第8話 友との再会
頭上を覆う木々は開けまばらになった。空をたっぷりと眺めることができる。だからこそ、夕陽の存在が大きくなった。
太陽が沈んでいく。空だけでなく、あたり一面が陽の色に染まっていく。
普段ここまで夕陽に紅と感じたことはなかった。やがて訪れる夜の藍色を感じさせる陽の仄暗さはなく、終わりの予感すら見いだせない燃える炎の中にいるようだ。
それでもひんやりとしてきた。夕陽に照らされて染まった腕が粟立っている。おれは衣の脱ぎ、水気を絞った。倒木がちょうどいい高さに傾いていたから這い登りこれまで来た方向を向いて座る。
今さっき、後ろを向いたんだと意識して憶えていないとあっさり逆戻りして集落のほうへと進んでしまいそうだ。風景はぐるりと、どこもかしこも沈んだ森の水辺が広がっている。
絞った衣を広げて振るった。背伸びして届く枝に干すと、ふわりと吹いた風に衣がたなびく。寒くなってきた。
倒木が増えている。おれが座っている幹と似たものがたくさんあり、水面から突き出して逆光に黒く輪郭を作る。伸びる水辺の草花は厚ぼったい葉から、細く長く伸びた繊細なものに変わってきていた。
「森が終わるのかも」
この森には五つの集落があり、そのうちのノムアだけは川向うにある。川とは『竜の胃袋』を指すはずだ。そしてこのノムアは二十年前、水神祭に供物を捧げて以来、祭りに積極的に参加しなくなっていた。
ノムアを代表する一団は五年ごとに減っていき、前回は年配の男がひとり来ただけだったと記憶している。彼はジジ様でもなんでもなかったそうだ。ノムアは五つの集落から抜けようとしている、そのことで残る四つの集落と揉めているんじゃなかったろうか。
おれは地理に疎い。ヌンが見せてくれた地図を見てもほとんど理解できなかった。俯瞰してみるという感覚がいまいちつかめない。
集落から出たことがないから仕方ないとヌンはいっていた。実感できないんだろう、と。集落の外にどれだけの世界が広がり、どれだけの人々がいるのか。おれの想像だけでは補えないものがあるらしい。
それでもこの川をぐんぐん進んでいけば、もしかしたらノムアに到着するんじゃないか、くらいは想像できる。
でも行商人であるヌンは、『竜の胃袋』を見たことはあるといったが、入ったことはないといっていた。だからおれがしているようには進まず、陸路でノムアや、そのさらに向こうまで移動するはずなのだ。
ヌンが見せてくれた地図を思い出そうとする。でも当時は理解できないと早々にあきらめ、まともに見てなかったから、川がどういう形で伸びているのかわからない。
おれは「このまま進めばノムアに到着する」という期待と「このまま進んでも川が続くだけだ」という考えがぶつかり、気持ち悪くなってきた。
竜の胃袋は一度踏み入ったら抜け出せないのかもしれない。おれは供物だ。供物に未来なんてあるのか。
考えに没頭していると、水に浸かっていたすねに何かが触った。ぎょっとして均衡を失い、座っていた倒木から落ちる。
立てば胸元まで出るとわかっているのに、焦ってしまい激しくもがいた。鼻と口に水が入り、呼吸が苦しくなる。
必死でかきわけ、無我夢中でつかんだものにしがみつくと体を引き上げた。咳き込む。しっかり立てばなんてことはない。肋骨あたりまでしか水はなく、おれはさっきまで座っていた倒木に腕をのせると、大きく呼吸して落ち着くのを待った。
と、そこで。おれは前髪から滴る水滴を拭ってそいつに気づいた。信じられなくて耳の奥がきんと鳴った。
「せ、セラプト?」
相手は、にかっと笑う。尖った二本の牙が八重歯のようだ。白いアシアリヘビが倒木の上にいて、おれを見つめる。
「お前、本当にセラプトか?」
ヘビは小さな手で水を救いあげ、ぱちゃっとかけてくる。おれは笑った。
「そうだよな、そんなことが出来るのはお前だけだよな」
アシアリヘビの手足は飾りだ。
「お前」
生きてたのか、の言葉は音にならなかった。のどの奥でしぼんでいく。かけられた水を拭うふりをして涙を振り払った。
「よかった。おれ、おれさ。供物になっちゃって。こんなかたちで集落を出ちまったよ」
セラプトは幹から下りると、ゆるゆると泳いできておれの腕に愛情深くからみついた。おれを見上げながら、頭をこすりつける。
「うん。平気だ。お前がいるから。ごめんな、ありがとう」
もうだめだった。おれは泣いた。恥ずかしくて笑ってごまかしたりしながら泣いた。心強い。こんなにも小さなヘビ一匹がおれに与えてくれる安心感に涙が止まらない。もう大丈夫だって気がした。例え何があったとしても。おれは耐えていける。
陽が落ちてしまうと、まだ湿っていたが干していた衣を着こんだ。懐にセラプトを抱く。
これまで
おれはなるべく体がどこにも水に浸からないようにして倒木に腰かけた。枝に背を預けるとごつごつしていたが、そんなに悪くなかった。セラプトがいて腹が温かい。
永遠に燃えていそうだった陽がなくなると、星や月の番がくる。寝ぼけて転げ落ちないようにおれは片手を枝にかけ、残ったほうはしっかりセラプトを抱いて寝た。
疲れていたのか、それともセラプトがいる安心からか。おれはぐっすり眠ってしまい、セラプトに首筋をなめられるまで目を覚まさなかった。
ぐらりときて慌てて枝に回した腕に力をこめる。体中が痛い。背中なんて岩になったみたいだ。
「起きたよ、セラプト。今回は川に落ちずにすんだ」
おれは衣を脱ぐと細く畳んで肩に巻くようにして結んだ。ゆっくり体を水に浸す。元気なセラプトはぽちゃりと落ちると、ぐんぐん泳いでいき、離れたところで怪訝そうに止まる。
「今行くって。おれにはこの水はまだ冷たいんだ」
腹も減った。最後に食べたのは、昨日、祭りの準備をしながら昼前に軽くつまんだ煮物だけだ。歩きながら水を救いあげ、飲む。吐きそうなほど飲み続けたら少しは空腹もましになってきた。
セラプトと一緒の道中は楽しかった。望みもなく怒りに任せて進んでいた昨日とは大違いだ。
周りから見たら頭のおかしい独り言だろう。でもおれはセラプトと会話しながら先を進んだ。そもそも。ここにはおれとセラプトしかいないんだ。
歌を歌い、水を掛け合い、おれたちは歩いた。陽光が照りつけ、水面から出ている肩を温かくなるころ。心は軽く、自然と笑顔になっていた。
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