第7話 この川は『竜の胃袋』と呼ばれている

 川は冷たかった。でもすぐに慣れてしまった。枝葉を透かして肩に降り注ぐ陽光が温かく、水位が足首からすね、太もも、へそから胸までのぼってくると、その冷たさが心地よいとすら感じるようになった。


 でも着ている衣は、生まれてから一度も触ったことすらないなめらかで滑りのよい上等な生地だったが、とても薄地で水に浸かると肌が透ける。


 それに輿に乗る際に履物を脱いだので今もそのまま。裸足で何があるかわからない水底を踏みしめて進むしかなかった。


 岸を振り返りたい欲求はあった。けれど、おれは前だけ見て進んだ。森の静寂が続く。『竜の胃袋』を行くおれの背を見ているだろう男たちの物音は全く聞こえず、枝葉の中を吹き抜けていく風の葉擦れがせせらぎのように鳴っている。


『竜の胃袋』は大河のはずだが、流れを感じることはなかった。ヌンから聞いた話では、海のほかに湖というものがこの世には存在するらしいが、それらが大きな水たまりというのなら、ここはまさしくそんな風だ。


 水音を立てながらひたすら前進してきたが、それでも幹の間を通り、でこぼこと張り出した木々の根や絡みつく水草、朽ちて落ちた枝、枯草を踏み越えたり、よけたり、頭上に広がる枝を屈んでやり過ごしてしているうちに、そろそろ振り返ってもいいんじゃないかという気がしてくる。


 立ち止まり集中する。一旦息を止めて吐き出す。聞こえている音が自分の呼吸音だとはっきりすると、思い切って振り返った。


 前も後ろも変わらない光景が広がっていた。水面から突き出た木々。見渡す限り水没した森。おれだけ、ぽつん、と立っている。


 無心で進んできたが思いのほか時間が経過していたのかもしれない。太陽を探そうとしたが頭上を覆う木々のせいでよくわからなかった。それでも日暮れまで相当時間がありそうだ。周囲は明るく水面は陽射しで輝いている。


 それにしても、あっさりした儀式だった。何かもっと苛烈な目に遭うと想像したのに、音楽を奏でて、水に入れと押されて歩いてきただけだ。


 これで終わりなのか?


 水を救い指の間から滴るままにして眺める。ここがいつの日か目にしたいと羨望していた『竜の胃袋』なのだ。想像を超える規模、水の純度。でも劇的な何事かがあるわけじゃないとわかると、さて、どうしたものか、と立ち止まってしまう。


 まあどうしようもないのだが。供物が集落に戻ってきたことは今までなかったと聞いている。もしも、だ。今から歩いてきた方向を帰り、岸についたら。そこで何が起こるのだろう。


 男たちは剣や槍を持ってきていた。それに、竜姫に供物を捧げに出た彼らが、集落に戻るのは陽が沈んでからだったはずだ。男たちが出ている間に、ねえさんたちと夜通し続く宴会の準備をする予定だったのだから。


 となると、まだあそこで供物が無事に竜姫へ捧げられたかどうか確かめているのかもしれない。


 確かめるってどうやって? 戻ってきたら追い立てて川の奥へ向かわせるために見張っているのか?


 そうだよな。こんな場所に夜まで置いてけぼりにされたらどうしようもなくなるだろう。右も左もわからない。覆う木々、月が出ていても、あたりは真っ暗になるはずだ。


 供物とはそういうことなんだろうか。この川は『胃袋』と呼ばれている。おれは今、竜の胃袋に入ってるんだ。


 おれの人生はここで終わるのかな。今まで供物になった少年たちはどうしていたのだろう。そういうことは一切何も知らされていない。


 なんだよ。供物の身代わりをさせるならさせるで、そういう手順はちゃんと伝えてくれないと。おれは供物用として大事に育てられた正規品じゃないんだから。もぐりなんだよ。それとも供物の少年たちもこうしてただ川に取り残されて途方に暮れていたんだろうか。


 ああもう。これからどうなるんだ。さっぱりわからない。大声で叫びあげたかったが、万が一でも岸で待機しているかもしれない男連中に聞こえるのが癪で、おれは一言も漏らさなかった。


 ともかく後戻りする気はない。「ケセド、びびって戻って来たのかよ」。ズンダがバカにする声が耳に生々しく再現できる。腹が立つ。みくびるなよ。


 おれはまた大きく踏み出して前へ前へと進んでいく。


 それからしばらくして、少しだけ周囲が陰ってきた。日暮れが近づいたのかと焦った。夜になると思うと怖くなる。でも雲がかぶさっただけだったのだろう、すぐにまた陽光が水面を照らしていく。


