007
ナイフには赤が滴る。降り続ける雨に紛れるように、グレイはその場で空を切って赤を振り落とす。
息が止まった肉片は陰の処理。グレイの任務は此処までだ。そしてまた次へと向かう。変わらない日常をグレイは繰り返していた。
肺に送った空気を短く吐き、傍に控えた陰へと問い掛ける。
「お前、鼻でニアのこと探せないの?」
「俺は耳を使ってんの!
吠える陰が居ても、居なくても、グレイにとっては変わらない。
白煙の存在も、代わりは幾らでもあるだろう。だがそれは最悪の想定だ。
キング不在。この現実が既に最悪に近い。
――超えようとしなければ。
依頼人がそう望むなら、グレイは従うまでだ。
騒いでいた陰が静まり、雨音が聴こえる。傘が必要無いのは、時間に追われているからだ。RAINを包み、地面に落ちる雨の音。その全てが、朝へのタイムリミットにさえ聞こえる。グレイに課せられている任務は終わっていないのだ。
黙った影は大人しい。耳に入れていなかった彼の言葉が途絶えた時、グレイは無意識に彼の声へ耳を傾けていた事に気付く。
彼を見ると、陰は冷たくグレイを見ていた。すぐに柔いだ表情を見せた彼は、口を開くと真実を語るように言う。
「違うな。
「だから?」
――何が言いたい。
まるで遠くを見るような、距離のある視線の正体だ。そうグレイは感じ取る。
「人の願望が詰まった怪物だ。だからこそ、キングの席に座る価値がある」
必要の無い感情を
――――――――
光が漏れていた。暗くなった廊下は影が落ちる。六班の扉から漏れた灯りは、グレイを待つようだった。
――ルークではないな。
そう判断したグレイは正しい。六班の扉を開いた先に居たのは、アレックスだ。
「おかえり」
細められた瞳と視線を交わし、グレイは「うん」とだけ答える。片手で制服を脱ぎながら、仕込んだ備品を雑にデスクへと落とす。
その間も送られ続けたわざとらしい視線に、グレイは渋々反応した。
「何?」
「どう? 最近」
「どうって……。何が」
「
アレックスの『全部』を意味する声がグレイの耳に入るのは、本当に久しぶりの事だ。
手を止めたグレイは、部屋の内側と外側に気配を探る。第一にルークが居ない事を。第二にそれ以外の人間が近くに居ない事を確認した。アレックスがグレイに声を掛けて来た時点で六班付近に
ふたりの会話は、Kie shadeでも限られた陰しか聞く事は許されないのだ。
「……戻って来る?」
「バカ? 戻るわけ無いだろ」
「じゃあ何。なんで手を組むような事してたの。ルークに僕の手綱を握るよう言ったのは、アルだろ。なんで今更、ルークの逮捕に加担したんだ」
あの日。グレイを試していたのは依頼人に限らなかった。
『依頼人が情報を制限し、アレックスが場を掌握するのを防いでいたのでは』というグレイの解は、不正解と言っていい。そうグレイに思わせようとしたのは依頼人か、あるいは玉座を降りた王様か。
「なんで、ばっかりだな」
「先に、こちらの近況を聞いたのはアルだ」
眉を下げたアレックスに、グレイはぴしゃりと言い返す。困った顔も作品に思えてしまうのは、グレイが彼の芝居を判別する術を持ち合わせていないからだ。
大袈裟な溜息と共に、押し潰したような声を長く吐いたアレックスは、一呼吸して言った。
「――俺は知ってたわけ。あの日の、お前の任務内容を。何もしなければ、お前とルークがかち合って、どうなるかくらいは分かるよな? だから“協力”した。ただ丁度良かっただけだ。お前には悪いけど」
座っているアレックスを見下ろしているのは、グレイの筈だ。それでも、グレイはアレックスの冷たい眼に見下ろされているようだった。彼が持つ冷酷さは、姿と声に詰め込まれ、纏う鋭い空気は王の風格そのものだ。
『超える事も、並び立つ事も許されていない』
そんな威圧を一瞬でグレイに浴びせるアレックスは、以前の王冠を被り続けてそこに在る。後継ぎへ理不尽を与える存在が、いつまでも君臨し続けていた。
「拗ねてんの? 悪いな、とは思ってるって」
返事をしないグレイに、アレックスは様子を探る。その言葉を幾度となく聞いても、グレイが感じる事は変わらない。
「拗ねてない。悪いだなんて、思ってない癖に言うなよ」
「あはは! 言うだけマシだろう? 俺の為に、ごめんな。――
笑い飛ばした後、同情するようにアレックスは言った。気持ちを傾けた相手はグレイなのか、以前の自分なのか。同じ場所に立っていた先輩は、グレイを通して過去の自分を見つめるのだ。
「僕の一日の体感は、最初からこうだから。生かして貰って、文句言ったりしてないでしょ」
グレイがそう返すと、アレックスは語気を強めて言った。
「無理に生かしたんだ。お前の為じゃない、俺の為」
「何度も聞いたよ」
「何度でも言うさ。……俺の、罪の証拠だ」
彼が望まない場所に、グレイはずっと立ち続けている。白煙が此処に存在し続ける限り、彼は少しの自由を手に入れるだろう。満たされない自由に苛まれるのは、グレイへ役を押し付けた罪悪感からなのだろうか。
揺れる瞳はアレックスに似合わない。ずしりと重い意志を持った王は、常に堂々たるべきなのだ。それを誰が決めたのかも、グレイは知らない。アレックスに課せられた責というものなのだろう。
アレックスを苦しめるのも、救うのも、グレイという存在だ。
――そんな目で見るくらいなら、消してしまうか、遠くへ置けばいいのに。
苦しく切なく、申し訳なさそうな瞳の正体が演技と言われても動じない程、彼のそれは格別だ。
――今この場面で、芝居をする必要も無いか。
道化として求められた役を演じ続けた結果、彼は自我を芽生えさせたかのように任務から手を引いた。
いつかの高級紙のように、浸るほど濡れた王は役を降りたのだ。もう演じる必要は無い。
『贔屓にしていた人形が壊れてしまった』
そう言ってキングと白煙を入れ替えた依頼人は、未だにアレックスを監視下に置いている。大切な物を見失わないように、目を逸らさないように。彼を手放す気が無いのは、外から見ても分かる事だった。
「この後、行くんだろう?」
「うん。受取っていうか、雑用に近いけど」
「違うよ。
――そっちじゃなければ、何なんだ。
グレイが軽く首を傾げると、アレックスはもうひとりの名前を呼んで解を示す。
「ルーク」
「あぁ。――行かないよ。行く必要無い気がするんだ」
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