003
別室へ案内されたルークは、白と黒を基調にしたチェス盤と向き合う。レコードが回るこの部屋は、落ち着いた時間が流れるようだった。
オーガストからチェスに誘われた時、『老紳士は覚えている』とルークは悟ったが、敢えて話題にはしない。あの夜のルークは、無力さに溺れていた。彼に問われて気付いた感情と、不甲斐なさ。弱っていた自分の心を透かされたようで、良い思い出ではないからだ。
駒を進めて少し経った時、オーガストが口を開いた。
「秘密を持つ事にしたんだね。思った通りの良い子だ」
ルークの駒を持つ手が少し揺れた。そっと触れられた秘密は、彼との共有物だ。
――今思えば、湖での出来事をグレイへ伝えたって良かった。
何故か隠してしまった自分が、ずっとあの夜に閉じ込められている。彼と再会した事で、ルークの心に薄い白が霞むようだった。ルークの次の手が、返答と重ねてチェス盤にコトリと音を立てる。
「……どこが亡霊ですか」
「こんな老いぼれを、霊の
銀縁眼鏡の奥で薄められた瞳はあの夜と同じ。これが彼の笑い方だ。
「ロードに連れられて来るとは、思わなかったよ。これで、街でも顔見知りだな」
「どうして、あんな所に居たんです?」
「君、本当に下手だな。駒を取る事ばかり考えている」
ナイトを動かしたオーガストが「チェック」と宣言し、ルークは盤を見下ろすように前へ重心をかけた。
「こうして遊ぶと、君を近く感じるようだ。人を動かすよりも、自分が動くのを好むだろう。ほら、まだ手はあるから頑張りなさい」
「考えてますから……」
逆転の動きを探すルークは、頭を巡らせる。確かに、誰かを動かし配置するより、自分の足を動かす方が良い。性に合っているのだ。
――きっとそれは、グレイも同じだ。
彼も自分と同じ。だからグレイは単独行動を好むし、一歩先に出る。そんな二人を動かすのを得意とするのは、アレックスだった。
「『どうして』と君は言うが、君こそ何をしていたんだ? 君はあそこで何も収穫しなかった。そうだろう」
挙げるなら、何も成果を得ていない自分を収穫しただろう。
『負けていい』とは言われたが、こうも呆気なく負けるのは悔しさがある。ルークが長考していると、オーガストは話を続けた。
「君は何も知らないまま、毎日を過ごしている。あの夜も、今も」
「……あの時も、そんな事をおっしゃっていましたね。私が何を知らない、と言うおつもりですか」
「人から与えられた情報を百パーセント正しいとしてるのかい? あの月は赤かったと言われたら、それを信じるのだろうか」
ルークが駒を置くと、オーガストは静かに笑う。「ダメそうだな。これは、仕切り直した方が良い」と言って、この盤は終了とされた。
あの夜の月は白だったと記憶している。彼の言う事を百パーセント正しいとしていたら、老紳士は月を見ていた只のご老人だ。
――疑わしい。何か分からないけれど、そう感じる。
身元がハッキリしていても、ルークにはあの深夜の出来事が怪しく見える。同時に『ずっと彼に揶揄われている』という事も、ルークは理解していた。
不服そうな表情を、ルークは隠さない。その顔を見て可笑しくなったのか、オーガストは肩を震わせて笑う。
「冗談だ、怒らないでくれ。
――なぁ、私が強くしてやろうか」
銀に光る眼鏡の奥で、オーガストの瞳がルークを貫く。回るレコードの音楽が、雨の音を遠ざけた。
「チェスの相手が欲しいだけでしょう」
「それもあるが、君は随分面白そうだからな。興味深いんだ」
「結構です。自分はたいして面白くありません」
「まぁまぁ、聞きなさい。私は、君に知識を得る
「自分は、コレにそこまで熱を上げてませんが」
「チェスだけの話じゃないさ。知りたいと思わないか? 私やRAINが隠す、この世界の秘密を」
――何を言ってる、この老人は。
不敬だと言われるような事も、口に出さなければ良い話。ルークの世界で、彼は自由だ。
「――秘密? 何故、国の話になるんです? 貴方が廃特区に居た事と、RAINや世界が繋がるとは思えません」
「思った通り、真っ直ぐな男だな。美しい物は好ましい」
「何が言いたいんです」
「隠された秘密に気付く事も、暴く事もしない。それが国民に植え付けられた習性。それを体現した君は、理想通りの国民
身に覚えがない事を羅列され、ルークは不快感を得た。煽られているような感覚を得るには、情報が足りない。
「興味があるなら、この国の違和感を拾い集めてみるといい。きっと、数えきれないほど当たり前に隠れているだろう」
――これは、何の提案だ。
この国の違和感とは何だ。チェスの相手をしただけで、どうして国や世界の話になった。何故、オーガスト伯爵はアンモラル廃特区に居た理由を
ルークの中に、疑問が溢れる。この男への警戒が増す。
「さぁ、どうする? 君が決めたまえ」
「私は――」
続きよりも先に、リンと音が鳴る。音の正体は、部屋への来訪者の合図音だった。扉が開かれると、ロードが無遠慮に入室し、チェス盤を覗き込んだ。
「時間ですよ、伯爵。どうです、勝ちました?」
「お前も彼とやってみたらどうだ。可愛くて、仕方なくなるぞ」
「それ、強いのと弱いの、どっちですか?」
「強くなりそう、という話だ」
――――――――
「なんだこれ」
お土産と称して渡された紙袋の中に、『
「……随分気に入られてしまったね」
「下手だから、じゃないですか?」
「気にしてんだ?
そう言ったロードは、ルークにある人物の名を告げた。
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