002

 リョウが生まれ育ったのは、この国第二の都市であるオルキデア市の最南端、オリソンテ地区だった。地平線オリソンテという名前は、高い山に囲まれた盆地に形成されるこのオルキデア市において、最も標高の低い場所から見上げられる、最も標高の高い場所、山と空の境界がここにあったことに由来する。

 標高の低い場所から徐々に都市が作られていった歴史を持つオルキデア市では、麓に近ければ近いほどに富と権威を表すようになっている。山頂にほど近いオリソンテがどういう場所かは、その逆と考えれば良い。


 胎児ごと死にかねない量のコカインでハイになった母親から生まれたリョウは、当然のごとく自分の存在を無視され、隣人たちのほどこしによって命を繋いだ。普通の子供たちが学校に通い始める頃には近所の子供たちと小さなグループを作り、低地の店から物を盗むことで生活するようになった。

 食べるもの、着るものはほとんど全て盗むか、盗んだものを売った金で賄った。オリソンテには、十歳にもなっていないような子どもたちが妙に高価な代物を持っていたとしても、何も聞かない代わりに二束三文で買い取るような大人がどこにでもいる。寝る場所は友人や隣人の家を転々とした。母親のいる家に帰るのは、母親が客を取っていない日だけだった。

 リョウと仲間たちはあらゆるものを盗んだが、曲がりなりにも帰る家と迎え入れてくれる家族がいて、自分が遊ぶ金さえあれば良いと考えている仲間たちに比べると、リョウの真剣さは一段違っていた。リョウは自分だけでなく、もう一人――妹のサラの分まで、稼がなければならなかったからだ。


 リョウにとって三歳年下の妹は、何よりも大切な存在だった。父親はおらず、母親には何一つ期待していなかったリョウにとって、唯一家族と言える存在ががサラだったからだ。この自分よりも小さくて弱い存在を守らなければならないという意識が、同じように幼いリョウの中に、しっかりと芽生えていた。

 リョウは付いてこようとするサラを仲間の家に預け、毎回の“出撃”――リョウたちは盗みのことをそう呼んでいた――で、自分だけ二人分の稼ぎを狙った。リョウは善悪や法など誰にも教わりはしなかったから、ある時までは良心の呵責に苛まれるようなことはなかった。「生活のためには仕方ないのだ」などと自分を正当化する必要もなかった。

 だが不思議なことに、リョウはそれでも自分がしていることをサラにさせてはならないということだけは理解していた。


「どうしてリョウは私を行かせてくれないの?」

 ある時サラにそう尋ねられて、リョウは困惑した。なぜかなんて、考えたこともなかった。聞かれてみれば、なぜだかよく分からなかった。しどろもどろになりながら、リョウはようやくこう言った。

「だって……これは悪いことだ。サラは悪いことをしちゃいけない」

 そのとき始めて、リョウはようやく自分がしていることが悪事であるということに気づいた。

 だが、サラは本当に不思議そうに言った。

「なんでリョウは悪いことをしていいの? なんで私は悪いことをしちゃだめなの?」

「それは……」

 それもよく分からなかった。俺はなぜサラに悪いことをさせたくないんだ? 急に自覚させられた善悪の概念は、ひたすらリョウを困惑させた。

 この瞬間まで気付いていなかったが、リョウは無意識のうちに自分の中で自分の価値を毀損し続けていた。自分自身の存在を低く見積もり続けたリョウは、自分が何をしてもこれ以上無価値になりはしないだろうと考えていた。それがリョウの悪事を支える一つの論理だった。

 そして、サラはそうではないと思っていた。サラは自分のような無価値な人間ではないし、これからもそうあってはならない。そういうリョウの観念が、サラを守ろうとするリョウの行動に結びついていた。

 こういった観念を言葉にするには、リョウの持つ語彙も、経験も少なすぎた。リョウは自分の中に一瞬で膨れ上がったもやもやしたものを、なんとか吐き出そうとした。

「サラは、俺みたいになっちゃいけない」

 なるほど、これはうまく言えたんじゃないだろうか、とリョウは思った。俺はどうしょうもない悪人で、サラはそうではない。だからサラは俺と同じことをするべきではないのだ。自分の発した言葉と共にそれを理解すると、リョウはすっきりとした思いでサラの顔を見た。

