
なんとか小型包丁で薄くならないかと格闘しているうちに横取りされ、そのまま返してくれなくなったのだ。ハムも焼けたので皿代わりにした丸い葉の上に乗せると、イシュチェルはぺろりと食べていく。
ついセラプトと目を合わせて笑ってしまう。おれたちは洞窟の外で火を囲んでいた。上空には綺麗な星が広がっている。
洞窟に帰ってきたおれをイシュチェルは鬼の形相で迎えた。探したのだろうか。洞窟内を探したのだろうか。麻袋や木箱があちこち散乱していた。
彼女は鬼の顔のまま近づいてくると肩にいたセラプトをもぎとり、ぎゅっと抱いた。それからずっと無視された。不自然なほど背を向けて、つーん、としている。
こっちを向かせようと買ってきたワンピースを見せた。水色の無地でストンとした袖のない型の安物だが、彼女が被っている汚れた麻袋みたいなものより、何倍も人類にふさわしい仕立てだ。セラプトも気を利かせてイシュチェルにおれのほうを見るように腕をつついてうながしてくれた。
でも憎々しげに振り返ったイシュチェルは、ワンピースを見るなり不快そうに顔をゆがめ、捨てろ、といった感じで激しく手を払った。
仕方なく次の物を見せる。半月型の櫛を取り出し、髪をとく仕草をする。「どう、使う?」とたずねたが、これは、おれが突然全裸になって踊り出した、とでもいような顔をして払う仕草すらしなかった。
ぷいとまた背を向け、それからはセラプトがうながしても、つーん、だった。
それでも食べ物にはやっぱり抗えなかったらしい。外に出て火を焚き、パンを軽くあぶっていると、仏頂面ながら段差をあがって様子をうかがいにきた。
それからは簡単だった。おれが難儀してパンを切ろうとしているのを奪い、ハムを食べると、火を囲み、うっとりした目で二枚目のハムが焼けるのを待つようになった。
買ってきたパンとハムを全部彼女にあげた。おれは昼、ヌンにたくさんごちそうしてもらったからそんなに腹は減ってない。ただちょっと水辺に行って大量に水は飲んできたけど。
イシュチェルはセラプトにちぎったパンやハムを分け与えていた。火に照らされた彼女の横顔は穏やかで楽しそうだった。
少しずつ彼女の表情が柔らかくなっていくのがわかる。おれに慣れてきたのか、それともセラプトがよほどお気に入りなのか。
でも、おれはまだ彼女の声を一度も耳にしていない。舌打ちと鼻で笑う音は聞いたけど。もしかしたら。
「イシュチェルは声が出ないのかもな」
火を消しながらつぶやく。セラプトとイシュチェルは先に洞窟に戻り、おれひとりだった。
彼女をノムアが竜姫に差し出した供物だと考えた。でも今日見た街の姿を見て変わる。あんな進歩的な人たちが、供物だといって女の子をひとり川向うに追いやるとは思えなかったから。
ノムアの街にはヌンと同じように森以外に住む異邦人たちの姿もたくさんあった。旅人の風情じゃなかった。そこで暮らしているだろう人々だ。金髪の男が宿を経営し、茶髪の女が洋品店を営んでいる。
それでもイシュチェルのように見事な瑠璃色の髪の人には会わなかった。あの色はやはり滅多にないのかもしれない。それでもイシュチェルはきっとノムアから来たのだと思う。
おれは岩に腰を落とすと夜空を見上げた。どこでも空は同じだと思っていたけど、集落にいたころよりも大きく開放的に見える。
ノムアがある方向から届く食料が入った麻袋と木箱。それを受け取るイシュチェル。
見ようによっては、あの荷が供物に思える。というか、人間を供物にする風習より、ああやって食べ物を供物にするほうが良識的じゃないだろうか。
だからノムアにはヌンのような異邦人もたくさん暮らしているんだ。ノムアは竜姫を祀ることはやめなかったが方法を変えた。
とするなら。
「イシュチェルが『竜姫』」
な、わけないよな。おれは脱力してまた空を見上げた。あの子は普通の女の子だ。守り神である竜の化身にしては腹を空かせすぎだし、着ている服がお粗末だ。
