2022年度・九州大学文藝部・学祭号

九大文芸部

翼持たぬ鳥は謳う  作:クラリオン

 

 遙か前方まで広がる視界。細かく観ていけば丘があり、森もあり、決して平坦とは言えない場所ではある。そうでなければこんなところで拮抗した戦線など作る事は出来ないか、と平下は心の中で呟いた。


 無理を言って前方陣地まで連れてきてもらった甲斐はあった、と彼は地図の割当符号と実際の景色を脳内で照合していく。実地に足を運んで見る景色は、上から見るものとも模型や地図で見るものとも違うものだ。次からはより簡潔な誘導が出来るだろうと検討しつつ、次いで敵陣の方へ双眼鏡を向けた。


少なくとも今のところ、敵陣に目立った動きは見られない。そうでなくては困ると平下が気付いたのは双眼鏡を覗いた後だった。




「どうかされましたか、大尉」


「いや、何でもない。しかし、今日も静かだな」




 彼が首を振った事に目敏く気付いた神垣陸軍曹長が声をかけてくる。平下は、それにもう一度首を振って否定の意を告げ、言葉を続けた。




「私としてはありがたい事ではあるが」


「先週の砲撃がずっと続いては流石に私らでも生きた心地はしませんよ。先週末に叩いた損害を回復できていないのかもしれませんね」




 ありがたい事です。そう笑う神垣は、彼の護衛と案内を任されていた。この戦線を支える部隊の中でも熟練の人員が、彼には割かれていた。部隊が彼、平下『空軍』大尉を──正確には彼によって齎されるものを、重要視している事の表れであった。




「しかしありがたがってばかりも居られないだろう、というのは釈迦に説法か」


「ええ、相手がどうであれ常に最悪の想定はすべきですから。司令部からも別途指示が出ているわけでもないので警戒態勢は維持されたままです。また攻勢の兆候が見られた場合は、大尉にもご協力をお願いする事になるかと」


「そうだな、その時は全力を尽くそう」




 先週の制圧砲撃を始まりとする敵軍の攻勢は撃退する事に成功していた。これは先週が初めての事ではなく、そしてこの地域だけの事では無かった。


 現在北米を縦断する形で設けられている前線の各所で、こういった小競り合いが生起している。日本側から仕掛ける事は滅多にない。それだけの余力が残されていないからだ。同盟国たる英米の助力による工業力・技術の大幅な成長があったとはいえ、国そのものを呑み込んだ独逸との差はかなり大きい。その為、単純な陸戦で日本が独逸に対し全体的な優勢を取れた事はない。


 それを補うのが空軍による直接協同だった。先次大戦後期に生起した英本土上空航空戦において辛勝を収めたものの、海軍の拡張によって被った損害の補填が充分ではない独空軍に対して、開戦以来損害らしい損害を受けていない帝國空軍は常に航空優勢を保つ事に成功している。


 独逸軍が限定的な攻勢をかけ、日本空陸軍が其れを撃退するも反攻するだけの戦力が無い為、戦線は維持される。そういった状況が、数ヶ月に渡って続いているのが北米正面の現状だった。




「そろそろ戻ろうか」








 帝国統合航空軍、戦術航空団選抜北米派遣隊、前線派遣陸上航空管制官。それが平下空軍大尉の現在の役職だ。


 陸海軍基地航空隊の統合による空軍の誕生から暫くの時間が経ち、関連技術の急速な進歩と担当人員の消失も相まって、今や直接協同は陸軍にとっての専門外の事項と成り果てた。


 その穴を埋めるのが前線派遣陸上航空管制官である。派遣管制官とも呼ばれる彼らは主に直協任務経験者で構成され、派遣された先の陸軍部隊と適宜連携し、前線部隊と航空隊の橋渡しを行う事を主任務としている。何らかの理由で空中勤務から外された後に帰国する前の数ヶ月の着任を命じられる場合も多い。


 航空直協を必要とするような場所は必然的に最前線である。したがって派遣管制官の死亡率も相応に高くなる。








 そういえば、と塹壕の中、先導する神垣は思い出したように切り出した。




「平下大尉は、志願して此方にいらっしゃったとか」


「やはり珍しいか?」


「ええ、前の方からは滅多にいないというように聞いております」


「まあ、大体の人は本土に早く戻りたがるからな」


「大尉はそうではなかった、と?」




 神垣の問いかけに、さてどう答えたものか、と平下は頭を悩ませた。


 平下は、内地に決して戻りたくないわけではなかった。空軍における職場は何も空の上だけではない。最早操縦桿を握る事の出来なくなった身と言えど出来る事は多い。それは良く知っていた。




