一望できる生活 作:奴
土曜日の午後、春だった。ぬるい日差しを浴びながら街をそぞろに歩くうち、だんだんと眠たくなった。人通りはそうない。うつらうつらしながら文字の上に目を滑らすだけのぼんやりした読書をするのにちょうどよい喫茶店もない。
近くに私立美術館がある。何かしら有名な企業の、今は会長に就いている人がたいへんな蒐集家で、壺や掛け軸といった骨董品、西洋画から現代の芸術家の制作した絵や彫刻まであらゆるものを、自費で建てた美術館に展示してあるのだった。そこの展示室のソファで三十分くらいうたた寝しようと思った。
せんに訪れたときと変わらない並びのなかに、最近の蒐集物を展示している一室がある。そこに女がいた。すこし色あせたブルー・ジーンズに、リネン混じりの白いティーシャツというかっこうで、髪を緩い一つむすびにしている。二十代そこそこに見えた。
女は展示物のなかにいた。展示というのは、アパートメントの一部屋、全面の壁をそのままガラス張りにして置いてあるといったふうの設えで、家具屋の一角にある、家具の配置のしかたを例示したショー・ルームのようでもあった。女はそこにいる。キッチンがあり、冷蔵庫、電子レンジ、炊飯器、皿の類があり、カーペットが敷かれ、ソファとテレビと本棚がある。シャワー室もあればトイレもあり、寝室もあった。間仕切りの壁はどこも透明で、リビングにいるときもそうした別の部屋まで(家具に遮られながらでも)見えるはずだった。女はソファに座っていた。
それはたしかに展示物だった。「生活」と名指されたその空間は、人間一個の営為をたしかに直示していた。生活とは何であるかと問われるなら、今ここに現前する「これ」を指し示せばよかった。女は生活そのものだった。
女は展示的なふるまいをするのではなく、ふだんのようすを自然に見せていた。私は「生活」に向かって置かれてある鑑賞者用のソファから三十分は眺めた。部屋全体を横から見るというのは奇妙な体験だ。女は国営局のニュース番組を見ていた。そのときは全国の放送支局から、地方の細かいニュースを報じるコーナーをやっていて、温暖な南部ではすでに夏の植物が芽生えつつあること、北部の高速道路で多重事故が起きたことなどが、映像をまじえて報じられていた。
私は、「生活」を見ているのか、ニュースを見ているのか、あるいはニュースを見ている女を見ているのか、わからなかった。女はソファに腰かけて、クラッカーをかじっていた。コーヒーを淹れ、ひざ掛けを取り出し、本を読んだ。そのうち、ソファでうたた寝した。ニュースはそのままつづき、天気予報などをやった。女は本気で寝ているらしかった。私はなかば眠るような感覚のまま、女が目覚めるのを待った。女は数十分で起きるかもしれないし、眠りこんで二時間くらいは目覚めないかもしれなかった。私はただ女が起きるのを待った。……
しかしふと気づくと自分まで眠っていた。夢にその女が出てきたような気がしたが、夢の中身までは思い出せない。現実の女はもう起きていて、ラップトップで何かしら文書を作っていた。ソファから降りて床に座り、飲みものはコーヒーからミネラル・ウォーターに替わっている。ほとんど止むことなくタッチ・タイピングで文字を打ちこみ、たまに小考で指を止め、また何ごとかを書きすすめた。だいたいはごく自然に結ばれた真顔をしていて、ときおり眉をひそめたり、口元をもごもごさせたりした。それが一時間半くらいだったと思う。もう夕時で、閉館も近かった。私は名残惜しさにぐずぐずしながら美術館を出た。女のタイピングの音がごく小さい音で聞こえた。当然女は、帰る私に目もくれない。
