010
夜空に浮かぶ時計の裏側、機械室には猫を愛でながら喋り続ける依頼人が居た。腕の中には、彼に体重を預けた猫が虚ろな瞳で眠りに抗う。彼は、ニアへ向けて話しているのではない。
端末の先で頑なに反応しようとしない相手へ、呆れたように言葉を投げる。
「返事くらいしてくれても良いんじゃない? 君の
反抗期の彼に世間話を披露し続けるのも飽きていた。年甲斐もなく、なんて陳腐な台詞は相応しくない。お伽噺の登場人物を相手にしていたとしても、依頼人は管理者側だ。役を演じなくなった道化を、引き摺り出す話題を選ぶ。
「このままだと駄目になっちゃうかな?」
代わりが壊れるのは、共通の不安事項。代理を完璧な人形に仕立て上げるのは難しい。完璧の定義を築き上げてしまった王と比較すれば、どうしようもなく劣ってしまう。残影の振りをして、誰よりも色濃い闇を背負っている男が口を開いた。
『お前ね』
「お、やーっと話してくれた」
『何です。簡潔に』
王冠を白煙に預けた彼は、組織との接触を極力断っている。
自我を持った道化は役を降りたがり、贄を捧げる事で席を外した。縋る先は機能出来ていれば、何でも構わない。新しい人形でも、古い人形でも、与えられた役を演じ切る事が出来るなら、何でも。
王と比べて不安定な煙の火を見つけたのは彼で、囲っているのは依頼人だ。
「代理、任務外で人を殺したよ」
白煙への任務は“スパイをひとり持ち帰る事”だった。
『……
「君に合わせて言葉を選んだだけだよ? 君が一番わかっているだろう?」
溜息すらも、聞かせまいとしているのだろう。心の機微を掬い上げて、寄り添おうと手を伸ばしても拒否の姿勢を崩さない。そんな行為すら、染み付いた仮面の残骸だというのに。
「責任問題……。これって、どっちのだろう?」
上げた語尾に挑発を含める。彼がそれを拾う事も、拾わされていると理解していながら、見て見ぬ振りが出来ない事も。全部が演出で遊びの延長だ。
『俺だって?』
「あはは、怖いな。そんなに低い声で威圧されたら、震えあがってしまう。あ、それと、貴方だったら考えられないでしょうけど、目撃者をひとり生かしてるんだよね」
『は?』
「加えて、俺に『ちゃんと変装できてるか』って確認してきたんだよ。っはは、笑っちゃうよね! 出来てなかったら外に出さないよ」
けらりと笑い声を聞かせても、通話先の研がれた視線は衰えを知らない。
『見てなかったんですか?』
「それ、君が言う? 毎秒アレを見てたら、ヤバいだろ」
『貴方はずっとヤバいほうですけど。それで、どうしたんです?』
「どうもしてないよ?」
『何故。見られた、かもしれないんでしょう? “かも”なんて不確定要素、嫌いでしょ』
「大丈夫な子なんだ」
『同業?』
「君らは、ね」
音に乗った舌打ちが、彼の余裕を剥いだ証明になる。当たり前のように使われる敬語も、彼が無意識に王の席に腰掛ける仕草のようだった。濡れた雨が乾いても、彼がまた雨に打たれるのを依頼人は知っている。二度と濡れないなんて事、不可能だ。
『何も言ってなかったよ』
「あはは、何も聞いてないからじゃない? 担当、六班だったの? 楽しかった?」
『いや、本人から連絡があったので』
「へえ。そっちは、ちゃんと見てるんだ。でも、何も言ってなかったんだろう?」
無意識に意味を求めてしまう彼は、空回る捜査の時間も愛せたのだろうか。平凡を気取った相手を煽っても、答えは無い。
沈黙は解だ。それを、彼も
『どうするつもりです?』
「アレはね、嫌なんだって。魅力的で、俺は興味あるんだけど」
『意思を尊重してるんですか?』
「どっちでも? 珍しい事だからね、片隅に置いてるだけ。でも、貴方の選択と同じ事を、任務と課すよ」
心情を声に乗せない彼を、依頼人は気に入っていた。否、今も尚。贔屓の人形は壊れた今も、依頼人を高揚させるのだ。
悟らせないよう自然を演じながら、不自然な空白を生み出す彼こそが道化師といえよう。
「どうにかしてくださいね。こちらが対応すれば、貴方が戻る事になります」
返答も無く切られた通話すら愛らしい。彼の我儘を身勝手だと批判する層もあるが、いくら足掻こうと従順な王が逃げられる筋書きは書かれていない。贔屓の人形に手を叩かれるのも、一種の場面転換と言った所だろう。
弄ばれ、弄ぶ。そんな駆け引きに翻弄される振りも一興だ。
「ご主人、そーいうの『悪趣味』って言うんじゃないの?」
「あれ。どこでそんな言葉を覚えてきちゃったの。それに、こうして君を飼っているんだから、趣味は良いと言えるだろ?」
依頼人の胸に掌をついて、身体を持ち上げたニアは悲しげに呟く。
「グレイ、かわいそうだよ」
「はは、可哀相か。あれは、最初からそれを背負っている
彼女が持つ好意を、グレイが理解する事はないだろう。アレにそれを与えた事は一度も無い。自らに降りかかる事象だと、理解していないのだ。
「ニアは?」
「君は“逃げるが勝ち”だから。戦闘をやらせるには弱すぎる。でも速いだろう? それに可愛い! だから、近くに置いている。納得のいく理由だ!」
「くるしい! やーだ!」
「こうして俺に抱き締められる温もりをニアは知っているから、グレイが可哀相に思えるんだろう。でもね、最初から知りもしない温かさを、アレが求める事は無いよ」
「グレイは知らないの? ニアが抱き締めても?」
「それを教えるのは酷だ。望んでない、求めていない事を良かれと思って与えるのは、君の自己満足に過ぎない。物には、使い道が決まっているからね。アレを抱き締めるくらいなら、俺を抱き締めていてよ。君は、俺のなんだからさ」
求められた猫は、強く依頼人を抱き締め返す。
彼女へ存在理由を与えて、戯れに奪ってしまえる脆さも含めて、猫を気に入っていた。逃げてしまっても、自分の元に帰るしかないニアがいじらしくて可愛いのだ。猫耳をつけた人間の失敗作だとしても、可愛いを理由に生きている陰だった。
「さぁ、白煙に任務を課そう。それがあの子の生きる意味だ」
彼には、辻褄を合わせて貰う。
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