第6話 身代わりの供物

 ジジ様の座る横、手ぬぐいの上にあるそれに目が留まる。釘付けになるのを必死で引きはがして目を伏せる。


 それは瑠璃色の破片だった。ソーダ水のガラス瓶。供物の少年は瓶を割り、足を縛っていた縄を切って逃げた。そう聞いている。


 ズンダたちはあのソーダ水に瓶を見て短絡的にヌンと結び付けたようだが、少し考えればわかることだ。


 ヌンがなぜ水神祭の供物を逃がす。彼は自由人だ。ちっぽけな森のちっぽけな集落の風習に関わって面倒ごとを起こすくらいなら——そう、事実、彼がそうしたように祭りが始まる前に集落を出て行く。


 そもそも万が一ヌンが逃がしたとしても、ガラス瓶で縄を切るなんて回りくどいことはしない。ナイフを使ったらいい。彼は行商人だ、切れ味のいい刃物をいくつも持っている。


 そしてそれは集落の者にだって当てはまる行為だ。縄を切る刃物など、そこらにいくらでもあるのだから。


 とすれば、だ。そのつもりなくガラス瓶を渡してしまい、供物が予想外の行動に出た、そんな状況。


 まさにおれがしたこと。きっとジジ様は気づいたはずだ。これは異邦人のヌンがしたことじゃない。ヌンと仲良くしていたおれがやったことだ、って。


 もしかしたら、おれが瑠璃色の瓶を持って屋敷に戻る姿を見た人がいたかもしれない。呼吸が乱れて吸っていいのか吐いていいのかわからなくなる。


 とんでもないことをしてしまった、こうなるとは思わなかった。弁解が悲鳴のように体内を割らんばかりに叫んでいるが何を口にしたところで救いにならない。


 供物は逃げた。おれのせいで。この事実は揺るがない。きっとみんな思うはずだ。罪人の子が罪人になった。親が親なら、子も子だと。


 この罪は、かあさんよりも始末が悪い。かあさんは集落の掟を破って出て行っただけ。おれは大切な供物を逃がした。ククスは竜姫に捧げるために大事に育ててきた十五歳の少年を、ケセドの愚行のせいで失ったのだ。


 おれは月明りでも美しいあの瑠璃色の瓶を見せてあげたかった。供物に感謝を捧げたかった。祭りの犠牲になる少年へ、おれからも何かしたかった。


 ……などと。言い訳して殴られて、血を吐いたとしても。あの供物は戻らない。


 なぜあんなことをしたのだろう。本当にバカげている。大人しく寝ていればよかったのに。罪人の子であるおれが神聖な供物に関わったあげくがこれだ。


 目を閉じ、ひざに乗せたこぶしを握りしめていると、ジジ様の重い声が背にかぶさるに落ちてきた。


「ケセド。新しい供物が必要になった」


 一拍置いて、返事する。


「はい」


 殴られるか、首をしめられるか。体が身構えて勝手にこわばる。


「お前の——」


 せいで、と続くだろうと思った言葉は、予想外にも優しい声音に変わる。


「——お役目が決まった。すぐに支度するように」


 顔を伏せたまま疑問が渦巻いていると、衣擦れの音がしてジジ様が立ち上がったのがわかった。ぴくりと顔を上げかけ、伏せ続ける。横を通っていくジジ様の黄色したつま先を不思議な気持ちのまま見送った。


 それから周りにいた男たちも無言で退席し始めた。半数ほど去っただろう時、おれは顔を上げた。真向かいにズンダがまだいて、にっと笑った顔と目が合う。


「ケセド、おめでとう。竜姫様に可愛がられるんだぞ」


 その瞬間。りん、と鈴が鳴った気がした。


 ——しゃんしゃんしゃんしゃん、房状に飾った鈴が鳴っている。混乱のまま、働くことをやめた頭で周囲を眺める。


 おれは華やかに飾った輿こしに乗っていた。上等な絹の衣に身を包み、首には雛菊の花輪をかけている。くすぐる甘い香り。うっすらと化粧もしていた。目尻に紅をさしてくれたねえさんの手が震えていたのを、かすかに憶えている。


 森を進んでいた。あんなに強固だった集落の境界線を、おれはいつ超えたのかも定かでない。うつらうつらするように思考が散り散りになってまとまらない。


 輿が下ろされるとジジ様が手を差し伸べてくれた。この人の手を触るのは生まれて初めてかもしれない。湿った手だ。体温を感じるのが嫌でなるべく触れないようにした。ジジ様も添えるだけで、握る仕草は見せなかった。