家に帰ってからも女のことばかり考えていた。今ごろは何をしているだろう。閉館すればやはり自宅に戻って、また朝早くに展示室に入るのか。いや、彼女はここ最近ずっとあのなかで暮らしていて、夜になれば透明な部屋のなかのベッドで眠るのだろうか。私はあの女に惹かれていた。それは芸術を知らない者が、何かしらの絵をただぼんやり好ましく思うのと同じだった。私は美術的側面のある女を好いたのだ――そうだ、女は一個の人間でなく、明らかに芸術品としてそこにあった。叩けば割れるような、ナイフを突き立てれば流血もなしにびりびりと裂けてゆくような、そういう無機質な美的もろさすら、その女のうちに感じられた。
翌日、日曜日は開館からずっと「生活」を眺めた。女はすでに起きていて、聞き覚えのあるクラシックを流しながら読書をしていた。私は周囲を巡って女のようすを観察し、昼になれば併設のカフェで昼食を食べ、また展示室へ見に戻った。女はやはりそこにいた。キッチンで料理をしていた。昨日と同じような服装だった。
女は昼にアスパラガスのリゾット(のように見えた)を食べ、それが済むとラップトップでまた何かを書いた。女の本来の職業はライターかもしれない。もしくは、でたらめに何かを書いて暇を潰しているのかもしれないし、単に制作者からの注文でそうしているのかもしれない。しんけんに文章を書き、たまに背中を伸ばして一息ついては、手元にある携帯電話をいじる。ため息をつく。適当なところでラップトップを閉じると、ソファの上で体育座りのかっこうになり、女は録画したドラマを見はじめた。ごく最近の刑事ものだった。
私は女といっしょにそのドラマを見ている気分になった。刑事が事件の犯人を追い求めている姿を、同じ室内でともに見届けていると思った。女の息づかいをそばで感じているようだった。自分が妄想質なのだろうか? それとも「生活」があまりに肉薄だからだろうか? 女は自分が人から見られていることをわかっていないようにふるまっている。つまりが動作は自然で、どこまでも私生活の観を呈し、外のようすにはまるで無関心だった。鑑賞する者を気にかけるふうはなく、つねにある種の隙があった:何年も住んでいる家でくつろいでいるときの弛緩だ。女はせんに示した体勢のまま、立てた膝に乗せた右手を顔に持ち上げ、親指でしきりに唇を撫でていた。ふと手のひらを目前にかざし、爪を点検すると、手を下ろして足の上に置き、おりおり足の指を揉んだ。
もしかすると、内側からは本当の壁のように見えていて、外側から見るとガラス張りに見えるような特殊な造りではないかと私は考えた。実際、女は遠慮もなしにトイレへ行き、用を足そうとした。私はよほど見ないでおこう、トイレが見えない位置(つまりが今いる、リビングを横から一望する位置)のソファに座って、彼女を待とうと自己を強いた。だが、気味悪い欲求が強まるにつれ、だんだん理性は弱まって、今度は芸術品として提示されているのだから何も悪いことはないと思いあらためてトイレの側に回った。女はちょうど便器に座っているところだった。私は済まないと思いながら、居なおって女が小用をする姿を見た。放尿の音がたしかに聞こえた。
そのときに向こうの展示室で子どもがぐずり、ほとんど絶叫するような声で泣くのを聞いた。親が子をなだめている声もした。それで気づいたのだが、女はそのようすが聞こえていて、さらには見えてもいるようだった。便器に座ったまま、うつむきかげんの体を傾け、子どもの嗚咽する声のほうを窺っていた。子どもが向こうを駆けてゆくのを目で追っていた。彼女は外が見えているのだ。だとすれば私がぶしつけにも人の排尿を見ていることすら、確実に見えているだろう。私はそのときばかり自己を恥じた。女に悪いと思った。それにしても女は、人間の現代的生活を示す作品として、ふつうの所作を見せていた。服装を正すときの衣擦れの音、水を流す音などが響いた。
