第5話 不穏なまま始まる水神祭
怒鳴り声で目が覚めた。屋根裏の押上げ窓は開けたままで、あんなに輝いていた月は雲に隠れたらしく、重苦しい闇が広がっている。
まだ夜更けだろうに屋敷内が騒がしくなっていた。はしごからのぞくと火を灯す油皿が板の間にいくつも置いてあり、出入りする
こっそり柱の陰から見ていると、ねえさんがせわしなく前を通っていこうとした。捕まえて話を聞く。ねえさんの盆に湯飲み茶わんを乗せていたが、いくつかは割れてしまっている。
「逃げたのよ」
ねえさんは座敷のほうを気にしながら口早にいった。
「逃げたの、供物の男の子が。見回りをしていたシャダイが気づいてね。やぐらにかけてあった幕が落ちてて、中にいたはずの男の子が消えてたんだって」
それで、とねえさんは話を続けようとしたが、炊事場からの呼びかけに「はあい」と返事をして行ってしまう。
おれはねえさんのあとをついて行きかけたがやめ、外に出ようと縁側に向かった。途中、引き戸の奥から小声が聞こえたので足を止めた。
そこはニンとトトが寝ている部屋だ。わずかに開いていた隙間から、眠っているニンと起きて子守りのサミと話をしているトトの姿が見えた。サミは寝かせようとしているようだが、トトは騒ぎが気になって落ち着かないらしい。そばの燭台がすっかり目を覚ましてしまっている彼女の横顔を照らしている。
「起きてちゃだめじゃないか」
「ケセド」
おれが入るとサミは安堵したのか固かった表情が和らぐ。サミだってまだ子どもの年齢だ。でも彼女の両親は早くに亡くなっているのでずいぶん前からジジ様の家で働いているが十二かそこらだった。
サミも何が起こったのか把握してないらしい。おれに問うような視線を向けてきたが、おれだってよくわかっていない。ひとまずトトのそばに座り小声で話しかける。
「明日寝坊したら困るだろ?」
「でもみんな、おきてるじゃないの」
「ニンは寝てる」
あごを振るとトトは腹を立てた目でぐっすり寝息を立てている兄を見やる。
「起きてても怒られるだけだよ」
無理やり上掛けをかぶせて寝かしつけた。頭をなでてやっていると、むっとしていたトトも観念したのかまぶたを閉じた。
サミに耳打ちする。
「外を見てくる。ここで二人を見張ってて」
廊下に出ると怒鳴り声と食器が割れる音が聞こえてきた。あれではトトが起き出すのも仕方がない。
おれは縁側から裏庭に出た。とっぷりまとわりつくような暗がりだ。それでも表に出ると、手燭や明日に向けて用意してあった行燈にも火がつけられていて、慌ただしく動き回る人々の独特のざわめきに満ちている。
乳児を抱きかかえている女の人やニンとトトくらいの年の子。怯えた顔、怒りの顔。すましているが非常時の興奮で目がぎらついている顔に、どうしてだか農機具を手にうろついている人までいる。
ズンダはジジ様と一緒に屋敷にいると思っていたが、供物の家の近くまでいくと、燃え盛るたいまつを手に興奮している彼の姿を見つけた。周りにはいつもの仲間たちに混ざり寝間着姿の女の子たちもいる。
おれは気づかれないよう暗がりに引っ込んだ。ズンダが威勢よく吠えている。
「ヌンだ。あの異邦人の仕業に違いねぇ。シャダイが親父に犯人の証拠を渡したのをおれは見たんだ」
「でもあいつは今朝出て行ったんだろ?」
「そうよ。わたし昼に香水を見せてもらおうと思ったのに、もういなくなってたもの」
「ばか。あいつは夜中に戻って来たんだよ」
「どうして?」
「供物を逃がすためだ。あいつは水神祭をぶち壊してこの集落を潰す気なんだ」
ヌンが犯人だなんて。異邦人だからそう決めつけているのか。ヌンが聞いたら豪快に笑い飛ばしそうだ。なぜおれが。なんのために。
「どうなるの? 竜姫が怒ってわたしたちを食べちゃうのかな」
「そうなったらおれたちで竜をやっつけるだけさ」
「でも竜姫は雨を降らすと聞いた」
「集落に洪水が起こるって先代のジジ様はいってたよな?」
……思わず、冷笑していた。彼らは本気であんなことを? そして気づいた。おれはもうずっと前から「竜」なんて存在しないとわかっていたんだ、と。
少しだけ首を伸ばして、たいまつに照らされている面々を確認した。誰もが真面目な表情をしている。涙を浮かべている女の子は暗くてわかりにくいが、たぶん集落一の美人だといわれているヒヨルカで、ズンダにしがみついていた。
ズンダは険しく目を吊り上げている。あの中には成人した男も何人かいるようだ。でも、ああそうか。供物を捧げる場に参加したことのある男はまだ一人もいないのだ。ズンダも五年前は子どもだった。今年が初めての参加になる。