でもヌンは川を戻るといったおれを止めなかった。普通に考えたら、供物としてノムアまで渡ってきたおれが、再び洞窟に戻る理由などない。薄布の衣一枚を着て集落を出たんだ。置いてきた荷物だってないのだから。
もしかしたらヌンはイシュチェルの存在を知っているのかもしれない。だったら彼女がどんな理由でここにいるのかも、なぜしゃべらないのかも知っているのかも。
火が消えたのを確認して洞窟に入ると、イシュチェルは木箱の脇で丸くなり、ぐっすり眠っていた。腕の中にいたセラプトがむくっと起きて、慎重に抜け出してくる。
イシュチェルは顔をしかめて寝返りを打ったが毛布に包まり反対を向いただけだった。セラプトが「ふぅ」と安堵の息を吐いている。
おれは木箱を挟んで反対側に腰を下ろした。ひざに乗ってきたセラプトを物思いにふけりながらなでる。
アオサギ亭で会ったミラ。外に出たあと、ヌンはあの二人について説明してくれた。彼らは森にあるノムアを抜いた残り四つの集落から逃げてきた者を助ける活動をしているんだ、と。
特に五年に一度行われる水神祭で捧げられる供物に対して力を入れているらしい。おれは警戒して避けてしまったが、途中にあった浅瀬を行けば、森で待機していた彼女たちに会えたらしい。
そうして陸路で安全にノムアまで送ってもらえ、供物が新しい生活に慣れるまで熱心に世話をしてくれたんだとか。
「組織にはノムアの住人だけでなく、ミラのように集落を抜けた者が多くいてな。おれは正式な一員じゃないが、異邦人でも彼らを手助けしている奴は多いぞ。悪い連中じゃないさ。気の毒な人間を救おうとしているだけ。まあ、中には過激な奴も混じってるがな」
「過激?」
「森の集落を全部解体しろだとか、水神祭をやめにしろ、だとか」
「あの人もそう?」
「ん?」
「ミラ」
ヌンはひと呼吸おいてからいった。
「どうだろうな。まあ、そうかもな」
それからヌンは話題を変えてしまったが、おれがそのことに気づいたのにはわかっていたはずだ。
あの短髪で力強い握手をする女性。見た目だけでは気づかなかったかもしれない。集落には絵は一枚も残ってなかったし、ヌンが見せたような写真なんて高度なものだってもちろんない。
でも彼女は自分をククス出身だといった。それにおれは名前を知っていた。苦々しく吐き出されるあの名前を。ジジ様家族の汚点。掟を破り集落を出て行った罪人。
ミラは、おれのかあさんだ。
おれを集落に捨てていった女だ。ノムアで暮らしていただなんて。セラプトの甘噛みで思考が途切れた。笑いかけ優しくなでる。横になり目を閉じた。
「おやすみ、セラプト。おやすみ、イシュチェル」
木箱の向こうから寝返りの音が聞こえたように思えたが、気のせいだったかもしれない。
翌朝。おれは顔を踏まれて目が覚めた。イシュチェルが見下ろしてきていた。怖い顔だ。でもおれは嬉しくなって飛び起きた。
「着てくれたんだね。似合ってるよ」
イシュチェルはぷいっと背を向けて洞窟を出ていく。足にはサンダル、着ているのは水色の袖なしのワンピースだ。
でも髪は相変わらずボサボサだ。せっかくの瑠璃色がもったいない。櫛がそんなに気に入らないんだろうか。
毛布を畳んでいると、よろよろとセラプトがやってきて、ほふ、とおれのひざにあごを預けた。どうやらイシュチェルが着替える間、ひと騒動あったらしい。
ワンピースはかぶって着るだけの作りだったのに、と思ったが、その下に必要だと店員にいわれるまま買ってきた下着類は、未知だと着る順序がわからなかったのかもしれない。
「お疲れ、セラプト」
がんばったヘビのおかげで、イシュチェルはパンツをかぶり、ワンピースの上から肌着を身に着けた格好をおれに披露せずにすんだようだった。
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