 だがサラは、リョウにとっては意外なことに、とても悲しそうな顔をしていた。

「……それ、なんか嫌だ」

 リョウはサラがそんな顔をすると思っていなかったから、今度は自分が不思議そうな顔を浮かべた。

「何が?」

 サラはしばらく考えたあと、口に出した。

「だって、リョウにばっかり悪いことさせてる感じがする」

「それの何が嫌なんだよ」

「ずるいじゃん」

「俺がそうしたいからしてるんだ。サラは何もずるくない」

 リョウはそう抗弁したが、

「ずるいよ」

 サラはそう言うと、口を閉ざした。

 リョウにはサラの感情は、まるで理解できなかった。


 リョウとサラに転機が訪れたのは、リョウが十五歳になる頃だった。

 それまで二人のことなどまるで気にかけなかった母親が、急にオリソンテで一番高い(とはいっても、麓の店に比べたらなんてことはない)レストランに二人を呼び出した。その隣には精力に溢れた表情の、見知らぬ男がいた。

 着古したTシャツを着ている姿しか見たことのない母親が、悪趣味なくらいきらきらとしたドレスを着ていた。服だけ着飾ったところで、骨に接着剤でようやく張り付いたようなガサガサの肌に刻まれた皺と、曲がった背筋だけはどうしようもなかったが、母親は精一杯の笑顔を浮かべて言った。

「喜んで! お父さんができるわ」

 母親がそういうと、男はテーブルに身を乗り出した。

「コウイチ・ケンヤだ」

 ケンヤはリョウとサラに順番に握手をした。

「お前たちがどういう暮らしをしていたのかは聞いている。もう安心していい。俺が父親になるからには、そんなことはもうさせない。お前たちは年相応に学校に通い、友達と遊べば良い。金が必要なら俺が出そう。何か欲しいものはないか? お近づきのしるしだ、何でも買ってやろう」

 伸びたワイシャツの袖口から、タトゥーが覗いた。

 ああ、ギャングだ。リョウは直感した。オリソンテにいて、この妙に自信と余裕のある態度を取ることのできる人間は、ギャングしかいない。

 悪いことではないかもしれない。リョウは思った。ケンヤの言う通り、ギャングの庇護に入れるなら、金に困ることはあまりなさそうだ。特に媚びる必要もないだろうが、無下にすることもないだろう。サラも俺に後ろめたさを感じなくて良くなる。

 そういう打算がリョウの中で起き、リョウはケンヤに軽く頭を下げた。小さな声で「よろしくお願いします」と言うと、「そんな固い挨拶を言うな。家族なんだ」とケンヤは笑った。

 リョウはこれからの生活が変わるだろうことに期待を抱いていたが、同時に微妙な不安と、一つの疑問を感じた。

 どうしてケンヤは母親を気に入ったのだろうか。昔はどうか知らないが、お世辞にも美人とは言えない母だ。薬に依存しきった不安定な性格も、魅力的とは言い難い。それなのに、どうしてこの男は母を?

 答えはすぐにわかった。


 ある夜、リョウがケンヤの家に帰ると、ケンヤが服を脱がされたサラに覆いかぶさっているのを見つけた。リョウが玄関で立ち尽くしていると、声を出さないように泣いているサラと目が合った。

 リョウは一旦家を出ると、家の外に転がっていたレンガを拾い上げてから戻り、足音を立てないように二人のそばに近寄ると、迷いなくそれをケンヤの後頭部に振り下ろした。

 何度も振り下ろし、何度も振り下ろした。

 やがてレンガが砕けきって砂くずになり、自分の拳だけでケンヤの頭蓋を殴っていることに気付くと、リョウは血に塗れた拳をおろし、声を上げて泣いた。

「ごめん、本当にごめん」

 裸のままのサラがリョウを抱きしめた。

 寝室で眠りこける母親のいびきが聞こえた。

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