第9話 竜姫は岩場に棲んでいる
木々がなくなり、水底は砂から砂利に変わっていった。ごつごつとした石が転がっているようになると、視線の先にそいつが現れた。
見上げる岩壁だ。竜姫は岩場に棲んでいるという。調子よく進んでいた歩みにためらいが生じた。でも現実的な考えだって浮かんでいる。それは気持ちを高揚させた。川向こうにはノムアがある。ひとまず見えている岩壁を目指して進んだ。
そうして到着した浅瀬をあがると、そこには岩石とその隙間に生えるまばらな細い木々や下草だけになった。
水辺がなくなれば森があり、森を抜ければノムア集落があると思っていた。でも岩壁の下にあるのは森や集落とは程遠い光景だし、そびえる岩壁はとても登って越えていこうなんて野心を抱ける高さではない。
「セラプト。ここがノムアなのか?」
足元で頭をもたげているセラプトは首を傾げる。
「そうだよな。お前だって知らないよな」
おれが卵を孵し隠しながら育てたセラプトだ。彼だっておれ同様、ククス以外の集落へ行ったことはない。
「とりあえず休憩しよ」
太陽の位置から見て、時刻は午後を周り、そろそろ夕暮れが近づく頃あいだ。今日は木の幹で均衡に用心する必要もなく寝られそうだが、岩場ばかりで草地に乏しい地面は固く痛そうだった。
「どうしたって苦悩は続くよ、どこまでも」
腹だって減っている。セラプトも何か口にした様子はない。岩場ならネズミが見つかるだろうか? 周囲を見渡しつつ、首に巻いていた衣をほどき、振って広げる。
薄っぺらい布地だ。上質だとしても今着たいのは体をしっかり温めてくれる綿入りの羽織だった。ずっと水に浸かっていた下半身はつねっても痛みが感じないほど凍えている。
川から上がった安堵からか、これまで無視できていた寒気がどっと押し寄せてきた。衣をきつく締めつけて着る。ひんやりとしていた。火が焚けたらいいのだけど。
セラプトはおれの背丈ほどある岩に這い登り、首を高く伸ばしてきょろきょろしていた。
「幸運でも落ちてるか?」
セラプトは振り返り、にかっと牙を見せる。それから岩を下りてきたので、おれはセラプトを肩に乗せた。襟巻のように首を温めてくれるセラプト。
「ちょっと歩いてみよう」
でも少し歩いただけで足の裏が痛くなって、あっさり冒険心も挫ける。裸足は岩場になじまない。特にここの岩場は鋭くとがっている部分が多くてひやひやする。
ひとまず水辺近くまで戻った。ここのほうが少しは地面が平らだ。軽く見てきただけだが、岩壁がそびえていて、それ以上奥には進めそうになかった。あたりは岩と頼りなく生えている草と細い幹の木々。岩壁に沿って横に回っていけば、また景色も変わるかもしれないが……。
本格的に探索するのは明日にしよう。疲れてしまった。陽が落ちるまでまだ時間がありそうだが、もう横になりたい。なるべく背中が痛くならなそうな場所を探す。
すると肩にいるセラプトが身を乗り出して、くいくい頭を振って方向の指示を出す。どれどれ、と行ってみると、セラプトが選んだのは、砂利が丸くえぐれている場所だった。ひざを抱えれば、おれでもすっぽりはまれそうだ。
「もっと伸び伸びしたいんだけど」
文句が多いと思ったのだろう。セラプトが軽く耳たぶを噛んだ。
「わかったわかった。今日はここで休もう」
ためらいがちに丸みの底に腰を据える。包まれるような安心感はある。でも、いざ寝っ転がろうとしてみると窮屈だ。それに。
「やっぱり湿ってるよな」
座るとよくわかる。尻が冷たい。おれは衣をまくると下帯を脱ぐことにした。
昨晩は倒木にあがっても下帯は締めたままだった。全部脱いでしまうのが嫌だったからだ。たとえ誰も見ていないとしても。供物になって川で全裸になってるなんて、なんだか惨めじゃないか。いかにも竜姫の餌ってかんじだ。
