005

 密やかに歩みを進める白煙は、揺れる窓越しに教会を視界へ入れる。此処はValenteヴァレンテの名を与える孤児院で、ルークの育った場所だ。


 真下へ落ちない雨粒は、風に乗って地面へ還る。裾の長いロングコートも視界を狭める仮面も、室内へ侵入してしまえば大したことのない装備に切り替わるのだ。

 窓に残る一滴を目で追う暇もなく、グレイは木造の建物に足された電子キーを容易に解除して対象者の部屋へと侵入した。


 ――スパイ容疑。孤児院でシスターを担いながら、情報を売り捌く女。

 

 医師から聞いた価値を考えれば、情報は多大な利益に変換されるのだろう。彼女が此処の子供だけに関心を持っているならば、このめいくだらない筈だった。

 依頼人が危惧するのは、いつだって世界への影響だ。先を読んで全体を見るのはグレイの役ではない。

 

 暗く狭い寝室は、仮住まいと呼ぶには物に溢れている。部屋の随所に置かれる絵や折り紙が、此処が孤児院の一部なのだと主張するようだった。


 ――眠る彼女の息を止める。


 それが白煙に課された任務のひとつ。


 グレイは手動拳銃の引き金を引き、無音で足を狙う。貫いた痛みを得て覚醒した女に、グレイは失望と同情の感情を得る。

 奇襲へ備えた武器の不足さ。足を撃たれて移動困難に陥る始末。反射速度の劣り様。護衛用に備えられた短刀は、此処の生活に慣れ親しみ過ぎた罪を物語っていた。


 ――此処は、こんなに生温なまぬるいのか。


 睨む女の瞳には、抵抗と動揺の色が映る。それを構いもせずベッドへ飛び乗ったグレイは、残った片足へ銃弾を撃ち込んだ。

 流石に訓練を仕込まれているのだろうか、寝起きの奇襲でなければもう少し動けたのだろうか。グレイを睨んだ瞳は、戦いを知る光が宿る。


 肉体が抉られるような反撃で、グレイは白煙が呼ばれた意図を察した。刃物で切り裂かれる肌も、この身体では血が流れるきっかけにしかならない。

 グレイが護りの選択を消すのは早かった。近接戦用のナイフを取り出し、対象を覆うように上からの攻撃を繰り返す。染みる赤は対象のモノだろう。己の身体からもと意図せず血が落ちていく。


 ――命を奪い切る前に。


 依頼人より課された確認事項を、グレイは女に問う。


 

「忠誠心、有りますか?」


 

 変声器を通した声は、機械がかった音の組み合わせ。手足の動きを圧しながらの問いに、震える程の力を込めながら対象は「……っ、は?」と眉をひそめる。

 

「だから、何に忠誠を誓っていますか? 貴女、仮にも此処でシスターの役をやってるんでしょう」

「……神とでも答えろと?」


 絞り出したような声は憎悪を含む。それは神への憎しみか、目の前で動きを封じる侵入者への悪意か、グレイは判別できなかった。する必要もないだろうと判断した脳は、確実に女を抑え込むよう腕力を加える。

 抵抗は衰えず、女が相応の訓練を受けている事の証明を続けていた。


「まさか。寝返る気は無いか、という意図の質問ですよ」

「裏切り行為だ」

「私が現れるまで、穏やかな愛になびいていたのでは? 触れるもの全てがRAIN我が国の所有物で、さぞお辛いでしょう。誇り高く、我が国へ寵愛を向けられるようになりますよ。如何いかがです?」


 自分の台詞にも拘わらず、言葉の全てがグレイにとって“不快な雑音”に判別される。

 機械音は確実に対象の心を揺さぶって、甘い言葉を吐く。口元から誘惑が漏れ、相手は煙に巻かれたように思考が鈍る。相手が求めている物を提示して見せれば、大義と現在は天秤にかけられるのだ。

 そうして、彼女はきつく白煙を捉えながら瞳をかすかに揺らす。暗闇の中で震える睫毛も、グレイには鮮明に見えていた。


 わずかな沈黙を置いて、女は口を開く。



「……条件を」


 仮面の下で笑顔を作る必要は無い。それでも、にこりと微笑んだグレイは目の前のスパイに呆れていたのだろう。

 

「そうですか」


 単調な台詞だった。

 脆弱な忠誠心は、滅びに繋がる。白煙の任務は、まで。不必要だと知っていながらも対象を回収し、引き渡さなければならない。

 

 白煙が動いた数秒後、警報が孤児院に鳴り響く。

 まるで、子供達を夢から追い出すように。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る