落葉

 

 二回、ノックの音が聞こえた後、がちゃりと音を立ててドアが開いた。

 「もう十二時回ったけど、お昼ご飯食べる?」

 君が、上半身だけを部屋の中に入れて訊いてきた。

 「もうそんなに時間が経ってたのか。そうだね、食べようかな。」

 言うと、君は

 「りょーかい」

 とだけ言って階段を下って行った。

 気がつけば朝から三時間ほど書き続けていた。書いていた時間よりも思考していた時間の方が長かったようにも感じるが。

 他のことに気を取られていると、意外と空腹というものに気が付けないものなのだな。君に声を掛けられてからやっと、自分の胃が食べ物を欲していることに気が付いた。


 窓の方を見ると、遠くの方で紅く染まっている紅葉が目に入った。気が付けばもう秋になっていた。夏と秋の明確な境目は無いけれど、紅葉が色づき始めているのだからきっともう秋になっているのだろう。春も、きっと桜が咲けば春なのだろう。

 確か先週に川沿いを歩いた時にはもう紅くなった紅葉を見たような気がするから、もう今週には川の水が紅葉から色を盗んでしまうようになるのだろうか。いつだって秋は短い。夏の夜よりも、春の桜よりもそれは遥かに短いように感じる。他の季節に比べれば印象が薄いからと言われればそれはそうなのかもしれない。どうしても、秋という季節は夏と冬の緩衝地のように感じられてしまうのかもしれない。しかし、目立たないからという理由だけではどうにも納得のできない短さが秋にはある。それが一体何によるものなのかは僕には分からないし、今のところはさして知りたいとも思わない。毎年毎年、ただ「秋は短いなぁ」と思うだけである。しばらくぼうっと窓の外を眺めていた。机の紙に目を移すと、ところどころに青みがかった緑が見えた。


 ドアの向こう側から、「できたよー」という声がした。部屋を出ると、髪を一つに束ねた君は階段の真ん中あたりに居た。

 「何作ったか当ててみて」

 「お昼ご飯」

 君は心底つまらなさそうな顔をした。

 「お昼ご飯に何作ったか当ててみて!」

 僕は階段を降りながら、「パスタかな」と答えた。

 「どうしてそうやって大きなカテゴリーで攻めてこようとするのかね君は。二問とも外れてないから悔しいんだけど」

 君の前を歩いて階段を下る。

 「それで、結局何を作ったの?」

 「お昼ご飯ですけど?」

 君は勝ち誇ったように笑っていた。

 ドアを開けると、ほんの少しだけチーズの香りがした。机の方を見ると、パスタ皿が二枚置いてあった。

 「今日はカルボナーラを作ってみたの。好きだったよね?」

 「そうだね、パスタの中では結構好きな方。ありがとう。」

 「ふふふ。よく覚えてるでしょ。まぁ、とりあえず食べよっか」

 僕らは、向かい合って椅子に座った。


 「今日は何を書いてたの?」

 「新しい話の構成かな。プロットってやつ。」

 「へえー、今回はどんなお話にするの?」

 「まだ構成段階だし、かなり変わる可能性もあるんだけど、とりあえずは幸せな話にしたいなと思ってる。書いているだけで、自分まで救われてしまうようなそんな話に。別に、僕は君に救われているから、それぐらい幸せな話をってことね。」

 「分かってるよ、だって君毎日楽しそうだもん。私と居られるのが嬉しくてしょうがないんでしょ?」

 「まぁ、その通りなんだけど、そう言われると鼻につくな。」

 「まぁ私も嬉しいんだけどね。それにしても、この前は随分と不幸な話を書いていたけれど、どうして幸せな話を書こうと思ったの?」

 「うーん、特に理由は無いんだよね。ただ、なんとなく僕がそういう理不尽なほどに幸せな世界っていうものを見てみたかっただけなんだ。理不尽な不幸っていうのは現実の世界に腐るほどあるからね。」