だから昨晩は湿ったままでも気にせずにいたが、今は川を上がり濡れる心配もない。おれはゴソゴソと裾から手を入れて下帯をほどいた。
と、その時だ。じゃり、と小石を踏む音がして心臓が跳ねた。首に巻きついていたセラプトも驚いたのだろう。ぎゅっとのどが締まる。
人がいた。目が合った。はら、と下帯が落ちる。相手の視線が下がった気がした。
「違うんだ!」
何を否定しようとしたのか自分でも理解不能だったが、とっさにそう言葉が出る。相手は俊敏に走って行ってしまった。まるで野ウサギに出くわしたようだった。
一瞬の出来事だった。でもまざまざと目に焼き付いた。女の子だった。小柄で痩せていて。何より。
「瑠璃色だ」
彼女の髪は黒じゃない、瑠璃色だった。長く伸びた髪は傷んでいるのか、ぼわりと膨らんでお世辞にも優美ではなかった。でも、あの色。人の髪とは思えない。
「見たか、セラプト。海の色をした髪だった……」
と、ある考えがよぎりひりつく。黒色以外の髪が存在するのは知っている。ヌンがそうだ。彼は紅葉のような赤毛。他にも金や銀、蜜色や栗色、年老いたのでなく生まれながらに白髪の若者もいると聞いている。
だから瑠璃色の髪の人間もいるのかもしれない。けれどその目に焼き付いた髪色と相手が女の子だったことから、おれは『竜姫』と繋げてしまった。
供物は竜姫に捧げられる。『竜の胃袋』を進んだ先にある岩場に、森の守り神、竜姫は棲んでいる。
「あり得ない。だいたい、彼女逃げたもの」
竜姫が人の容姿を成すとは聞いていない。だが、若い男、十五歳の少年を好むとされている。だから集落では供物の家を建て、水神祭の時期に合うよう男の子を育てるのだ。
「おれは十八だけど」
でももしも、ここが川向うにあるノムアではなく、竜姫の棲み処だとしたら。あの子が——。
「ああ、うん。そうだな」
肩から下りたセラプトが落ちた下帯をくわえて見上げる。受け取り、きつく絞ると水気を切ってぶんぶん振って風を送った。心なしか乾いた気がする下帯を巻きなおすとみだれた衣の裾を整える。
「あれは人だ。竜姫じゃない。竜姫にしては幼かったから」
まだほんの子どもに見えた。十歳くらいかな。トトよりは大きいが、子守りのサミと一緒くらいだろう。一瞬だったし髪色が鮮烈すぎて顔立ちの記憶がかすんでいて定かじゃないけれど、若い男を好む竜姫のイメージとはかけ離れている。
「そうだよ」おれは自分に言い聞かせた。
「ここはノムアの外れなのかもしれない。あの子はノムアの住人だな。うん、ノムアにはああいう髪色をした子がゴロゴロいるんだ」
だよな、とセラプトに同意を求めたが、ヘビは岩に登り頭をもたげてくいくい動かす。
「見つけに行けって? ……ヤだよ。竜姫だったらどうするんだ」
目を細めるセラプト。ぷいっとそっぽを向くと、一匹でどんどん行ってしまう。
「セラプト、戻って来い」
ヘビは止まらなかった。尖った岩場でも躊躇なく進んでいく。セラプトが何を考えているのか想像がつく。確かにそうだ、このヘビが正しい。おれは腹が減っている。だったら彼女を見つけるのが最善だ。
供物の前から逃げた少女が『竜姫』のはずがない。いや。もしかしたら、逃げたのではなく。
「竜姫の眷属かもしれないな。主人を呼びに行ったのかも。危険だ、セラプト。戻って来い!」
わざと大声を出していうと、ぐんぐん進んでいたセラプトは止まり振り返る。はふ、と吐息つきで。その目はまた細くなっている。
「わかってる。冗談だよ」
おれは肩をすくめて笑ったが、セラプトの目は相変わらず辛らつだ。
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