長靴と合鍵

 

 君の方が起きるのが早いので、僕が目を覚ました時に君が隣に居ないということなんていつものことだった。でも、今日は何かがおかしい。この家は人間を一人しか抱えていないという空気が、冬の冷気に乗って僕の肌をピリピリと刺していた。生活の音がしない。僕以外の人の気配が無い。この家には今、僕しか居ない。

 半分起こしていた体を、腕を使ってを横にずらし、ベッドから脚を下ろして立ち上がった。姿勢を変えても、体を伸ばしてみても、この家の空気は変わらなかった。カーテンを開けると、雪に反射した太陽が眩しかった。空は快晴で、雲が無い分外は余計に寒そうに見えた。

 部屋から出て廊下を歩く。君の姿は無い。隣の書斎にも君の姿は無い。あるのは本と原稿用紙、万年筆と残りが半分くらいになったインクの瓶だけ。もちろん椅子には誰も座っていない。階段を降りて台所を覗く。君の姿は無い。鼓動が速くなっていくのが分かる。ソファにも君は居ない。トイレにも、流しにも、風呂場にも君は居なかった。瞬間、僕の鼓動が大きく跳ねた。玄関を見ると、君の長靴が無くなっていた。僕は急いで部屋に戻り携帯を見る。君からの連絡は何も入っていない。君に電話を掛けた。永遠にも感じられる数コールが過ぎた後、電話が切れた。僕は長靴を履いて鍵を開け、玄関から飛び出した。走り出そうとした時、足元に銀色に光る何かを見つけた。軒と雪が作った長方形のちょうど境界線のところにあったそれは、家の鍵だった。これは、君が置いていったのだろうか。

 どういうことだ。一体何が起こっているんだ。君は出ていったのか?君はもう、この家に戻ってくるつもりはないのか?僕を置いて?一人で?何故?君はどこにいったんだ。どうして、何も言わずに。

 人気の無い家、無くなった長靴、メッセージの無い携帯、軒先に置いてあった鍵。そのどれもが君がこの家から出ていったということを表象していた。君の置いていった鍵をポケットに入れて走り出した。寝巻きは冬の朝の外気を凌げるほど断熱性に優れてはいなかった。幸い、夜に雪が降ってくれたおかげで、君の足跡がくっきりと見えた。それは、神社の方へと向かっていた。


 君の足跡を追って走る。長靴を履いているので滑ることをそこまで恐れる必要は無かった。橋の方まで行くと、神社へ行く足跡と、神社の方から戻ってきて、そのまま家とは反対側に進む足跡とがあった。君がもう居ないとわかっていながら神社の方へ行く余裕など無かった。僕は、橋を渡らずに君の足跡を追って川沿いの道を走り続けた。肺が痛い。息を吸い込む度に冷たい空気が胸を刺す。走っているはずなのに体の内側から冷えてくるように感じるのは、冷たい空気を吸い込み続けている所為か、君が消えたという事実を体全体が恐れている所為か、それともその両方か。その理由も君が居なくなった理由も分からないまま走り続けていると、次第に枝道からの足跡が増えてきた。十分も走っていると、ついには君の足跡がどれだか分からなくなってしまった。雪も大分踏まれ、幾分か水っぽくなっていた。僕は走ることをやめて、そのまま川沿いの道を歩いた。肺と横っ腹が痛む。気付けば川幅はだいぶ広くなっていた。


 それからまた十分は歩いただろうか、バス停が見えてきた。確証は無いのだけれど、恐らく君はここからバスに乗ったのだろう。時刻表を見ると、丁度次のバスは三分後だった。携帯には相変わらず君からの連絡は入っていない。歩くことを止めると本格的に体が冷えてきた。後のことを考えずに家を飛び出してきた自分を、この時ばかりは少しだけ恨んだ。

 時間丁度にチェーンのカラカラとした音を鳴らしながらバスがやってきた。僕は財布を持ってきていないことを思い出し、慌てて携帯を自動精算機にかざした。乗り込むと、そこには以前見た老夫婦の女性だけが前の方に一人で座っていた。僕は一番後ろの席に座った。冬のバスの中は、春とまでは行かないが、薄着の僕でも暖かいと感じる位には暖かかった。僕は、バスの終点にある街を目指した。バスが走っている間も、君がどこかにいないかと窓から外を見渡していた。

 

 二十分程して街に着いた。バスを降りる。山の方より幾分か暖かくなってはいるが、バスの暖気から放り出されて急に寒気に曝露された僕の体は身震いをした。雪は相変わらず積もっている。

 君は、一体何処へ行ってしまったのだろうか。スーパーへ買い物に行っているだけなら良いな、と思ったが、そんな期待をするだけ無駄だと思いすぐにやめた。僕はバスのロータリーを離れ、街の中を歩き始めた。期待をすることはしなかったけれど、君が少しでも居そうな場所へと手当たり次第に向かった。スーパー、コンビニ、本屋、ファミレス、モールの中も一通り周った。君の姿はどこにも無かった。

 本当のことを言えば、随分前から諦め始めていた。今まで、君が僕に何も言わずに、連絡すら入れずに何処かへ行くということは一度も無かった。それに、軒先に置いてあった家の鍵。あの鍵の存在は、君が出ていったということが事実じゃない限り説明がつかない。

