秦王政  作:松田蛟

 政が皇帝を名乗って、幾年か過ぎた。王の中の王として、天にまします上帝の御子として強烈な自負を持つ政は、中国の全てを手中に収めた。深謀遠慮と巧みな進軍を以て、諸侯と国土を征服した。果断な改革と新法をもって、人民と官僚を征服した。勝者の特権をもって、歴史と思想に至るまでを征服した。それまで誰もなしえなかったほど、政は様々に手を出してそのほとんどを征服せしめた。老相呂不韋と破廉恥極まる偽宦官から権力を守り、刺客荊軻の刃も躱した。身に向くあらゆる難を振り払った。己が半生の功績の結晶たる現在の秦を安らぐ為の巡狩も、輿に乗り馬に乗り懈怠なく行っていた。彼がみずから統治の鞭をふるい続けられれば秦は末永く安泰であると、政自身が誰よりも感ずるところであった。ただ死だけは、どうにもしようがわからなかった。臣下すべてに「万歳、万歳、万々歳」と唱えさせてみたところで、自分の定命に何ら憐憫も酌量も加えられていないことを、政は日々随所が軋んでいく身体を以て知っていた。万病に効くという珍妙な銀薬も試してみたが、かえって軋みが増すばかりであった。もともと中華を平らげ、異邦に対して開明的であった彼は、不老不死の妙薬があるとの風聞に触れるにつけ、臣下を海の向こうへ送るのも、自ら山河を超えるのも厭わなかった。


 山東半島の巡狩の砌、山麓の広大な湿原にあって政はその土地の領主と目される人物に面会を願った。本来は皇帝がお出ましになっているのであるから、領主の側から歓待してしかるべきなのである。まして気性穏やかならぬ政のこと、近衛兵たちは半ば圧するように、半ば哀願するように領主への即時の目通りを申し出たが、向こうの方ではなかなか用意が整わぬ、主は病に臥せっているためまた後日と言った言葉を返すばかりである。いよいよもって叛逆の意ありとみた政は、領主を捕縛し御前に連行するよう命じた。果たして引き据えられた顔は、へべれけに酔って赤面していた。がしかし見紛うこともできぬほど政の見知った方士、徐福その人であった。天下統一ほどなくして、東の彼方瀛洲に神仙の妙薬ありと言上し、兵士一団を賜って出立した徐福である。政はその連絡が途絶えてから大いに煩悶し、第二の使者を遣わそうなどと考えていた矢先のことであるので、当然烈しく問い詰めた。


「ここは秦から海一つ隔てぬ燕の地である。汝苟も己が使命を忘れ、かかる僻地で妻と民を得、安穏と暮らそうと思うてか」


「皇帝陛下、まずは非礼を御詫び致します。この地はかの三神山が一、蓬莱山を戴く蓬莱の地でありまして、由縁では瀛洲山にも勝るとも劣らぬ霊験灼たかな地で御座います。陛下の望みに適うべく、不老不死の薬を求める足掛かりとすべくこの地を治めんと尽力しておりましたところ、流行り病を患うて臥せっていた次第に御座います」


「おのれ、朕を愚弄するか。泥酔しても猶その雄弁な口、頑強な体つき。出立前より壮健になりこそすれ、病などと」


政の顔はますます紅潮したが、何故か徐福は畏みこそしても恐れはしていないようだった。ただ気怠そうに、儀礼上の口上を述べているという風だった。


「畏れ乍ら陛下がお求めになっている不死の薬について分かっていることのみ申し上げます。といっても、その目的を達成するというような進捗は全くもって御座いませぬ。ただし、定命のさだめにあるにも拘らずこれを求める者には恐るべき報いが上帝より下されると、ただそればかり身に染みて理解しているのみで御座います」


