002

(怒られに行く、って。どうして分かるんだ)


 ルークが先輩の後を追うと、到着したのは警察病院だった。受付を素通りしたグレイは病室へ向かわず、地下へと真っ先に進む。


(お見舞い、でもないのか)


 沈黙を守る先輩は表情が読めない。明らかに友好的な上司とは違い、適切な距離を測られているようだった。曖昧な雰囲気を纏っていて、機嫌が良いのか、悪いのかもわからない。

 ルークより少し低い身長が、階段を静かに降りていく。色の目立たない灰髪が揺れても、光に反射することはない。スラっとした身体は鍛え上げているようには見えないが、動きに無駄はなく、軽やかさえ感じる。


 診察を待つ人の気配や、番号を呼ぶ院内放送が遠ざかった頃。


「何もしなくていい」


 振り返りもせずグレイが呟いた言葉を、ルークは聞き逃さなかった。


 コツコツと靴音が反響する廊下を歩み進めると、次第に誰かの泣き叫ぶ声が近くなる。暗く淀むような空気が漂う地下には、うずくまる女と立ち尽くす男が居た。泣き声が頭に響き、哀しみの匂いが身体へ移る。


 彼らと少し距離を取った場所でグレイが立ち止まり、ルークも足を止めた。


「この度は」


 グレイが言葉を発すと、男はこちらへ視線を向ける。朧げだった瞳が嘘のように歪んで、鋭く睨んだ眼光は激情を抱いていた。一歩を踏み出し、また一歩力強く踏み込む。感情を欠落させた姿は一瞬で、ずかずかと近寄って来た勢いを消さないままに、グレイを殴り飛ばした。


(っ、!?)


 半歩先に立っていた先輩が、ルークの視界から消える。隣に立っていた人間が、突然殴り飛ばされる衝撃を味わう事はあまり無いだろう。驚いて後ろを振り返れば、床に倒れ込んだ先輩が親指で口端を拭っていた。


 赤が滲む口元が視界に映り、ルークは動揺する。緊張と威圧に挟まれて、息をしているかも分からなくなる程、知らない空間。

 それでも、グレイは自分の手元から視線をずらし、ルークを見上げるのだ。


『何もしなくていい』と、そう告げるような瞳で。


 駆け寄ることも、声を発することも許されない。殴った男の荒い呼吸が、やけに耳に残る。

 

(次に殴られるのは自分ではないか)


 哀しみにまみれたような地下で、何も知らないルークはそんな考えを頭によぎらせた。


 横を素通りした男は、グレイの腰を踏み付けて胸倉を掴む。与えられた力をそのままに、グレイの上半身は床から離れて持ち上がる。そのまま、ぐらぐらとグレイを揺らす姿は、怒りの過熱を表すようだった。

 泣き声が聴こえる。女の泣き声とは別の、抑え苦しむような涙の気配。


(ああ、この人の泣き声だ)


 男が振り上げた拳と、腹の奥底から叫んだ怒声は、全てグレイにぶつけられた。


 止めに入る医師や看護師。それらを無視してグレイに掴み掛り、殴り続ける男。廊下に響き続ける女の泣き叫ぶ声。逃げもせず、抵抗もしない先輩。そして、何も出来ない自分。


(これが、俺の初仕事)


(地獄みたいだ)


 その時のルークは、そう思っていた。


  ☂


 病院の中庭に設置されたベンチで、グレイとルークは肩を並べて座る。先刻までの地獄が嘘のような、平和を感じる昼前の気候。水溜まりを覗き込む子供の声が中庭に響いて、何時いつの間にか雨も無い。久方振りに浴びる太陽の日差しだ。


「……大丈夫ですか?」

「え? うん。大丈夫だよ」


 顔にガーゼを貼り付けられた先輩は、痛がる素振りも見せずに答えた。

 

(さっきのは、なんだった?)

 

 地下に在ったのは、霊安室。あの廊下から見えた部屋の奥には、大人ではない大きさの死体が安置されていた。

 グレイを殴り続けたあの男性が、何度も口にしていた言葉。


『お前らの所為だ』

『なんであの子が』


 陽気な光の中で思い出すのは、負の言葉たち。恨みも、怒りも、苦しみも。全てグレイが一方的に暴力という形で受け止めたあの空間が、ルークにとっては衝撃だった。



「君こそ大丈夫?」


 台詞を返されたルークは、殴られ続けた人から出る言葉ではないのではと密かに思う。


「私は大丈夫ですが……。あの、なんであんな」

「囮捜査に失敗したらしいよ。あの二人の子供を囮にして、子供を犠牲にしてしまった」


「は? らしい?」


「うん。刑事部がね。これは彼らの代わりの仕事」

「代わり? えっ、刑事部の代わりに殴られたんですか?」

「んー、まぁそうかな?」

「は!? なんでですか!? な、納得いきません!」


 ルークの声が中庭に響き渡る。突然の声量に、木々へ潜んでいた鳥が一斉に飛び立ち、遊んでいた子供はこちらを凝視して立ち止まる。何かあったのかと様子を窺う看護師へ片手で『問題ない』と仕草を送ったグレイは、ルークを落ち着かせようとなだめた。

 

「静かに。さっき言ったじゃん、『面倒事は六班に』だよ」

「面倒事って。失敗したのは刑事部なんですよね? 犠牲になった子供の事も許せませんし、グレイさんだって、……痛かったでしょうに。どうしてそんな」

「さぁ。詳しくは知らない。でもほら、僕も警察官だし。大きな括りではあの人の言う『お前ら』の一員だろう。誰かはこうなる可能性があった。それを六班うちが請け負っただけ。……それに、これでは足りないんじゃないのかな。あの人たちの痛みは、おそらく」


 これでは足りない。そう指摘されて初めて、ルークは想像した。あの空間に居た二人の痛みを。グレイが受けた痛みを。

 あの地獄でルークは唯一、傍観者だったのだ。

 

 

 ぽつり、ぽつりと雨が降り出す。束の間の太陽は、既に隠されていた。中庭に居た子供たちが素早く屋根の下へ逃げ、アーチ状の建物の先にある病院入り口では色とりどりの傘が開き始める。


 雨が多いこの国は、警察官も傘を差す。

 ルークは、腰に備え付けてあった“15センチ程の持ち手”を取り出し、空に向かってスイッチを押す。すると、空気中に“雨だけ防げる傘”が投影された。もう一度スイッチを押せば“15センチ程の持ち手”に戻るこの傘は、非常時に傘が邪魔にならない仕様だ。


「行きますか」

「うん」


 こう降ってしまっては、雨の下ベンチに座る理由はない。ルークが移動を促すも、グレイは立ち上がるだけで傘を差す素振りを一向に見せず、呑気に伸びをする。


「……グレイさん、傘は?」

「持ってないよ」

 

「持ってないんですか?」

「うん」

 

「そうですか……。あ、入りますか?」

「いや、いいよ」

 

「濡れますよ」

「あんまり気にならないんだよね――、って。だ」


 何かを目視し、『』とグレイが言った瞬間。



 ルークの前に居たグレイは、消えていた。

 

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