卵焼き 作:西山太一
おやっさんの卵焼きは宝石だ。
すぐるは六畳一間のアパートの狭いキッチンで卵焼きを巻きながら、おやっさんの作る卵焼きを思い出していた。
おやっさんは、すぐるのバイト先である小料理屋の大将だ。すぐるはそこでホールとして入っている。
そこで昨日、すぐるは卵焼きを教えられたのだ。
え、俺が?
すぐるはいきなりのことに驚いた。卵焼きなんて、これまでの人生でほとんど巻いたことはない。普段作る卵料理と言えば、目玉焼きかスクランブルエッグ、時間のあるときにせいぜいゆで卵くらいだ。
というかそもそも、すぐるはホールだった。どんなに忙しいときでも、調理はすべておやっさんが行う。
なぜ……?
まず、すぐるはおやっさんに「まあ見てろ」と言われ、一つ卵焼きを巻くのを見せられた。特に説明はなかった。すぐるはどんな所作もコツも見逃さないよう、手元にメモを構えて血眼にそれを見ていた。
——おやっさんの手さばきは、まるでマジックショーのようだった。
卵液を流し込み、一様に広げる。頃合いを見て、くる、くる、と巻いていく。巻かれている卵焼きとおやっさんはまるで一緒に遊んでいる、あるいは、ダンスでも踊っているみたいだった。おやっさんは手と腕の動きだけで卵を巻いているはずなのに、なぜだか、へそや背中や腰でそれをやっているようにすぐるには見えた。
気が付くと卵焼きは太くなっていて、完成形になる。
——はッ
すぐるは数分の短いマジックショーが終わると、我に返った。あまりに熟練した手さばきに見入り、一瞬にして終わった気がした。
「そして最後に」
とおやっさんはここで初めて口を開き、簾を広げた手のひらに、出来上がった卵焼きをふわりと包み受け取った。卵焼きは軽やかに簾へ包み込まれた。
「形を整える」
そして数分後、おやっさんはまな板の上で簾を広げて、卵焼きにスッと包丁を入れていった。
——⁉
すぐるは、いま自分が見ているものが卵焼きだとは思えなかった。
切った卵焼きの断面は、ツルンとただ黄色い一色をしていて、とにかく、光っていた。
目玉焼きにもスクランブルエッグにもゆで卵にもなる卵が、こんな神秘的な料理へと変わるなんて。
「はい、これBテーブル」
ホールのすぐるは「はいっ」と言って、それを入り口近くのBテーブルへ持って行った。
いつも何の気なしに持って行く料理の一つでしかなかった卵焼きが、そのときのすぐるには、歴史的に価値のある宝石かのように思えた。そのときは変に手元に緊張が集まって、意識が薄まる足元がつまずいてしまわないように特に気を付けたものだった。
何度やっても、縞々模様になってしまう。
すぐるは一人暮らしのアパートで、四回目の卵焼きを焼いていた。昨日、バイト終わりに早速近くのドラッグストアで卵と卵焼き機を買ってきたのだ。
包丁を入れると、断面は茶色と黄色の縞々模様になっていて、光るどころか、くすんでいた。パサパサと乾燥していて、お世辞にも美味しそうには見えない。そして実際、美味しくない。
どうやったらあんな美味しそうで、神秘的な卵焼きが巻けるのか。
ただそれだけを考えて、すぐるは卵が無くなるまで卵焼きを焼いた。作りすぎたため、その日の朝昼晩、すぐるは卵焼きでお腹を満たさなければならなかった。
「すみません、家でやってみたんですけどどうしても上手くできなくて」
次の日バイトに出勤すると、すぐるはおやっさんにあいさつした後、そう言った。
「何の話だ?」
おやっさんは眼鏡を整えて、新聞からすぐるへ目を遣った。
「いや、一昨日卵焼きを見せてもらって、自分も巻けるように練習したんですけど、全然うまくいかなくて」
ん? ——ああ、とおやっさんはややあってすぐるの言っている意味が分かり、そして新聞を四つ折りに畳みながら言った。
「あの時は暇だったし、ちょっと見せてやっただけだぞ」
ウチの卵焼きは誰にも任せられん、とおやっさんは言って、仕込みを始めに厨房へと入って行った。
残されたすぐるは、ああ、自分はあくまでもバイトなのだな、とそんなことを思った。ホールとして雇われているだけの、大学生バイト。お店の顔同然の卵焼きを任されるなんて、考えてみればそんなこと、ありえないか。
すぐるはエプロンに着替え、ホールの準備をしていく。テーブルを拭いたり、メニュー表を整えたり。
やがて、営業が開始する。
「有田」
中々お客さんが来ない中、すぐるはおやっさんにそう呼ばれた。
「はいっ」
一緒にシフトに入っている高校生の子に「悪い」と言って、すぐるはおやっさんの下へ行く。もしその間にお客さんが来たら接客対応を彼一人に任せっきりになるため、あらかじめ彼に謝っておいたのだ。
「っす」
高校生は言って、お箸入れに割りばしを入れる作業をしている。
「見てろよ」
おやっさんの下へ行くと、そこには卵焼きを焼く準備がされていた。
え?
すぐるが戸惑う暇もないまま、おやっさんは卵焼きを巻き始めた。
「火は中火。強いと焦げる」
「膨らんだところは箸で突く」
「巻くときは、転がす、ってイメージだ。変に力を入れない」
「失敗しても、後で修正は効く。とにかく手を止めないことだ、焦げる」
おやっさんは逐一作業を説明しながら、卵焼きを巻いていった。
やがて、手のひらに広げた簾で卵焼きを受け取り、卵焼きは完成した。
「分かったか?」
おやっさんはすぐるに訊いた。
「あ、はいっ」
すぐるは応えた。すぐるは単純に驚いていた。具体的な説明を受けた後に改めておやっさんの作った卵焼きを見てみると、それは宝石やマジックショーとしての光ではなくて、堅実な仕事の結晶が見せる感動の輝きを放っていた。
ホールの自分も、いつかここで調理を任されるようになりたいと思った。
「よし」
おやっさんは満足そうに一度頷いた。
その後、すぐると高校生はその卵焼きを食べた。
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