 気がつけば、僕はモールに併設されている駅の改札口まで来ていた。もう、君が何処に行ったのか検討のつかないまま、電車に乗って探しに行く気力は失くなっていた。というよりも、君が僕に何も言わずに出ていったということが、君が僕のことなんてどうでもよくなったと思っているように感じられてしまって、君に会うのが怖くなってしまった。もし、君を見つけたとして、不服そうな顔をされたら、心底迷惑そうな表情をされたら、僕はきっと一生かかっても消えない傷を心に遺すことになるだろう。僕は、様々な言い訳を心の中でしながらバスのロータリーへと歩を進めた。改札口のすぐ脇にある階段を、通勤中のサラリーマン達とすれ違いながら降りた。

 階段を降りて直ぐ右側にある掲示板の時刻表を見ると、バスは五分後に来ることになっていた。不幸な日に、似た小さな幸運が続く様はまるで、神にすらも同情されているかのようだった。

 

 バスを降り、家の方へと歩く。

 あぁ、痛い、悲しい、寂しい、寂しい、寂しい。雪の上を歩きながら、きっと僕は泣いていた。分からないことしかない。分からない。何も分かることができないんだ。

もう、君が居るどの記憶をひっぱり出しても、僕だけが幸せだったかのように錯覚してしまう。君は、ずっと道化を演じていたのではないかとさえ思ってしまう。何がいけなかったのだろうか。何が君を出ていかせてしまったのだろうか。後悔することも辛いが、何も後悔できないこともまた同じかそれ以上に辛い。

 歩くごとに川幅は狭くなっていき、足跡も減ってくる。途中、橋を渡って川を跨いだ。橋には、君の足跡しか残っていなかった。君の足跡を辿って歩く。少しでも君の何かに触れていたいが為に、君の足跡のすぐ傍を歩いた。君の足跡の横に、少しだけ大きな足跡が同じ数だけ後ろへと並んでいく。君の歩幅はこんなにも小さかったのか。いつも僕はゆっくりと歩いていたつもりだったけれど、君にとっては速かったりしたのだろうか。君の足跡を辿っても、君の考えていたことはわからなかった。何を思って最後にこの道を歩いていたのだろうか。何を思ってここから離れていったのだろうか。

 降り積もった雪に風景は飲み込まれ、音は吸収されていく。ただでさえ静かな場所が、冬になると全ての生の存在感を雪が飲み込み、そこにはただ一面の無が広がる。唯一他人の気配を発するものは、今はもうそこには居ない君が残していった足跡である。途中、歩いているのがもどかしくなって、もうどうせ君は居ないのに走り出した。

 君の足跡は、桜の木を越えて鳥居の方まで続いていた。見上げると、鳥居の上には元々の柱と同じ幅くらいの雪が積もっていた。階段を上がり、祠の前まで来た。僕は、揃えられた君の足跡の隣に並んだ。

 僕はふと思った。何故だろう。誰かの前から居なくなる決意をした人間が、何故、何のために神社に寄ったのだろう。神に何を願ったのだろうか。今更君は、神に何を願う必要があったのだろうか。

 君の足跡の隣で、僕は手を合わせた。この日から、僕の願いは変わった。


 「ただいま」と言ってもやっぱり君の返事は無かった。昨日の残り湯を温めて湯船に浸かった。手と足の先がだいぶ赤くなっていた。


 これからどう生きようか。きっと来ない君の帰りを待つ人生は、苦しいがきっと虚しくはない。何も考えずに君だけを思い続ける人生はきっと美しい。それは、隣に君が居ないことを除けば、昨日までの僕が思い描いていた人生と何ら変わりはないのだろう。これから僕は何度泣くのだろう。君の跡を見つけるたびに心が痛むのだろうか。あぁ、悲しいな。なんでだろう。僕は、君のことが大好きだったのにな。君もきっとそうだったと思っていたんだけどな。考えても考えても、頭に出てくるのは君の笑った顔ばかりだ。目を閉じて、開ければ今でもそこに居るような気がする。名前を呼べば、返事が返ってくるような気がする。


 「咲月・・・」


 こうなるとわかっていた筈なのに、どうして呼んでしまったのだろう。名前を呼んだだけなのに、堰を切ったように涙が溢れて止まらなかった。君との思い出が頭に流れ込んできて止まらなかった。桜を見上げた君、月に花火をかざす君、川を見下ろす君、雪を空へと放る君。やっぱり思い出すのは君の笑った顔ばかりだ。君のことが、僕は本当に大好きだった。君が居なくなるなんて、考えたこともなかった。

 浴槽の中で泣いたから、実際にどのくらいの涙が出たのかは分からなかった。二十分も浸かっていると流石に逆上せてきてしまったので湯船から出た。タオルで体を拭いて、ドライヤーで髪を乾かす。鏡に目をやると、そこには目を真っ赤に腫らした僕が居た。ひどい顔だ。



 

 自室に戻り、ベッドに寝そべる。

 あぁ、もうすぐ冬が終わる。君の居ない春がやってくる。僕は春に何を思うのだろうか。僕はどうやって生きているのだろうか。数週間後の自分でさえ今はもう想像がつかない。もう、君が居ない僕を思い出せない。伸ばした手の先に触れた、君の感触を思い出す。これから僕は、毎日一人で起きて、一人で朝食を摂って、一人で散歩をして、一人でバスに乗って、一人で買い物をして、一人で昼食を摂って、一人で書いたものを読んで、一人で夕食を摂って、一人で映画を見て、一人で風呂に入って、一人で寝て、一人で君を想って、一人で、一人で、


 天井を眺めながら、ぼんやりと、でも鮮明に君のことを思い浮かべる。君の居ない春を想像する。



「・・・」



 あぁ、そうだ。僕は今、夢を見ている。

 覚めても終わらない、夢を見ている。

 分かっていても、ほんの僅かな期待をせずにはいられない、そんな夢を見ている。



  僕は、少しの願いを込めながらゆっくりと目を閉じた。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る