第3話 セラプト、ごめん。

「セラプト、見えるか?」


 丸籠の中で横たわる瀕死のヘビの目はうっすらと開いていた。おれはヌンからもらったソーダ水入りの瓶を押上げ窓にかざして揺らす。陽が瑠璃色の瓶をきらめかせた。


「これが海の色だよ。どこまでも広がる海」


 セラプトが笑ったように見えた。おれがただそう思いたかっただけかもしれないけれど。細く目を開けて瓶を見ている、そんな気がしたんだ。


 セラプトは弱弱しくとても自分では動けそうになかった。でも抱き上げた手に血がつかなかったことでおれは安心していた。


 もしも両手にべったり血がつき地面まで濡らしていたら怯んでしまって、屋根裏まで運ぶ気力がわかなかったかもしれない。


 きっと大した怪我じゃない。大人しく寝ていたらすぐによくなる。決して……決してこのまま起き上がれなくなるなんて、ありえない。


 おれは丸籠のねぐらに横たわらせると誰も屋根裏部屋に来ないことを願いながら、ヘビのそばに座っていた。


「大丈夫だよな、セラプト」


 ゆっくりまばたきするセラプト。その眼差しはおれを心配しているようだった。こらえきれなくなった。おれは窓にかざしていた手を下ろして目を拭った。


 今からでもヌンを追いかけようか。彼ならなんとかしてくれるかもしれない。良い薬とか対処法とか。ただ見守ることしかできないおれと違って、ヌンならセラプトを助けられるかもしれない。


 でもおれは駆け出すことはなく、屋根裏で声を殺して泣いている。


 音を立てないようにするのはこの家にいる誰かに気づかれたくないから。大切な友だちが死のうとしているのに、集落を飛び出せないのは、しきたりを破るのが怖いから。


 セラプトをいじめたズンダたちに歯向かう牙すらなく、ひたすら頭を下げることしかできない臆病者。今だってセラプトがいなくなるとひとりぼっちになるから泣いてるんだ。なんて身勝手なんだろう。


 セラプトが怪我したのはおれのせいだ。おれがひとりでいるのが寂しくて、彼をそばに置いたから人間に痛めつけられたんだ。


 賢いセラプトなら、たとえ他と異なる目立つヘビだとしても、その身を隠しながら利口に暮らしたはずだ。森で自由に食べたいものを食べ、眠りたい場所で眠り、歩きたい場所を歩いた。


 それが卵を拾い、おれが手元で孵したばかりに、セラプトは人間の中で暮らす羽目になった。ひとりが寂しくて森に帰そうなんて考えもせず、大切だ、友だちだと、自由を奪い自分の支配下に引きずり下ろした。


「ごめん、セラプト。全部、おれのせいだ」


 セラプトが入る丸籠を抱えてはしごを下りた。炊事場からは昼飯の準備をしている下働きのねえさんたちの笑い声が聞こえてくる。


 本当ならおれも手伝わないといけない。見つからないよう抜き足で廊下を曲がった。昼間でも暗がりな奥の間まで行って縁側の雨戸を開けて外に出た。伸び放題の風鈴木の枝をくぐり、朝ヌンと別れた集落の境界線まで行く。


 人目はあったが誰に咎められることはなく、幸いにもズンダたちに会うこともなかった。境界線に到着すると、柵の脇にある低木の陰にゆっくり丸籠を置いた。セラプトは目を閉じたまま動かないでいる。そっと触った。温かい。


 丸籠を見下ろしながらおれは口を開いたが言葉が出なかった。何をいったらいい? じゃあな。バイバイ。元気でな。どれも空虚だ。おれのようの存在がセラプトにかけていい言葉などない。


 悩み、結局何もいわずジジ様の屋敷に戻った。おれはセラプトを捨てた。看取る勇気がなくて。自由にしてやる、なんて言い訳をまぶして、瀕死の友を捨てたんだ。


 集落の中心部は賑やかだった。明日、五年ごとに行われる水神祭がある。広場には新しいやぐらが建てられ、供物を乗せる輿こしの仕上げも進んでいた。


 歩き始めたばかりの幼い子たちも白や桃色の黄色の花びらをほぐして、やぐらや輿を花で飾る女たちの手伝いをしている。


 白木を組んだやぐらは、咲いたばかりの青い野菊バラと秋に採っておいた赤い実を束にしたもので縁どり、大ぶりの花を咲かせた薄紫の竜藤が四隅に垂らしてあった。輿には小さな花を咲かせる綿毛草の白い房が雲のように敷かれていて、岩カズラの葉が細かく編み込まれている。


 ぼんやりその光景を建物の端から眺めていると、彼女たちに昼の握り飯を運んできたねえさんのひとりに見つかり、おれは炊事場に引っ張っていかれた。泣き腫らしたおれの顔見て一瞬何かいいかけたが、いつものことだと思ったのだろう。追及はなかった。