「──いくつか、理由はあるが。勿論内地に戻りたくなかったわけではないが、端的に言うならば、空の近くに居たかった、が答えになるだろうか」


「それは、死亡率が高い、というリスクを背負ってでも、でしょうか?」


「少なくとも私にとってはそうだった──ああ、案内ありがとう」




 問答をしている間に彼らは陣地に到着した。








今にも瞼が落ちてきそうな、眠い目を擦る。手を引く父親の背中。湿ったような空気の漂う郊外の飛行場。轟音。朝靄を切り裂く人工の翼。断片的な記憶を源とする憧れを胸に、平下は恐らく当時最短で其れを叶えられるであろう、軍人の道を選んだ。空軍を選んだのは、少しでも空に関する職に就く確率を上げたかったからだった。


 軍においては、思うように自由に飛ばせるわけではなかった。軍における飛行機は武器であり、軍における彼は武器を操る為の駒、武器の部品に等しい。命令通りに動いてもらわねば困るのだ。しかしながら少なくとも翼を自分の意志の通りに操る事が出来るという現実は彼を多少なりとも満足させた。


 故に彼は、その最後の飛行における負傷も甘んじて受け入れた。此方も彼方も兵士であり、互いに殺す気で居る。その中で平下は、死力を尽くし、勝利と生とを獲得したのだ。


 唯一気に入らなかったのは、傷のうち特に重かった一つが腕に位置しており、処置の遅れから後遺症が残り、空中任務不適格とされた事であった。








「空中任務での負傷後、提示された選択肢は三つだった。本土に戻るか、地上勤務で残るか、派遣管制官か。その中で、一番空を感じる事が出来そうだったのが管制官だった」




 平下の怪我は航空機の操縦について不適格とされるものだった。故に他の任務をこなす事は可能だ。勿論、戦功を手に内地へ戻り昇進を狙うのも手の一つであった。派遣管制官が提示されているのは慣例に等しく、自らそれを選ぶ人は少ない。


 その中で、平下は敢えて自ら前線へ赴く道を選んだ。




「まあ、未練に近いが」




 今の平下にとって、航空機とは翼であり、兵器であった。それはあるいは軍人としての教育を受けた中での一種の刷り込みであったのかもしれないし、軍人として異国の空で戦い続けてきた故に心情が変化したのかもしれなかった。今の彼は、自身の意志に呼応し、素早く、鋭く、かつて憧れたように空を切り裂くように飛び、鉄火を吐く鋼鉄の翼こそが、自身の翼であると、そう信じている。




「実際に着任してみて、如何でしたか?」


「分かっていた事ではあったが、真似事でしかなかった。あるいは振り切るにはちょうど良い機会かもしれない……ああいや、不謹慎過ぎたな。悪かった」




 自らの手で、味方の航空機を誘導する。かつて自分自身が誘導を受けたときのように。それはあくまでも飛ぶ真似事、妄想でしかなかった、というのが率直な感想だった。それでも、地上勤務に移ったり、直ぐに本土に戻ったりするよりは、自身の翼に諦めが付くような気もしていた。


 自身が翼を誇りとしているのであれば話は別だっただろうと平下は思った。同時に、志願する人間が少ない理由も分かった気がした。翼を持ち、それを誇りとしていた人間が辿り着くには、此処は余りにも残酷で、あるいは惨め過ぎる。


 その気付きを心の内に仕舞い込み、平下は謝罪した。命のやり取りをしている相手に、良い機会などとは巫山戯た物言いである事を自覚したからだ。




「別に、構いやしませんよ。ああ、いえ、これは私個人の善し悪しの話ではあるんですがね」




 謝罪に、少なくとも表面上は明るい口調で、笑って神垣は告げた。




「確かに、まあ此処は我々が本命の戦場ですが、同時に空軍の支援が無ければ維持出来ないのも事実です。だからというわけでも……いえ、分かりにくいですね。我々陸軍も大尉殿方空軍も、まあ同じ旗の下戦っています。ただ、戦う理由だとか、気力の源だとかまで同じである必要はないわけです。私の指揮下の人員もそうです」




