第4話 供物の少年とソーダ水
食器を片付け、膳を重ねて運んでいると、袖を引かれて振り向く。ズンダの妹、トトが真っすぐな目でおれを見上げていた。
「ケセド、あしたはトトたちといるの?」
「ジジ様たちと一緒に行けなくなったからね」
「なくしたから?」
トトは首元をつかむ仕草をする。おれは苦笑した。よく話を聞いている。
「うん、なくしたから」
「トトもさがそうか?」
それからトトはきょろきょろし、小さな手を口元にそえてささやく。
「セラプトにみつけてもらう?」
こみあげる感情を抑えて無理やり笑った。でもトトと目を合わせることができない。彼女に何もかも見透かされるのが怖かった。
「セラプトはもういないんだ」
「どうして?」
「森に逃がしたから。ヘビは飼うもんじゃないだろ?」
「でも」
トトは怒るようにおれをにらんだ。つるりとしたひたいに、しかめっ面のしわが寄る。
彼女はセラプトを好いていた。ジジ様たちからだめだといわれているのに、こっそり屋根裏に来てはセラプトと遊んでいたこともたびたびある。
「ケセドがいらないなら、トトがセラプトのおせわしたのに」
「ごめんな」
トトはまたぎゅっと強くにらみつけたあと、「は」と息を吐く。こんな幼い子にも、おれは呆れられたらしい。
「ケセドはりゅうをみれないんだね」
「りゅう?」
「あした、トトたちといるんでしょ。だからりゅう、みれないんだ。トト、おっきいりゅう、みたいけど」
おんなだからむり、の言葉をトトはこの年齢で飲み込んだ。祭りの日、供物を持って集落を出るのは成人した男とババ様だけの決まりだから。
「ケセド、いつかりゅうみたら」
トトはにっこりする。
「トトにりゅう、どんなだったかおしえてね。ズンダにいちゃんはいじわるだから、トトはしらなくていいっていうんだもん」
「そうだね。もし竜を見たら、トトに絵を描いてあげるよ。二度と首飾りもなくさないでおくから」
頭をなでると、トトはくしゃりと笑った。寝所に来るよう呼ぶ声がして、トトは跳びはねながら座敷を出て行く。
「やくそくね、ケセド。おやすみ」
トトの愛らしい姿が消えると虚しさがぽっかり胸に穴を開ける。
がおー、と叫ぶ声が聞こえる。あの声はトトか? それともニンだろうか。
「わしのえものはどこじゃあ」
笑い交じりの悲鳴があがる。あれはトトだ。じゃあさっきの声はニンか。どたばたと駆け回る足音。叱る声に、二人の元気な返事が聞こえて屋敷は静かになる。
ニンとトトがやっていたのは、明日の水神祭を真似た供物ごっこだ。
五年に一度、五つの集落が集い行われる水神祭は、森に棲む守り神である竜に供物をささげる祭りだ。
森には『竜の胃袋』と呼ばれている大河がある。その先に竜が棲む岩場があるとされていて、五年ごと、集落が持ち回りで用意した供物を捧げている。供物は『竜の胃袋』に入り、大河を進んでいくのだ。
供物は十五歳の少年である決まりだった。彼らは供物になるためだけに育てられる。竜は雌で集落では『竜姫』と呼んでいた。
今夜は満月だった。月光が集落を照らしている。おれは屋敷が寝静まるのを待ってから外に出た。集落の端まで行き、セラプトを置いた茂みの裏を見る。
「……いない」
丸籠は空っぽだった。目を凝らしてあたりを見たが、セラプトの白い姿はない。動けたことに安堵したが、すぐ残酷な考えが浮かんでしまう。
この森には瀕死のヘビを食いたがる鳥や獣は多くいる。でもそんなことは、ここにセラプトを置いた——捨てたときからわかっていたことだ。今さら悲しんだところで偽善でしかない。
丸籠を拾い上げると腕に抱いた。すぐにこみあげてくる涙が憎らしかった。めそめそしたところで何も解決しないのに感傷だけは一人前だ。
持ち出していたソーダ水の瓶を丸籠に入れた。それから集落の中心部に戻る。
供物に選ばれた子どもは、ククスが供物を出す年に十五歳になるよう選び、赤子の時から外界から遮断された特別な家で育つ。
そこは高い石壁で囲まれていて、中に入れるのは限られた者たちだけだった。たとえ実母でも供物になれば会いに行けない。供物たちの生活は集落の誰よりも贅沢で満ち足りたものだと聞いている。それでも何人かはお役目を果たす前に死ぬこともあったけれど。
今年、ククスから出る供物はひとりだけだ。八人育てていたそうだが、残ったのは彼だけだったらしい。
とても貴重な存在だ。もし今年ククスから供物を出せないことになったら、他の集落が何というか。供物は欠かせない存在だ。集落を守るため、森を守るため、生きるために必要なもの。
おれはそんな供物の家を通り過ぎて広場に向かう。明日の水神祭のため、供物はもう外に出ていてやぐらの中にいるからだ。
花で飾ったやぐらには垂れ幕がしてあり、ククスを現す文様、牡鹿の角に藤が絡まる図柄の刺繍が施してある。
おれは足音をしのばせながら近づき、垂れ幕に顔を寄せた。微かな息遣い。自分のものか誰かのものかわからず、おれは息を止め、耳を澄ませる。
それはすすり泣きに聞こえた。まさか。供物は神聖なお役目で、そのためにずっと育てられているのだ。あれは晴れ舞台を前にして喜びに震えているだけだ。唯一残った供物。彼はこの村の誉れであり救い手だ。
それでも早朝、ヌンが見せた責めるような顔を思い出す。そうだ、ヌンはおれたちの風習を口には出さないが嫌っている。粗野で無意味な愚かな風習。
だから来たばかりなのにもう集落を出て行ったのだ。「祭りには出たくねぇからな」。ヌンはこれまで一度も竜を見たことがないといった。各地を旅して、おれからすると幻のような世界を知っているヌンであっても、竜は見たことがない。
——そんなもの、いないのかもしれない。
おれはぞっとした考えを振り払い、美しい月を見上げて心を落ちつかせた。
供物たちは『竜の胃袋』から一度も戻ってきていない。だからきっとその先に岩場があり、そこには竜の姿が……それとも。
今年成人したばかりのおれは水神祭のかなめである供物を捧げる場に出たことがなかった。今年も出ることはない。そこで何が行われているのか知る由もない。知っているのは供物を乗せた輿が出る前、集落で催される宴会だけだ。
竜はいる。供物は戻らないのだから。
でもなぜ、今、瀕死のセラプトが思い浮かんだのだろう。人間に乱暴され、集落の外に捨てられたセラプト。
月光にさらされる身が焦げるようだった。ここへ来たのはお祝いしたかったからだ。明日おれは最後まで祭りに参加できないから。少しでも供物に感謝を捧げたくて。彼のおかげでこの森と五つの集落は竜姫の怒りから守られる。
だからこの感情は後ろ暗い感謝ではない。ニンやトトが見せるような純粋な眼が見せる感謝だ。おれは垂れ幕の隙間に手を入れた。甘い香りがした。中では香を焚いていたのかもしれない。それとも良く熟れた果実が供物に与えられていたのかも。
やぐらの中はひんやりしていた。静かにソーダ水の瓶を置いて手を引き戻す。すすり泣きがやんでいる。
ゆっくり一歩ずつ下がり五歩目でやぐらに背を向けると、おれは走ってその場を去った。ひざが震えた。恐怖からじゃない。これは神聖なものに触れた感動だ、きっとそうだ……。
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