 昼を過ぎても炊事場は煮炊きで大忙しだった。今夜や明日の食事のために、何十人分も用意しないといけない。周りはねえさんたちばかりだ。男はおれひとり。ズンダたちも含めてみんな外で力仕事をしているから。


 やぐらや輿を組み立てたあとも、森に入り『竜の胃袋』まで続く道を整備する作業があった。他の集落から来る客人たちに恥をかかないよう、夜も明るくするため、そこら中に行灯を立てているし、みすぼらしい家屋の修繕もする。


 でも今日に限らず、おれはいつも炊事場の手伝いをしていて、たまにどうしても人手が足りないときに男たちの中に混ざる程度だった。


 いまだに周りはおれの扱いに困っている。特に男たちがそう。先代のジジ様が生きていたとき、おれは男たちの中に混ぜてもらえなかったからだ。子どもばかりの輪であっても。読み書きも一緒には習わせてもらえなかった。


 見かねたババ様が炊事場の手伝いをするようにいって、ねえさんたちの中に入れてくれた。それが今も続いている。


 この集落ではジジ様の力が強い。ババ様は女たちの中では一番偉いけれど,敬意には雲泥の差がある。ククスの集落ではジジ様の妻がババ様になる。ジジ様の代が変わると、ババ様はもうババ様とは呼ばれなくなる。


 今のジジ様の妻、ズンダの母親は数年前に亡くなっているし、新しい妻も迎えていない。だから今のククスにはババ様がいない。


 でも本当ならこの場合、ジジ様の女きょうだいが新しいババ様についているはずだった。ジジ様には妹がひとりいた。おれのかあさんだ。でもかあさんはおれを生んですぐ、許可なく集落の境界線を越えた。男も一緒だった。それがおれのとうさんなのかはよくわからない。誰も教えてくれないから。


 ともかく、二人はククスで初めてしきたりを破り二度と帰らなかった。その罪人の子がおれだ。


「ケセド、これを運んで」


 黒芋の煮物が入った大鉢を渡されて食堂の座敷に持っていく。昼を食べ損ねたが、忙しくしているうちに夕食時になっていた。屋敷に住む男たちは全員そろっていた。おれだけが炊事場に戻り、作業を手伝う。


 料理が並べ終わると、おれも末席に座った。これもジジ様が代替わりしてから変わったことのひとつだ。


 先代のジジ様は、おれが座敷に入ることすら嫌った。まともな食事はない。残飯があればもらえる。なければ水だけだ。それが今では焦げたり形が崩れたりしたものばかりとはいえ、みんなと同じものを食べている。


「ケセド、首飾りはどうした」


 食事も終わろうとしているときだった。ジジ様の突然の声に、おれはとっさにズンダを見てしまい、すぐに視線を伏せた。ズンダはジジ様の隣に座っている。


「親父。あいつ、首飾りをなくしちゃったんだよ」


 ズンダの声に首筋が熱くなった。


「なくした? いつ」

「さあ」


 座敷の端で走り回っていたズンダの幼い兄妹、双子のニンとトトがぴたりと立ち止まる。ひり、と空気が張りつめた。


「ケセド。成人の証をなくす、その意味がわかっているのか。あれは遊びで渡したんじゃない」


「怒るなよ、親父。誰だってなくすことはあるだろ? おれも一緒に探したんだ、でもなくてさ。落としたのを鳥が盗んでいったのかもね」


「首飾りをなくす男は初めて見るよ」


 先代のジジ様の妹、キジカばあの小声のあとに、ニンが甲高い声で反応する。


「ケセド、悪いことしたの?」

「ああ、悪いことだ」


 ジジ様の低い声。おれは伏せていた頭をさらに下げた。殴ってくれたらいいのにと思った。そうしたらすぐ解放される。


 幼い双子の前なのが誰の視線より痛かった。この二人は無垢なだけに、偉ぶるズンダよりもおれに懐いてくれていた。でもこういう場面に出くわすたび、おれへの接し方が徐々に変わっていくのだろう。


「ケセド。明日の水神祭、お前は集落に残れ。供物の運び手は成人の男でないとだめだ。お前は連れていけない」


「はい」

「残念だな、ケセド。お前、『竜の胃袋』を見たがってたのにな」


「にいちゃん。りゅーのいぶくろって、おっきいんでしょう?」

「あんなにでっかい水脈は他にない。お前も大人になったら見られるぞ」


「ケセド」


 ジジ様の声に顔を上げると、駆け寄ったニンの頭をズンダが笑顔でなでていた。その姿を妹のトトが指をくわえて見ている。


「お前はまた五年後、参加できる」


 ジジ様は茶碗をすすり、音を立てて膳に置いた。


「首飾りは一年後に渡す。それまではなくしたことを恥じ、反省するように」


 席を立ったジジ様のあとを、ズンダもすぐに続く。前を通るとき、おれたちは頭を下げた。と、ズンダが立ち止まり、おれのほうへ身を屈めた。


「首飾りをなくすなんて、お前はほんと間抜けなんだから」


 優しい声音が、おれの感情をなぶった。

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