夢猫  作:麦茶

 大学構内に数百人で住んでいる。構内には構脈がある。先月から、構脈内に構外の者が十人ばかり住みつき始めて、困っているところだった。三日前には、ゼィラが監査に入っていったが、何があったかまだ帰ってこない。いよいよ警察を呼んだ。


 早朝、警官隊が五十人、入っていったと思ったら、夕暮れとともに帰ってきた。縄に繋がれ、ぞろぞろと不法占拠者が出てくる。十人だと思っていたら三十人近くいた。ゼィラもいた。悪風感染という言葉が脳裏をよぎった。風邪でもないのに。


 不当な占有者の集団は護送列車に満杯になって、あとは発車を待つばかりだった。


 構内の人間は皆護送列車に興味津々で、うなだれる男たちの顔を覗きこんでは、くすくす笑っている。ゼィラと目が合った。ゼィラは笑った。憐れむような目で、嘲るような口元で、笑った。何か言おうとしている。縄で縛られ他の男の手と数珠つなぎになった両手を、窓からさしのべている。憐れみの目で、嘲りの口元で。


 不用意に近づいて、掴まれたら怖い。しかしこの距離では、何を言っているのか分からない。ゼィラは手を引っ込め、かわりに顔を突き出してきた。恐ろしい顔だ。すぐにでも脱走してやるぞという顔だ。きっとゼィラはすぐに護送列車を逃げ出して、私を殺しに駆け戻ってくるに違いない。まだ何か言おうとしている。聞くものか。その場を離れた。


 子どもを三人連れた女に会った。子どもの中でも一番小さい女の子が、おぼつかない足取りで寄ってきたので、膝をついて迎えた。髪を撫でてやると喜んだ。三歳くらいだろう。愛されるための歳だ。女はしきりに「hauzɑː、hauzɑː」と言っている。大丈夫だよ、安心しなとか言っているのだろうか。真似して言った。「ハウザ、ハウザ」「hauzɑː!」すぐさま訂正された。「hauzɑː」意味は分からない。


 「猫がいるんだよ」と女が言って、ジーンズのポケットから塊を三つ取り出した。黒いのと、白いのと、白いのと、どれも手のひらに乗る大きさだ。白いの二つは、大小あるが、毛並みの柔らかい子猫だった。黒いのは、かさついて、細長くて、頭らしい突起が俯いていて、ミイラのようだった。「そいつもまだ生きてる」女が言う。胸らしいところに指をあてると、弱々しいながらたしかに脈があった。女は私に三匹を押しつけたまま、三人を連れて消えた。「じきに死ぬさ」


 干物のような黒い子猫は、地面に置くと踏みつけられて粉々になって死にかねないと思い、風呂敷に包んで、背負った。背が少しあたたかくなった。白い子猫は、小さい方が先に寄ってきて、か細い声で私を呼んだ。白いとはいえ薄汚れていた。大きい方(両手におさまる程度)は、傍らに落ちていた靴にもぐり込んだ。「hauzɑː、hauzɑː」金切り声がして、護送列車が出ていった。


 構脈が解放されたので、きっと明日にも偵察を兼ねて入るだろう。スコップが必要だ。倉庫になっている花壇を掘り起こす。しばらく使われていなかったスコップがぞろぞろ出てくる。ひとつひとつ手に取り、布巾で軽く拭いて隣に置いた。徐々に山積みになる。背があたたかい。夜も更けてきた。


 構内のそこかしこに設置された電灯で、手元はよく見える。銀色のからだがばらばらに横たわっている。そのなかに人間の皮膚が見えた。取り出すと、スコップを持った人間の手と、手首だった。その先はない。人間の手というより、つくりもののようだった。手は固くスコップを握りしめていて、離れない。他にも握られたスコップが出てきた。仕方ないので全部まとめて山に積んだ。同輩が寄ってきた。スコップをひとつ取り、消えた。それから一人二人と、少しずつスコップが持っていかれ、山は見る間に崩された。スコップを握りしめて近くに座り込む者もいた。視線を移すと、近く遠く、スコップを握りしめて座り込む人の姿があった。皆同じ方向を向いていた。知らない間に集会でも予定されていただろうか。「これは何?」と近くにいた三つ編みの男に訊くと、無言で睨まれた。


