明けの空を君は見たか

シウセ

第1話

1

 死んだら、あの雲の上から夜明けを見たい。

 夏の盛り、日の落ちた藍色の空の高いところを流れる雲を見上げて、そう願ったことがあるよ。

 ここにね、僕の書いた小説もどきがある。まだ学校に行っていた頃の話だね。君に読んでもらうような明るい話じゃないんだけど、文字書き崩れの絶筆みたいなものだと思って読んでくれないか。



 大人になれない。

 その言葉を聞いて、人はどんなことを想像するだろう。歳を重ねても心が幼稚なままの人間?それとも、何らかの理由で大人になる前に死んでしまう人間?

 残念なことに僕は後者だ。殊更残念でもないが。

 額を伝う汗が皮膚を離れて、スラックスの膝にぱた、ぱた、と落ちる。紺色の生地は雫を受けてより深い紺の円を描く。染みきらなかった汗は窓から注ぐ光をきらりと反射した。

 この学校の自慢だというパイプオルガンが鎮座する広い講堂の窓は、毎朝開け放たれている。今もその細長く切り取られた四角からこの季節を象徴する水色と立ち上がった白が覗いているのだろう。じわじわと蝉が鳴く声と敷地前の道路を走る車のエンジン音が耳を撫でる。下駄箱で引っ掛けてきただけの上履きのつま先とだらしなく床に触れる靴紐を見て、踵がまた潰れたままになっているな、とぼんやり思った。

 ですから、とよく通る教師の声に視線をのろのろと壇上まで引き上げる。壇上にはマイクを前にして微笑む、国語科の教師。

「病気もせず、健康に過ごすことのできる私たちは恵まれているのです。」

 それでは目を瞑って、と教師は言う。硬い木の椅子に背を預け、壇上に向けていた視線を初めから組んだままだった両手に向ける。目は閉じない。汗が目に染みて痛い。じわじわと鳴く蝉の声が遠くなったみたいだった。

 なら、僕は何か悪いことでもしたのですか。

 やり場のない怒りがちくりと胸を刺した。僕は有神論者じゃないから、怒る必要も無いというのに。祈りが終わる前に解いた手の甲で額の汗を拭った。


 

 

 読み終わった?取り留めもなくグダグダとしていてあんまり面白みは無いだろう。こういう人生だったんだ。君は日々、こういう朝のやりきれない感情にどうやって始末をつけているのかってそう聞いたことがあったよな?あなたとそう変わらないよ、と返された時には困ったよ。君も僕のように積もり積もって動けなくなっている、とでも?口からそう飛び出しそうになるのを、必死で飲み込んだ記憶がある。君は楽観的で、残酷だ。自覚を持った方がいい。その楽観的発言にどれだけ僕が救われ、残酷さにどれだけ打ちのめされたか君は知らないんだろう?酷い人だ。ほら、今もこうして僕が何を言っているか分からないと言ったふうに首を傾げてみせる。最高だよ、君は。ああ、君を困らせたい訳じゃないんだ。もうどうせ少しの命なんだ、優しく聞いてくれよ。

 夏は嫌い?僕はパキッとした空が好きなんだけど……好きでも嫌いでもない?これだから君は。いや、責めてなんかいないさ。君の事情は知ってるし、物事にはっきりとした好き嫌いをつけないのも君らしくていいよ。ともかくね、死んだ後の願いなんてそれだけさ。どんな風にしてくれたって構わない。どうにもできないって?それはそうだ。時々ね、君は僕の見ている幻なんだろうか、とも思うよ。そういえば、入院病棟ってのは案外騒がしいだろう?バイタルモニタなんか四六時中音が鳴ってるし、点滴も不具合が生じればすぐに大きな音を出すし、看護師は常にてんてこ舞いだからな。だから寂しくなんかない。一番は君がこうしてそばにいてくれるし。ま、野垂れ死にに比べりゃ大分マシだと思うよ。僕は幸せ者だ。こんな綺麗なベッドで死ねるんだ。ちょっと消毒くさいけどな。辛気臭い顔だなあ。言ったじゃないか、困らせたいわけじゃないんだって。笑ってくれ、いつもみたいに笑い飛ばしてくれ。だって、普通の人なら嘆き悲しむような状況で、僕は今喜ばしい気持ちでいっぱいなんだ。どうしてか君には分からない?君って本当にいいね。そろそろ呼吸も怪しくなってきた。お医者さん?来ないよ、バイタルモニタに小細工してあるから。ほら、見てくれあの隣に伸びるコード。隣の人に繋いでみた。ここの管理が杜撰で呆れるって?そんなこと言わないでくれよ、僕は最期君とふたりきりが良かったんだ。お医者さんを呼びに行くって、僕をひとりにするの?ひとりは寂しいよ、君なら分かるだろう?君が教えてくれたことだ。これが死に際の感覚か。溶けながら吸い込まれていくみたいだ。

 これなら、君に伝えられるな。ずっと好きだった。泣かないでくれよ、僕にとっちゃ喜ばしいことなんだから。

 なあ、ところで君は雲の上で夜明けを見たことがあるのか?……そうか、僕の願いも想いも一度に叶うなんて本当に幸せだ。

 良ければ明日の朝、一緒に連れて行ってくれ。

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