絵師と司書 作:西山太一
パチ、と目が覚める。よく眠れたな、と思う。
バサバサ——
動くと、そんな音がした。それはこの佐賀という男が、並べたパイプ椅子の上に新聞紙を掛け布団にして眠っていたからだ。
ああ、痛い。
とりあえず首が痛いのだが、最も痛いのは目、だ。干乾びた目に、見上げた天井の照明は痛すぎる。できるだけそれが目に入らないよう、佐賀はひょっとこのように顔をしかめる。
目が痛い。
首も痛い。
そしてまだ眠い。
佐賀がもぞもぞと態勢を変え、見つけた横向きのいい姿勢でまたまどろみに入ると、刹那、僅かに目覚めていた思考の部分で、「なぜ照明が点いているのか」ということを思った。
——ああ、気持ちいい。
——あと十分は寝たい。
——照明が点いている。
——ここはどこだ。
「よく眠れますね」
声が聞こえて来て、佐賀の身体はビク、と動く。それでパイプ椅子に右肘をぶつけ、ジーンと電気が走る。
「ああ、自分でも、そう思うよ」
ひょっとこのままぶつけた箇所をさすりながら、佐賀はそう言う。ああ、ここは図書館だったな、と佐賀は思い出す。
佐賀に声をかけた女は受付カウンターの中に入り、バッグを置いてコートを脱ぎ、その間にテキパキと備え付けのパソコンの電源ボタンを押した。昨日ずっとカウンターにいた女だ、と両目をゴシゴシしながら佐賀は思い出す。
「九時までには出て行くようにしてください。開館の時間なので」
椅子に座った女は、ケースから取り出したメガネをかけ、パソコンが起動するまでの時間のついでみたいに、佐賀にそう言った。
「ああ、分かった」
佐賀はそう言って起き上がり、床に落ちたいくつかの新聞紙を拾って机に置いた。カウンターの上に掛けてある時計をチラ、と見ると、時刻はまだ七時前だった。
「いいですよ、開館前に起こしますので」
佐賀の視線を察してか、女は佐賀にそんなことを言った。
「いや、もういいんだ。それより、君はそこで何をしているんだい」
佐賀は右肘をさすりながら、女にそう訊く。
「司書ですから。それよりその新聞、あとでちゃんと返してください」
女は短くそう言って、言ったきり、ようやくパソコンが立ち上がったのか、キーボードと画面に向き合い始める。メガネには白い長方形が二つ、レンズに映っている。
「司書か。司書がパソコンを使うのかい」
拾った新聞を重ねて折りたたみながら、佐賀は女にそう訊く。
「いまどきラーメン屋さんでも使いますよ、パソコンぐらい」と女は答えた。「あとそれ、もう少し綺麗にたたんでください。倉庫に保管するときに嵩張ってしまうので」
「おいおい、いまどきのラーメン屋はあなどれないぜ」
「そうですね。あと、重ねるときはページ番号が並ぶようにしてください」
女は佐賀とキーボードを見ず、画面だけを見てカタカタと十指を動かしている。佐賀は折りたたんでいた途中の新聞紙を大きく机に広げて、言われた通りペラペラとめくって入れ替える。
「残業みたいなものですよ」
それで女は佐賀に、おまけのお菓子をあげるみたいに言った。
「勤務前の残業かい」
「ああ、変ですね。何でしょう。前業」
「『ざん』と『ぜん』じゃ順序が逆だぜ。ざ行では」
「よく噛みませんね。でも、『ざ』より前のものはないですよ、ざぎょう、では」
ざぎょう、と口の動きをゆっくり大きくして女は言う。
「本当だ。じゃあそういうときは、根本を見直すのが大事なんだ。そもそもそれは、残業なのかどうか」
言って佐賀は席を立ち、カウンターの中へ歩いて行こうとした。すると、
「ダメです。こっち側は司書以外見てはいけないことになってるので」
女はそう言って、カチ、カチ、とマウスを操作する。
テキトーに画面を覗いて「なるほどこれは確かに残業だ」くらいに言ってやろうと思っていた佐賀は、
「政治屋の会食以外に覗いちゃいけない場所が、まさか図書館にあったとはね」
そう言って、女の座るカウンターのはす向かいに置いてあった椅子に、足を組んで座った。
「もっとありますよ、マスコットの中とか、試着室とか」
カウンターを挟んで、診察室の医師のような姿勢で斜め前から見てくる佐賀に対して、女は貫徹して画面から目を動かさずそう答える。が、
「それより、あなたは何をしているんですか」
チラ、と視線が佐賀にやられた。射抜く、そういう目をしていた。
「俺は絵師だぜ。絵を描いてる」
「質問を聞いてましたか」
「ああ、聞いてた。そして俺は、絵を描いてるんだ」
「ワ、アユドゥーイン?」
「ヤーアイムドゥローインナウ」