 何かまずいことが起こると感じた。白い小さいのが転がって、身をすり寄せてきた。子猫三匹と靴を一緒にリュックサックに入れて、裸足で構内を出ていくことにした。スコップを握りしめるつくりものの手と、人間の手と。人為は危険の象徴だ。そのうちゼィラもここにくる。もう脱走しているかもしれない。身を守らなければ。足に血力が入らない。「hauzɑː、hauzɑː……」あまりにもすぐに消えそうな命。


 大丈夫だと自分にも言い聞かせ、普段通行に使う洞穴に向かった。アスファルトが裸足に痛い。しかし靴は白い大きいのが入りたがるから、残しておいてやりたい。洞穴の入り口まで来て、中を覗き込むと、誰かがこちらに向かって歩いてきているところだった。薄暗くて顔が見えない。ゼィラかもしれない。引き返した。


 引き返した先は昼間の町で、タクシーが走っていた。財布に余裕はある。しかし電車の方が安い。いつまで逃げ続けるか分からないし、駅まで歩くことに決めた。とにかく子猫に大丈夫だと言い聞かせ続けた。低い高架がかかっていて、くぐった先に、交通整理員がいた。四、五人いて、何か話し合っている。近寄って、声をかける前に、気の毒そうな表情を受けとった。「あの……K大のN構から来たんです」涙が溢れた。右手に川が流れているのに気がついて、日光が眩しくて、泣けた。「あの、あの……どうしたら……」リュックサックを降ろして、子猫を見せた。三匹とも動かなかった。青空の下でぴくりともしなかった。「死んだんでしょうか……」もしそうなら、自分のせいだった。後悔で死んでもよかった。


 整理員の一人が、黒いのの黒い毛皮を、あっさり剥ぎ取った。焼き芋の皮でも剥くかのようだった。上半身が剥かれて、中からむくむくした黒い毛皮の犬が出てきた。瞳は藍色で、嘘みたいに元気だ。虫の羽化に似ている。「虫なんですよ」整理員から犬を受け取ると、子猫だった犬はおとなしく腕におさまった。「子猫は何にでもなるんです」その直後、白いの二匹が身震いし始め、毛が伸び始めた。白い毛並みの間に、赤や青のきらきらしい毛束も見られた。「魚に似るのもよくいますよ」二匹は川に飛び込んで、すいすいと泳いだ。そのまま水中で生活するようだった。水流に白毛の波が広がり、それを彩毛が華やかに見せた。


 黒いのは腕の中で、しだいに銅のようなきらめく赤茶の毛並みに変わっていった。羽化の終わりが近づいていた。毛は姉妹と同じくらい長く伸びた。水中の姉妹がよく見えるよう高く掲げてやると、藍色の瞳を瞬かせた。「あれがお前の姉妹だよ。お前だけ水に入らないなら、あの二匹とお別れだよ、お姉ちゃんと、妹と……」しかし、水には入らないようで、また一度、二度、まばたきをした。川では白い小さいのがひと声あげたかと思うと、二匹とも泳いで行ってしまった。毛の流れが綺麗だった。構内で押しつけられたときの薄汚さと比べて、涙がまた出てきた。座り込みたかった。取り残されたのを抱きしめた。「綺麗だったね、もう一生会えないよ、お前……」


 しかし立ち上がるほかなかった。ついさきほどまで一番弱々しかった命と、力強く生きていくしかないのだ。今ごろ構内で起こっているであろう、スコップを持った怖い目の集団と、ゼィラの率いるごろつきの集団との争いを思い浮かべた。何人も死ぬだろう。何人も、自分がこんなに弱かったと慟哭しながら死ぬだろう。戦うだけの弱さしかなかったと後悔して。生き残ったのを、また抱きしめた。「分かっちゃえばいいね、分かっちゃえばいいよ。皆お前よりは強いと思ってたよね」

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