9とうてい信じがたいこと
会社の人間は男女間のゴシップが大好きらしい。
俺は「豪邸に住むお坊ちゃま」という身分から「二条さんに強引に迫り泣かせた男」としての身分がプラスされ、社内中に噂が広まってしまった。
上司からセクハラに関する聞き取り調査などは、行われていなかった。
しかし自分が噂の的になっていることはヒシヒシと感じていた。
「青山さん、噂は本当なんスか」
キンキン声の加賀山さんだった。
人気のない午後のカフェテリア。
俺はスマホをいじりながらカフェオレを飲んでいた。
ちょっとした休憩時間。これも会社員ならではの至福の時間だった。
「えっ、なんのこと?」
スマホから目を離さずにのんびりとした声で答える。
二条さんとのことを聞かれているのは分かっていたが、とぼけてみせた。
とぼけることで、加賀山さんが追求を諦めてくれればいいな、と願いながら。
あの地下部品倉庫で「何が起きたのか」
本当のことをみんなに説明するつもりはなかった。
なんでって?
考えてみて欲しい。
仮に「二条さんに襲われたのは俺のほうだ!」と社内でまくし立てたところで、誰が信じる?
もっとマシな言い訳を考えろって、みんな思うだろう。
唯一、いま同居生活をしているクマさんには、真実を話してみたのだが、
「たしかに、それは誰も信じないな」と言われてしまっていた。
とはいえ、クマさんは、俺の話を信じた。
「たしかに青山がそういう大胆な行動に出るって、想像できないし」
と納得していたっけ。要するに俺の人格をよく知る人なら信じてくれるのだ。
加賀山さんはノシノシと俺に近づいてきてキンキン声で言った。
「二条紗英とのことッスよ、決まっているじゃないスか」
「加賀山さん、声を落として」
俺はスマホから目を離し、加賀山さんの方に「しぃっ」と合図を送った。
考えてみれば、こうもストレートに「本当なんスか」と聞いてきたのは、加賀山さんだけだな。
「本当に本当なんスか~!」
加賀山さんは声を落としたつもりのようだが、それでやっと人並みの声量だ。
「う~ん、加賀山さんはどう思う?」
質問を質問で返してやった。このことについて、話したくなかった。
「どう思うって、青山さんが肉食系だったことが意外っすね」
「に、肉食系」
「だって、ムラムラっときちゃったんでしょう。抑えきれない欲情が溢れ出して」
肉食系かぁ。
それで済めば良いんだけど。
オフィスで、女性に対してのセクハラ行為。
上司の耳に届けばタダではすまないだろうな。
「肉食系、俺様系の青山さん、想像すると良い感じッスね。けっして悪くないと思うんスよ、壁ドンしたんスか?」
加賀山さんの興奮気味の声が近くで聞こえたが、一切無視する。
仮に上司の聞き取り調査が始まったとして、二条さんは、なんと答えるのだろう。
「俺に襲われた」と答えるのだろうか。
それとも「私が襲いました」と答えるのだろうか。
保身に走れば「俺が襲った」ことにするのだろうな。
自分が襲った、なんて恥ずかしいだろうし、今の時代「逆セクハラ」だって立派な処分の対象になる。
自分の不利になることを言うはずがない。
「もっとその時の状況を詳しく教えてほしいんスよね。壁ドンしたのか?お触りしたのか。触ったのならどこを」
加賀山さんは俺に詰め寄った。
正式な調査が始まったら、どうすべきか。
「なにかの間違いです」と言い通すしか無い?
唯一の目撃者である事務のオバちゃんは、あのときの状況を証言するだろう。
俺にとっての不利な状況を、第三者が証言する。
証拠は揃ってしまう。
それなら。
やはり最初から「俺が襲われた」のだとはっきりと言うべきかもしれない。
少しでも抵抗を見せないと、トントン拍子に「俺がやった」と結論付けられてしまう。
そうなったら最後、懲戒解雇なんかもあり得る。
この仕事は気に入っている。
辞めたくない。
父親の代から世話になっている弁護士に依頼するか?
弁護士は「困ったことがあったら必ずおっしゃってください」
と言っていた。
しかし会社と争って勝利しても、その後、会社に居続けるのは心理的に難しいだろう。
「普段、クールな青山さんがオオカミに豹変。このギャップが良いんスよね」
加賀山さんの興奮した声をBGMに、ひとり考えを巡らせていたそのとき。
「青山さ~ん、あのー、部長がお呼びです。2階のミーティングルームに来てくださいって」
そう呼ぶ声が廊下の方から聞こえてきた。
とうとう上司からお呼びがかかったのだ。
もう少し考える時間が欲しかったのだが。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます