003


 数秒前まで目の前に居た男が、突然消えた


 「えっ」


 ルークは驚いて声を漏らす。今、彼の声を聞いた。その音が未だ耳に残っているのに。そこにグレイは居ないのだ。

 消えたグレイを探して、ルークはバッと辺りを見回す。雨、傘、人、芝生、傘、花壇――。居ない、筈が無かった。人間が煙のように消えるなんて、在る訳が無い。

 

 注意深く、彼を、彼だけを探す。制服を纏った灰色の髪、傘は無し。すると、傘の透き間に、病院入口の向こう側で走るグレイの姿が在った。


(移動、速すぎないか?)


 想定移動距離。その範囲外に、グレイは居た。ルークが戸惑いを感じるあいだにも、グレイは風のように走り続けて小さくなっていく。

 入口付近に集まる傘の隙間を縫うように走り、人を避け続けるグレイは不規則だ。目を離すと、また消えてしまいそうな程に。誰にもぶつからず、スピードも落とさずに走り続ける。


(追いかけるしかない)


 傘を消し、ルークは即座に走り出す。

 中庭を駆けて、正面入り口へ。正面建物のアーチ下には、雨を避ける人が集まっていた。それを抜けても、お気に入りの傘を差した人々が等間隔に道を塞ぐ。ルークは「すみません!」と人を掻き分けながら、グレイを追う。

 人を避け、衝突を防ぐように片手を前に進む。加えて、グレイの姿を見失わないように。だが、それらを同時に行なっていては、グレイに追いつける筈がないのだ。


「あー……、クッソ遠いじゃねえか!」


 彼は案外、口が悪い。文句を言おうとも、それでも走り続けてグレイを追い掛けるのが、ルークという男だ。


  ☂

 

 グレイが走った先は、病院の外にある交差点。病院から数えて二本奥の交差点は、病院入口まで来ればルークにも視認できるであろう距離だ。そこには女が居た。最短距離で交差点へ到着し、狼狽えるにグレイは声を掛ける。


「警察です」


 声を掛けられてハッとした彼女は“警官が事に気付かなかった”と察す。

 

「お願い! あの子を助けて!」

「わかりました」


 たったそれだけの遣り取りをして、グレイはを追う。

だ』と言ったグレイの視界に入っていたのは、母親の手から子供を奪い取る場面だった。


 子供は三歳程度。裕福そうな服装をした母親と手を繋ぎ、信号待ちをする親子に襲い掛かったのは、黒いバイクだ。目の前に停車し、女児を連れ去る速さから見て、常習犯。


 視界に入ってしまった。瞳に映ってしまった。

 ならば、グレイは追うしかないのだ。


(一連の誘拐事件と関連付けるなら、これで七人目)


 病院でグレイがあの件は、六人目の被害者だ。行方が判明しているのは、その一件のみ。

 警視庁前に、四肢を切断された状態で捨てられた遺体が六人目の被害者だった。


 おそらく、彼らと世間には『総力をあげて取り組んだ結果、奪還には成功しましたが、……残念な事に』とでも言ってあるのだろう。

 どれだけ『力を尽くした』と言われても、生きていなければ許せないのが“親”という物。グレイは、そう認識していた。


 バラバラの手足は、力を尽くして取り返した象徴ではない。囮捜査が察知されている。それを嘲笑う意だ。露骨な警察への敵対心、攻撃と警告。


(事実は、伏せられるものだ)


 舌打ち。

 これは、グレイの。


 直線距離で逃げるバイクの姿を確認できても、足で追いつくのは無理がある。走り続けるグレイは、ある物を見つけてブレーキを掛けるように立ち止まった。


 道端に停まった赤いバイクは、郵便配達員の物だ。鍵を挿したまま、エンジンは掛けっぱなし。屋根の下で届け先の亭主と笑い合い、愉快な話でもしているであろう彼は、暫くここに居ていいだろう。


 グレイは、赤いバイクそれに跨った。


 店の亭主が郵便配達員の肩を叩いて、バイクを指差す。バイクと言うより、バイクに跨るグレイを指差すと、グレイと彼らは目を合わせる。戸惑いの空気が流れる中で、グレイは何かを考えると「あぁ、なるほど」と口にした。

 バイクから降り、持ち主の元へ近付いて声を掛ける。


「どうも。これ、ちょっと借りて良い? ありがとう」


 微笑んだ警官は、郵便配達員が返事をするよりも先に礼を言う。許可していないし、貸せるわけがない。非常識を当たり前のように、そのまま押し通そうとする警官の存在を理解できない彼らは、思考が止まる。


「は……?」


『何言ってんだ、この警官』の言葉よりも先に、頭に乗せていたヘルメットは外されていた。


「すみません、後で返しますね。あ、問い合わせ先は、刑事部でお願いします」

「は!? いや勝手に何してんだ……って、おい!」


 気付けば、奪われたヘルメットは警官の頭の上だ。カチャ、と装着したのも一瞬。次の瞬間、グレイは走り出していた。赤いバイクとヘルメットを“心優しい郵便配達員”から貸して貰って。


 風に靡くは警察官の象徴。ケープマントは雨を跳ね返し、袖口から風を拾う。対して、赤いバイクは郵便配達員の象徴だ。その異様な組み合わせに、二度見をする歩行者と運転手が多数。その視線を利用して、グレイは人を制し、車を追い抜く。

 身体に打たれ続ける雨の痛みが気にならないのは、マントの防雨機能だけでなく、の影響が強い。


 拝借した赤いバイクを走らせながら、グレイは片手で無線を手に取り、口元に持つと液晶画面を上にスライドさせた。この無線は、上は全体、下はアレックスに繋がるシンプル設定となっている。


「六班、グレイ。警察病院近くにて、誘拐事件発生。犯人追跡中です。現在、時計塔したから南へ走行中。港を目指している模様」

『了解。グレイはそのまま追跡。ルークも一緒か?』

 

 無線を通して聞こえる声はアレックスだ。ふと、グレイは思い出す。そういえば。言われてみると。


「彼は、いません」


(いつの間にか居ない)


 その時ようやくグレイは、ルークの存在を思い出した。いつの間にか、ではなく“グレイが置いて来てしまった”が正解だ。


『六班。刑事部より数名が港で待機中。そのまま追跡してくれ』


 アレックスの声ではない、無線が入る。刑事部だ。


「了解。追跡続けます」


(待機済、か。となると予想通りの展開。この一件は、既に仕組まれている可能性が高い。『囮捜査』の再チャレンジか?)


 指示された通り、グレイは黒バイクを追う。港へ続く真っ直ぐな道は、大通りなだけあって交通量は多いが、遠くても対象を視認できる。加えて、向こうは子供を乗せている。途中で“落とす”ような真似もしないだろう、とグレイは推定した。


 といえば、グレイも乗せている。軽量化も可能だが、外すのに一度停車する必要がある。であれば、それは無しだ。重量やバイクの性能差を考えると、こちらが遅い。だが、足で走るよりマシだった。

 

 先の対象が、港手前の駐車場を通り過ぎる。


(やはり、バイクごと乗船するか)


 グレイの初動が幾ら速いと言っても、結構な距離がある。スピードを上げようとした所で、既に郵便配達員以上のスピードで走るバイクは、自己ベスト更新中だ。



《グレイ、何処へ向かってる?》


 無線ではない。軟骨のピアスが、グレイに問う。

 これは、警察ではない――からの連絡だ。

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