 「まー、そうだよねー、」

 君は少しだけ悲しそうな顔をした。


 「それより、これすごく美味しいね。随分前に作ってくれた時も美味しかったけど、今日のはもっと美味しくなってる気がする」

 「本当に!それは嬉しいな。別に材料とかは変わってないんだけど、何が違うんだろう。」

 「いつもよりお腹空いてたからかな」

 「きっとそれだ」




 僕が食器を洗っていると、後ろのソファから声がした。

 「夕方ごろに買い物に行こうと思ってるんだけど、一緒に行く?」

 「いいよ。それまで部屋にいると思うから適当な時間に呼んで」

 「ん、分かった」

 ドアを開け階段を上がると、ほんの少しだけ足の裏が冷たく感じた。


 部屋に戻って椅子に座り、机の上に散らかっている紙を眺めた。書きかけては止めた、短いプロットが大量に散らばっている。言葉にはしたものの、理不尽に幸せな物語が一体どういうものなのかはまだ分からないでいた。幾度となく苦境に立たされても、最後は必ず悪に打ち勝つ正義のヒーローの物語に似たようなものか。それとも、不幸というものが一つも降りかからない物語か。はたまた、登場人物がそもそも不幸というものを知らない物語か。


 纏まらないまま宙に漂っている思考の欠片をぼうっと眺める。久しぶりに、遠く昔の、僕が今の僕になる前のことを思い出した。




 秋の夕暮れを歩いている。隣には、今とは全く異なった姿の君が居る。君は、僕に何かを話しかけている。僕が何か言うと、君は笑った。笑い方は今の君とそっくりだ。


 雪の中を歩いている。君は、酷く寒そうにしている。僕は君が転ばないように手を握って歩いている。僕らは、ちょうど今と同じくらいの歳の見た目をしている。




 僕は、それ以降の記憶を見たことがない。壮年期を迎えた僕らも、老人になった僕らも見たことがない。僕は、一体いつからこの記憶を見るようになったのだろうか。思い出せない。いつから、前世の記憶だと思うようになったのだろうか。ただ隣に居たのが君だという確証はある。証拠はどこにも無いけれど。




 ノックの音で目を覚ました。

 「ありゃ、お休み中でしたか」

 ドアから顔を覗かせて君が言った。

 「ううん、大丈夫」

 「そろそろ行こうかなと思うんだけど、休んでる?」

 「いや、行くよ。そろそろ川も染まっている頃だと思うし」

 君は、少しだけ嬉しそうな顔をした。

 「そうだね、紅葉が色づいてからだいぶ経ったもんね」

 君は、「支度できたら教えて」と言って階段を降りていった。


 下に降りると、君は机で本を読んでいた。さっきは見えなかったけれど、君の好きな秋の色をしたワンピースを着ていた。

 「おまたせ」

 「お、ちょうど良いとこだった」

 「それは良かった。」

 「じゃあ行こっか。あれ、バスの時間大丈夫かな。」

 スマホを取り出しながら言った。 

 「大丈夫そう。ゆっくり歩いてちょうど良いくらいだね」

 

 玄関を出ると、ひんやりとした空気が肌に触れた。昨日庭に出た時よりも、ほんの少しだけ気温が下がっているような気がした。

 「涼しいねー」

 「そうだね、ぎりぎり寒くないくらいの気温だね」

 「私はどの季節も綺麗だから大好きだけど、やっぱり気温は秋がいいかな。一番短いような気がするのが残念だけど。」 

 「そうだね、僕も秋の気温が好きだな。暖かいのよりも、涼しい方が気持ちが落ち着く気がする。」

 暫く歩いていると、川沿いに出た。やはり紅葉は先週よりも色付いていて、幾分か川にも色を落としている。僕が水面を眺めながら歩いていると、そっと後ろから手を握られた。


 「紅葉が水を堰き止めてる」

 見ると、川に落ちた紅葉が岩に引っかかって流れられないでいた。

 「あれはどっちかと言うと岩が紅葉を堰き止めてるんじゃないの?」

 「私には紅葉が水を堰き止めてるように見えるけどな。ほら、紅葉はそもそも流れないものだけど、水は流れるものじゃない?」

 「確かに、言われてみれば。」

 君は少しだけふふんと笑った。

 「風に吹かれて、水に流されるなんてとても気持ちよさそう。きっとこの紅葉の中には、海を見る紅葉も居るんだよね。自分の力じゃ到底辿り着かないようなところにまで運んでもらえるなんて、ここの紅葉たちは幸運だね。」