 どうかしなくちゃ、と思う。帰るわけには当然いかない。でも食べるものも何もなく、見渡す限り水とそこから突き出して伸びる木々だけだ。


 さっき一瞬陰ったこともあり、不安で歩む速度があがる。バシャバシャと水音を立てて進む。と、枝垂れて暖簾のようになったつる草をくぐったところで景観が変化した。


 水位が下がった。視界も開けている。片側が徐々に浅瀬になっているのがわかり、向こうに岸がある。水没してない森だ。


 ふらふらと誘われるようにそちらに向かう。助かった、と思った。でも猜疑心が芽生え立ち止まり、耳をすませる。とくに人の声などはしなかった。でも罠っぽい。おれは心底、集落の奴らを信用できなくなっていた。


 まっすぐ進んできたつもりでも、もしかしたら蛇行していたかもしれない。あそこで男たちが待ち構えていて、岸にあがったとたん、あざ笑い、追い立て、罵り、川に投げてくるかもしれない。


 嫌だ。もう耐えられない。おれはずっと耐えてきたんだ。二度と我慢はごめんだ。あのジジ様の態度にも失望した。しらじらしいあの顔。厳粛そうなふりをして。おれを供物の身代わりにしておいて。なんだよ。尊いお役目は身代わりでもなんでも、罪人の子でも務まったんだな。それなのに礼もなけりゃ、さよならの一言もない。


 少なくとも先代のジジ様より、あの人はおれに情があると思っていた。先代のジジ様はおれを憎んでいた。彼は血のうえではおれの祖父だ。娘のかあさんが掟を破り、集落を出たせいで、ジジ様は面目丸つぶれだった。


 おれは女たちのおかげでなんとか生きながらえた。目立たないようにした、息を潜めて暮らした、とにかく静かに静かに静かに地面を這うようにして生きてきた。


 それが代替わりしたあと、おれは末席だとしても同じ座敷で飯を食えるようになった。炊事場の隅で凍えていたのを、屋根裏に専用の部屋だって用意してくれた。


 新しいジジ様は違う。そう思った。息が詰まる生活にわずかだけ希望の穴があいた。十八になり成人の証である首飾りをもらっとき、やっとこの集落の一員として認められたんだと嬉しかった。


 そうだ、嬉しかったんだ。泣くほど嬉しかった。ここからやっとおれの人生が始まる気がした。耐えて耐えて、やっと。みんなと同じ場所に立てると思った。


 バカだった。おれはどこまでいっても罪人の子だ。罪人の子にはそれにふさわしい後始末があったんだ。


 集落の掟がなんだ、守り抜かねばいけない決まりがなんだ。供物は十五歳の少年でなくてはいけない。そのために供物の子は生まれた時からべつの暮らしを歩む。穢れなく遮断された世界で、供物にふさわしく育つ。そして森の守り神である竜姫に捧げられる。


 おれは十八だ。十八歳のケセドだ。ズンダに奪われたが成人の証だって渡されていた。供物のために育ったことなどない。


 彼らはあれほど竜姫を崇める振る舞いを演じながら、こうして偽物を平気で立てる。年齢すら違う男を平気で川に追いやる。なぜならおれにはいなくなって悲しむ家族がいないからだ。こんなのていのいい始末でしかない。


 それとも、おれのせいで供物が逃げたからなのか。いや、そんなはずない。もしもそうなら、罪を罵り、罵倒しただろう。そんな態度は微塵もなかった。


 むしろ、あの目を合わそうとしないジジ様の態度。ズンダやその周りにいた奴らの表情。あいつらにも、少しは良心が残っていたらしい。可哀そうなケセドという目でおれを見ていたじゃないか。


 でもわからない。何もいわれなかったから。お前が新しい供物だ。それだけだ。はっきり、「お前のせいで供物が逃げたから身代わりになれ」といわれたらどんなに良かったか。でもあいつらは何もいわなかった!


 逡巡する感情は浮き沈みし、だけど答えが出ないことを知っていて苛立ちばかりを募らせる。おれは浅瀬に背を向けた。


 まだだ。まだまっすぐ行く。おれが目指すのは森じゃない、岩場だ。竜姫は岩場に棲んでいる。


 それでも用心深く、どちらに浅瀬があったかと頭に叩き込む。あそこに上がるのはまだ早い。そうだ、夜になってから。いや、明日になってからでも遅くない。今はまだ違う。


 水面はきらめいている。おれはまだ歩き続ける。

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