政はその被害者面が気に食わなかった。自らの任を体よく放棄して、あまつさえ自身の過分な望を咎めるような口ぶりだと感じられた。政は言う。


「嗟々、燕雀のごとき小人が上帝の名を借りて朕を諫めるとはなんと非礼なことであるか。皇帝たり大丈夫たるものは、徳を以て己が定命を打ち破り、山河と民を安んじ、国の為にこの身を粉にして永久に上帝の意に適う統治を敷くのである。その実現のためにこそ、不老不死を求めんとするのだ」


政の広げた大風呂敷は、前人未到の天下統一の実績に鑑みるとあながち理想論として無体なものでもなかった。が、実のところ政が不老不死を求めるのはもっと人間的な、根源的な欲求からであった。政は半ばその事実から目を逸らし、努めて忘却しようとしていた。この口上もそうした思いから口をついたものであった。が、いつの間にか不気味な静けさを湛える徐福はこう諭した。


「陛下。不老不死を求めるのは結構でございます。自然でございます。誰もが一度はその思いを抱き、生唾を飲み、喉から手が出るほど欲するものでございます。陛下が撫で斬った趙十万の将兵も、きっとそうであったことでしょう。ですがよくご賢察なさいませ。不老がそんなに良いものでしょうか。不死がそんなに良いものでしょうか。よしんば陛下が不老になって、不死になって、どうなりましょうか。愛すべき皇后も朋友も臣下も子孫もみな、たちどころに骨となります。陛下は天意を受けて統治すると仰せあそばしましたが、陛下自身は誰のために、何のために統治するのです。自分だけがただそこにあって、子々孫々の代まで滅私奉公し続けるおつもりですか。数百年も生きると、自分の全てを知る、知己といえる人物もいなくなる。ただ自分だけが、自分をすべて理解し、自分の全てを愛し、自分を慰める。病は確かに辛うございます。老いは確かに厭わしゅうございます。死は確かに恐ろしゅうございます。しかし死が極限の孤独と苦しみであると、全ての終わりであると、誰が語った試しがありましょうか。神仙が必ずしも幸福であると、神仙みずから語った試しがありましょうか」


ここまで言った時、徐福の首は胴を離れ、宙を舞っていた。武人でもあった政は感情の高ぶりそのままに、腰のものを抜き放ち一閃していた。一瞬、動脈から鮮血がほとばしり、煌びやかな衣を紅く斑に染める。しかし奇怪なことにその血のほとんどは空中でとどまった。転がる頭は熟した柿のように溶け崩れ、胴からは固まった血を幹とし枝とするように肉がみるみる盛り上がってまとわりつき、たちどころに先ほどの徐福の姿に戻ってしまった。


「陛下、度重なる戯言をお許しくださいませ。愚かな徐福は、難儀の末、この蓬莱山の頂にて件の妙薬をひとつ、手にしたのです。すると己の慾抑え難く、これを毒見しその働きが本物であればその後いかなる困難があろうと第二の薬を求め得る、贋物であれば献上しても首が飛ぶ……と理屈を弄し、嚙み砕いて一飲みにしてしまいました。はじめは微塵の変化もなく、半ば肩を落としておりましたが、程なく東胡の毒矢を受けました。ひどく苦しみ、悶え転げまわりましたがひと月経ってもふた月経っても一向に死ねない。而して薬の効能真なることを悟り、身体を切り裂いて血を抜き毒を抜きました。未だに身体の随所は不全で、只管酒を仰いでおります。いまはただ、これが永劫ならぬことを願うばかりです」


政の顔はもはや蒼白であった。あまりの狂逸な出来事に腰を抜かしていた政は近衛に支えられつつ立ち上がると、その腕を振り払い外に出たいとよろよろと天幕を抜け出した。二、三歩踏み出し、太陽をまっすぐ向いた政は何かぼそぼそ呟くとその場で斃れた。


徐福は駆け寄る近衛たちの隙間から、政をじっと見つめた。その眼には、隠せぬ羨望、嫉視の色があった。


政の急死後の秦国は僅か三年で限界を迎え、音を立てて崩れた。その時も山東の山河では雀が啼いていた。



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