 「ははっ、確かにそうだね」

 「何笑ってんの」

 「いや、君のそういうところ、好きだなぁと思って」

 「何それ変なの」

 言いながら、君は少し笑っていた。


 僕らはそのまま歩き続け、いつもの散歩だと渡る橋を傍目にそのまま通り過ぎた。そこからまた暫く歩くと少し大きな通りに出る。その通りを少し進んだところにバス停が見えてくる。今のところ、人は誰も居なさそうだ。僕らはバス停のベンチに並んで座った。

 「やっと着いたね。」

 「そうだね、この道は川が無かったらかなり長く感じちゃいそう。私、一人の時は落ち葉と一緒に歩いてるの。たまに最後まで一緒に着いてきてくれる子がいて、そう言う時は少し感動する。」

 「そんなことしてるんだ」 

 「まあ今日はだいぶ大きな落ち葉が隣に居たから退屈しなかったけどね」

 「それ僕のことじゃないよね」

 君はまた、ふふんと笑った。


 暫くすると、一組の老夫婦がやってきた。男性の手には杖が握られていた。二人は僕らの隣に腰を掛けると、無言のままぼんやりと前を見ていた。君は、その老夫婦をじっと見つめていた。

 老夫婦が来てから三分後くらいだろうか、バスがやってきた。僕らはそれに乗り込むと、後ろの方の二人掛けの席に座った。そこから街までは約二十分程掛かる。バス停の中で、君は僕の肩に寄りかかって寝息を立てていた。バスの中には、僕らと老夫婦しか居ない。

 そのままバスは誰も乗せずに終点へと辿り着いた。「着いたよ」と言っても君は起きなかったが、頭を軽く叩いてやると起きた。君は、自分が今どこに居るのか分からないような顔をしていた。バスを降りると、君は軽く伸びをした。街の方は、僕らが暮らしているところよりも幾分か気温が高いように感じられた。


 「今日は何を買うの?」

 訊くと君は

 「卵」

 とだけ答えた。

 「え、そんだけ?」

 「うん、それだけ。さっきカルボナーラ作った時に全部使っちゃったんだよね。卵は無いと困るから」

 「何か他に一緒に買わなくてもいいの?」

 「うーん、今のところは思いつかないけど、何かあったら適当に買おうかな。君は何か買わなくていいの?」

 「いや、僕は別に君に付いてきただけだから」

 「そっかー、」

 そのまま、君は本当に卵しか買わなかった。ここまで来るバス代の方が掛かったのではないだろうか。

 「本当にそれだけで良いの?」

 「へいきへいき、買いたくなったらまた来れば良いしさ。私、あの道好きだし。」

 笑いながら君は言った。


 卵の入ったビニール袋を片手にスーパーを出ると、もう既に日が傾き始めていた。バスのロータリーへ向かう道に、先ほど行きのバスで見かけた老夫婦がいた。腰の曲がった男性の手を、女性が握っていた。君は、よっぽどその光景が綺麗に見えたのだろうか、さっきと同じようにじっと見つめていた。

 僕らはまた、老夫婦と同じバスに乗り込んだ。帰りのバスでは、どうやら僕の方が寝てしまっていたらしい。君に二回、頭を軽く叩かれて目を覚ました。見ると、バスの窓から差し込んだ夕陽が君の顔を柔らかく照らしていた。


 あぁ、もし僕の人生の、今この瞬間だけを切り取ることができたのなら、それはきっと理不尽に幸せな物語なのだろう。不幸なんてどこにも無い、そもそも知らない幸せな物語だ。小さくても、確かにここにある幸せな物語だ。


 「ん、どうしたの?ほら降りるよ」


 それから僕らは、秋の夕焼けをくぐり抜けながら家まで歩いた。




 なんてことのない、秋の一日だった。






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