私はその女が同じように遠慮もなくシャワーを浴びる姿も観察した。もう閉館の一時間前で、人はなかった。職員が巡回に来るほかは、女の生活音しかなかった。そのむやみに広い、音の響く展示室の中央で、出陳された女は無造作にシャワーで体を洗っていた。若い裸体がはっきり見えた。別に締まっているわけでもなく、といって贅肉が豊富なわけでもなかった。頭や肩から流れ落ちるシャワーの湯は女の体を伝い、浴室の床に水音をたてた。何ごとかを考え、それに気をとられながら、緩慢に髪を洗っていた。女はそのうち浴室を出ると、狭い透明な脱衣所で、バス・タオルでもって体を拭いた。顔をぱん・ぱんとタオルで軽く叩くと、また脇などの水気をとりながら大きく息を吐いた。その瞬間がいっとう無垢な表情であった。
下着をつけただけで上半身はむき出しの女が、バス・タオルを肩にかけてリビングへ出てくる。冷蔵庫からミネラル・ウォーターを取り出して飲み、低くうなり声を出した。そのかっこうのまま、キッチンにある背の高いスツールに腰かけて、携帯電話を使いだした。ごく小さな声で鼻歌を歌っていた。女の声を聞いたのはこの二場面だけである。洗い髪がきれいだった。
それから私は休日のたびに女のようすを見に行った。女はやはり変わらぬ生活を繰り返した。何人の人間に見られようとテレビを見、ラップトップで何ごとかをし、食事し、昼寝した。トイレに行き、シャワーを浴びた。やはり裸のままキッチンに行き、しばらくそこで過ごしていた。三十分もすれば、サイズの大きいティーシャツとハーフ・パンツを身につけた。
それはまさしく、単なる生活でしかなかった。人によってはつまらなく見えるごく単調で平穏な日常である。しかしそれはあまりにも自然的に、というよりはまさにあるがまま抉り出され、生きたまま陳列されていた。生活はそこに息づいていた。一方で、「生活」にはきちんと美術的価値があるように見えた。何も女が美しいからだけではない。石をぶつけ、床に落とせば割れるような、柔らかみと張りのある肌を持った女があるからだけではないだろう。女のふるまいが底抜けに自然で、実際に対して驚くほど精密であるのが、この作品のよさをきわだたせているのだ。普遍的な人間一人のありようが特殊な舞台で現に示されることで、はじめてその喜ばしさがあらわになるのだ。私は毎週末、飽きもせず見た。私はカメラだった。女を映し出すひとつのカメラとして、さまざまに視点を変え、映し方を変え、各瞬間を捉えた。
だがある土曜日に行くと、もう女の姿はなかった。それどころか「生活」という展示物じたいがなくなって、代わりに中世西欧の壺や像が置かれてあった。無味乾燥な単なる壺と像である。職員に尋ねると、「生活」の展示はつい数日前に終わったという。あの女はどうしたのか。それはわからない、ということだった。
女は自分の≪本来の≫生活に戻ったのだろう。たとえまったく同じ様式だとしても、それは(家族や恋人以外の)誰に見られることもなく、展示室で与えられた価値をいくらか失った社会的生活である。芸術作品ではない。私が感じ取ったありがたみや美しさのない、普遍的な人間の日常である。彼女の生活をもうはっきりと見ることはできまい。それに私は、美術品ではないかたちで女の生活を観たいとも思わない。
もし今、町なかで彼女に会ったとしても、私は何らの感興も起こさないだろう。そもそも彼女に気がつかないかもしれない。というのも、彼女は生きていくうちで出会った一人にすぎず、またあえてもう一度会うべくもない一人であろうから。われわれはただ展示物と鑑賞者という関係でのみ成り立ったのであり、それよりほかでは会う運命もなかったであろう。
それからも何回か美術館へ足を運んだ。あの展示室にも行ってみた。あるのは絵や彫刻や像ばかりで、音も何もなく静かだった。
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