 故郷を守る為、家族を守る為、命令だから、給金の為、故郷を奪還する為、焼き払われた故郷と家族の仇を取る為、と神垣は指を折って理由を挙げていく。雑談がてらに聞き出したという理由は、確かに様々だった。聞こえる限りでは、神垣の指揮下には英国か米国東海岸の出身者まで含まれているらしいと平下は推測した。




「理由は違っても、勿論彼らは兵士として忠実に役割を果たしてくれます。例えば仇を取りたいからと無益に苦痛を与える事もありません。ですから軍は彼らに理由を求める事もありません。彼らの働きが軍や国の利益と一致する限りは。ええ、なので私もそういう心づもりで居ます」


「つまり」




 神垣の真意が分かった平下はそれを拾った事を行動で示すべく口を開いた。




「軍人としての役割を果たしてくれるならば理由に文句など付けない、と、そう言いたいのか」


「ええ、そうなります。勿論私個人としてはですから、例えば仇討ちを戦う理由としている部下には仰有らない方が良いかと」


「忠告ありがとう、肝に銘じておこう、どちらとも」


「よろしくお願いします。自分はこれで失礼します。外に部下がいるので、何かある場合や緊急時には其奴を頼ってください」




 再度感謝を告げて、神垣を見送った後、軽く背を反らし伸びをした。と同時に先程までの会話を思い返した。


 神垣と言葉を交わした時に、「分かっていた事だった」と告げた自分に、心のうちで平下は驚くと同時に納得していた。真似事でしかないと分かった時に、彼自身が思ったよりも落胆の気持ちが薄かった為だ。あるいは志願した時から、心の内では分かっていた事かもしれなかった。


 ならば安心だと平下は思った。真似事だと分かっていてなお志願したという事は、自身の望む物は、翼ではなく、空そのものだったという事だからだ。


実のところ平下は戦後を恐れていた。戦後の平和な世界へ、自分が適合できるかどうかを恐れていた。かつて操縦桿を握っていた頃の世界とは何もかも違う世界を恐れていた。軍に飛び込む時、平下は、空、翼への憧れを柱として其処を生き抜いた。しかし今の平下は翼を失っている。自分の信じる、鋼鉄の翼を失っている。


故に、空の憧れが残っているのであれば。戦場で歪み、鋼鉄の翼を失った人間でも、それを柱に平穏な社会で生きていけるだろうとそう思ったのだ。後は、此処で生き延びるだけで良い。


 その為に、すべき事は多くある、と彼は簡易的な机の上に広げた地図に顔を向けた。今先程までの下見をどれだけ活かせるかは、平下自身にかかっている。貴重な時間を割いて案内までして貰ったものを仕事に反映させるべく、彼は得た情報を猛烈な勢いで、しかし丁寧に書き込み始めた。








 陣地から出たところで、神垣曹長は、少し慣れない事をしたなと思った。人を励ますというのは彼にとってはあまり得意な事ではないし、好きな事でもなかった。戦場において励ましは何の役にも立たない事であるし、そして励ます相手というのは大抵、死に際の人間だからだ。


 しかし、それで空軍の動きが少しでも的確になってくれるのであれば、骨を折っただけの甲斐はあるだろうと思った。そうではなかったとしても良い気分転換ではあった、と彼は感じた。その程度の好評価を、平下空軍大尉には抱いていた。


 同時に神垣は恨みと憎しみの感情を理由として戦っていないという点において、彼を羨んでいた。素晴らしい事だ、と神垣は思う。あのように綺麗に、真っ直ぐに生きられそうにはないという自覚が彼にはあった。




「曹長殿」


「なんだ?」


「中隊長がお呼びです」


「分かった、直ぐ行こう。管制官殿は呼ばれているか?」


「いえ、曹長殿だけでした」




 部下からの呼びかけに、仕事をせねばならない、と神垣は深呼吸を挟み、意識を切り替え早足で歩き出した。時間は無限ではない。限られた時間と戦力の中で、少しでも敵に打撃を与えなくては、勝てる戦争にも勝てない。取れるはずの仇も取れやしない。




「失礼します、平下曹長です」




 彼は平下との会話に一つ嘘を混ぜていた。開戦劈頭、反応弾頭で焼き払われた家族と故郷の仇を取る為に戦争に身を投じているのは、神垣の部下ではない。神垣自身だった。



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