だとしても。おれが知っているくらいだ。供物の捧げ方は十分にわかっているはずだ。供物はひとり大河を行くだけ。実際に竜を見た者など誰一人いない。
水神祭なんてただの儀式だ。供物を川に入らせる、それだけのこと。でも彼らは本気で怯えているようだった。
「怖い」
「ズンダ。ジジ様はどうするつもりなんだ?」
「わからねぇ。でも供物は必ず用意する」
「でももう残ってないじゃないか」
「十五歳の少年なら……」
「わたしの弟はだめよ!」
滑稽なやりとり。ヌンにはおれたちがああ見えていたのかと思うと恥ずかしくなった。竜を信じ、竜の怒りに怯えている人々。
でもズンダたちは本当に竜姫の怒りを恐れているのか? いいや。もしかしたら女の子を怖がらせるために、わざと真剣な顔をしているのかもしれない。
実際、座敷で怒り狂っていたジジ様たちが案じているのは集落の名誉のはずだ。五年ごとに行われる水神祭は五つの集落の代表者が集まる数少ない機会。そこで持ち回りの供物を用意できなかったククスがどんな扱いを受けるか。
もしも今後水害や疫病が流行ったらすべてククスのせいになる。酷い場合、集落ごと消されるかもしれない。恐ろしいのは竜姫じゃない。人間だ。集落を襲いに来るのは竜じゃなく人だ。
ジジ様はどうするつもりなのか気になり、屋敷に戻ろうとして動きを止めた。ズンダの言葉が鈴の音のようにはっきり響く。
「ソーダ水の瓶だ。その破片がやぐらの中に落ちてたらしい。供物はそれで縄を切って逃げたんだ」
「瓶か」
「あの異邦人、ふざけやがって」
「だから集落に入れるべきじゃなかったのよ」
口々にヌンを罵り始めたが、おれの耳には水に潜ったようにくぐもって聞こえた。すすり泣きが脳内で蘇る。供物は縄で縛られていた。そしておれはそんな彼に……。
気づいたらおれは屋根裏部屋に戻っていた。空っぽになった丸籠に朝日が差し込む。
静かだった。少なくとも怒鳴り声はしない。早朝から動き出している足音がぱらぱらと聞こえるだけ。
下から呼ぶ声がした。炊事場の手伝いをしないといけない。今日は水神祭。他の集落からも人が来る。水を汲み、野菜を採ってきて洗う。刻んで鍋に放り火をつける。
周りでは女たちが声をひそめながら逃げた供物について話していた。しっかり耳を傾けていたわけじゃないが、どうやらまだ何の対策も立てられてないらしい。
座敷に膳を並べると、今度は屋敷を出て広場に大皿に盛りつけた肉や魚料理を運ぶ。敷物が広げられ、順に料理を並べていく。
食材の種類、料理の仕方、盛り付け、皿の大きさ。すべてに意味が込められていた。どこでどのように育て、いつ収穫するかまで決まりがある。
これらを無事やり遂げられるかどうかが、女たちに課せられた大きな仕事だった。ここまですめばもう安心だと、みんな笑いあっている。でもその笑顔には影がある。供物がいないことをみんな知っているからだ。
陽が昇りきると飾り立てた子どもたちが集められ、踊りの最終確認が始まった。張り切るニンとは対照的に、トトは眠そうに目をこすってばかりいる。やがていつもより華やかに着飾った女たちも外に出てきた。髪や服を色のついた羽根や大振りの花が賑やかだ。
ククスに一番近い場所にあるジルフ集落から代表者が到着すると、おれはもてなしの準備があるためまた炊事場に戻った。湯を沸かしているとジジ様が呼んでいる、と声がかかる。
もう祭りが始まろうとしている。おれなんかに何の用があるんだろう。疑問でいっぱいになりながらジジ様が待つ座敷に向かう。膳に不備が? でもねえさんたちじゃなくおれに声をかかるのはおかしい。
成人の証である首飾りにことだろうか。新しい首飾りをもらえるのは一年後だといっていた。でも、わずかに期待する。
おれは線は細いけど背丈はある。この見た目でまだ首飾りをしていないなんて、他の集落の人から見ても不自然だ。だから、だからきっと……。
座敷にはジジ様だけでなく、多くの男たちが待っていた。ズンダもいる。抑えきれないでいる醜悪な笑み。セラプトをいじめていたときと同じだ。良い知らせじゃない。あいつの顔を見てそれがわかるとは。
「ケセド」
ジジ様の前に来るよう手で示される。男たちが囲んで座している。その中央でおれはひざをつく。
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