「英語も通じないみたいですね」
「悪いね、芸術家は話が通じないんだ」
「それは納得です」
女は口先で話しながら、手元ではマウスを操作している。
「でも私が訊いているのは、なんでここに居るんですか、ということです」
「ああ、だろうね」
佐賀は、昨日の昼からあの席でずっと浮世絵の本を読んでいたこと、読んでいると眠くなってきたこと、閉館も近く人も疎らになったのでパイプ椅子を並べて寝始めたら、次に目を覚ましたのは真っ暗な深夜だったこと、少し肌寒いから新聞紙を掛け布団にしたことを女に話した。
「それで、ここで寝泊まりした、と」
女はペタ、とラベルを張るようにしてそう言った。
「ああ、もう扉が閉まっていたからね」
「扉は開けておいたんですけどね」
「うん?」
佐賀はここで初めて、女が自分の予測の枠を越えたことを言ったなと思った。
「あなたが気持ちよさそうに寝ていたから起こさずに、そのかわり鍵はかけないでおいたんですよ。だからなんでまだここに居るのか、もう帰ってるだろうと思ってました」
女は眼鏡を外し、カタ、と机に置いた。
「もしかして、終電で寝ているサラリーマンを起こしてあげたときに、ブチ切れられた経験でもあるのかい」
「いえ、特に」
「ならよかった。そういうときは起こしてくれて構わないんだぜ。きっと感謝されるよ」
「覚えておきます」
メガネを外した女は姿勢を正し、上半身をひねってストレッチをする。肩にかかる程度の髪は雉の尾のように後ろでまとめられており、化粧は薄く、アイロンのかけられたカッターシャツは清美な白さ。
その襟元と雉の尾との間に見える小さくて綺麗なうなじ。どうも、彼女には見えない黄金比が成立していて、しかもその黄金比はとてもシンプルな整数比で表すことができて、つまり何が言いたいのかと言うと、彼女は凄く透明な美人なのである。
「まあ、おかげで普段無いような経験が出来たのは事実さ。その意味では君に感謝しないといけない」
「いえ、お気持ちだけで結構です」
ストレッチをしながら、誘いともとれる佐賀の発言を軽くはたき落とす彼女。頭の良い女性だとも佐賀は思った。
「バイダウェイ、ハヴユーエヴァーゴーントゥスタディンガブロード?」
さっきの英語の発音は、英語圏で留学でもしないとそうそう身につかないものだと佐賀は思っていた、だから気になってそんなことを訊いたんだ、という風にする佐賀。
「いえ、留学と言えば中学生のころ一週間ホームステイしたくらいです。ミシシッピのホストファミリーのところで」
女は言いながらバッグを開き、何かを両手でワシ、と掴んでカウンターの机に置いた。種類の違う、十部くらいの新聞が綺麗に重なっていた。
「なるほど、君は天才というわけだ。一週間で英語をマスターするとは」
いえ、と女は言いつつ、席を立ってカウンターを出た。佐賀はそれを目で追う。
「中学生の頃は、英語で自己紹介するのがやっとです。でも誰だって大学まで十年も勉強すれば、ある程度は普通に喋れるようになると思いますけど」
女が歩いて行ったのは、十個ほどの新聞が洗濯物のタオルのように干されているコーナーだった。佐賀は昨夜そこから一つ拝借したため、一つだけ何も挟まれていない新聞ばさみがある。
「それを天才と言うんだぜ。ある程度とか、普通っていうことが、他者からすれば常軌を逸している」
女は「ありがとうございます」と言って、十個ほどの新聞ばさみを外して次々に新聞を回収する。
「なかなか大変そうだね」
「ええ、大変じゃない仕事はありません」
「残業があったとは」
「残業のない仕事もありません」
「俺は大変も残業もない絵師なんだが」
「じゃあそれは仕事じゃないと思います」
十個ほどの新聞を手に、十本ほどの新聞ばさみを胸に抱えて、女はカウンターへ戻って来る。
「手伝おうか」
佐賀は席を立とうと前傾姿勢になる。
「いえ、これは私の仕事なので」
「でも、残業なら給料は出ないんだろう」
「ええ、残業に給料は出ませんから」
「じゃあ、給料が出ないものを仕事とは呼べないな。つまりそれは君の仕事ではないかもしれない」
「どういうことですか?」
「俺の仕事かもしれないってことさ」
カウンターに座った女は、作業を始めようとする手元を止め、佐賀をチラ、と見た。感じ方によっては、睨まれた、そんな風にも見えた。
「否定はできませんね」
女は佐賀に新聞ばさみを三つ渡した。
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