 眼前の光景は神秘的だ。木々が水に浸かっている。幹が沈む位置を見る限り、そこまで深さはないようだ。歩いていくのに十分だ。背丈を超えるほどではない。


 ここが、『竜の胃袋』なのか。


 憧憬を抱くにふさわしい雄大さだ。この岸から向こうはすべて、世界は水没しているといわれても納得する。


 岸のふちに誘導されてジジ様が静かに何かいう。丁寧な口調だったが、言葉が音としか認識できなくて戸惑う。


 陽光はまぶしく水面を揺らしたが、水際に立つとひざから下がなくなったかのように心もとない寒さを感じた。浸かるときっと冷たいだろうと気にしている自分が、どうしても可愛らしく思えた。


 笛の音が始まる。長く続く高音。そして鈴の音が混じり、男たちの歌声が続く。おれは『竜の胃袋』に相対していて彼らに背を向けている。


 数日前までは。


 おれもあの男たちの中に混じり、供物の背中を見つめながら音を奏で歌っているはずだった。そう信じて疑わなかった。


 しゃん、と鈴の音が止まり、甲高い笛の音が力強く吹かれて唐突に終わる。


 問いただしたい欲求をこらえた。ただ水面を見る。祭事の手順をおれは詳しく知らない。このあと何が起こるのか、予想がつかない。


 物音一つ一つが針で刺すような痛みを与えた。低いささやき声がするが内容はわからない。振り返りたい、見たい。でも叶わない。


 脳裏に鮮血が浮かんだ。供物はこれからどうなるんだ。輿の行列には長剣を持っていた男が並んでいた気がする。槍だったろうか。集落によって持参した武器が異なっていたかもしれない。


 思い出せない。供物は竜姫のもとに歩いていく。そうだ、大河を進んでいく。下がることはできない。前に行くしかない。水面が呼ぶ。踏み出そうか。あのきらめく水面は清らかで美しい。


 きっと海もこんなふうなんだ。

 そうだろ、ヌン? 教えてよ。


 軽く腕に触れた指先の感触に過剰に反応してしまう。横を向く。見知らぬ年寄りがいた。その後ろにジジ様がいる。なるべく顔をそのままにして、さらに遠くまで見た。


 年かさの男たちの後方、木立の下にズンダと彼がよくつるんでいる面々が固まって立っていた。意外なほど彼らは緊張した面持ちでいる。中には涙ぐみ怯えている者すらいた。


 その姿を見て。おれは急速に冷静になり、怯む気持ちが反転して負けん気の炎が点いた。こいつらの前で派手に死んでやりたくなった。あいつらが絶対できない、そんな姿を見せてやりたい。


 剣だろうが槍だろうがなんでもいい。おれを刺せ、血を噴かせてくれ、この水面を鮮血に染めてくれ。


 そうして熱くなった感情が昇りつめ、ぷつりと切れたあとに。セラプトに会いたい。切にそう願った。おれが大事にしていたヘビ。そして捨てた大切な友だち。


 やがて感情は巡り、見たことのない供物の少年に向かう。


 逃げ出した彼を恨む気持ちは微塵もない。ただ謝りたかった。同じ集落で生まれ、同じ集落で育ったのに、きみのことを自分と重ねて考えることなどなかったから。


「竜姫様のもとへお進みください」


 見知らぬ年寄りがそういった。水辺へと背を押してくる。


 まばらに生えた白髪、縮れたひげ。多くの皺に、かさぶたのようなしみがたくさんある。腕は細く骨が浮いていた。


 おれは自分が若く健康なのだとこんなにも意識したのは初めてだった。あんなに殴られて育ち、満足に食べられず腹をすかしてばかりいたのに。


 おれの体は頑丈さが持つ力強さを惜しげもなく放っている。あざや傷跡も欠点にはならなかった。陽光の下では何もかも溶け、消えていた。森の奥へと続く水面の美しさ、透明さ、輝きが。とてもおれに似合う気がした。


 視線を少し上向け、ジジ様の顔を見た。彼はうなずいた。見知らぬ年寄りに目を戻す。彼は微笑みながらお辞儀する。それが合図だった。


 この場にいた全員が頭を下げた。おれを地べたにひれ伏せさせ、いつも力を誇示していたズンダでさえも。


 そうして。


 おれは『竜の胃袋』に踏み入った。

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