作者第1話 桶川和樹(*時間前)
二千二十二年 六月一日 火曜日
桶川の生活は割と散々だった。
同年代の一人暮らしの男ならありふれた不幸を背負っていた。
専門学校を卒業してから入った一般職では六年経った今も新人と大差無い扱いをされているし、会社の体質も古く仕事もせずに居座ってきただけの団塊世代に顎で使われている。
実家に暮らす母親からは生活費が足りないだの、育ててやった恩を忘れるのか、だの勝手に産んでおいて意味の分からない理由で金をせびられる。
桶川の母はまだ五十代で働こうと思えば働ける歳だった。
しかし我の強い母はどこにいっても長続きしない。男を見つけては寄生虫のように金を吸い取り、捨てられて金に困ればすぐに息子に取り憑こうとする。
桶川は専門学校を特待生制度で卒業した。授業料等が免除になる有難い制度だ。
金銭感覚がバグった親を持つと子は苦労する。
桶川はその典型のような子供時代を過ごした。
実家は借金にまみれ高校の授業料さえバイト代でやっとこさ払える程度だった。
その未来が、これだ。
就職を機に実家からようやっと抜け出し一人暮らしを始め、なんとかネットやパソコンなどの設備も揃えた頃、桶川はネット小説の存在を知った。二十六歳の時だ。
小説家になるための投稿サイト、というふれこみのそこにはまさに多種多様な作品群があった。
まるで無限の小説専門書店に迷い込んだような感覚は、仕送りと引き換えにアパートの保証人になってもらった母親へ渡す金を稼がんとしていた桶川にはある意味救いだった。逃避を求めていたのだ。
最初はランキングの一位のものを読んだ。
ファンタジー作品だった。のちにアニメ化もされた。
面白かった。現実を忘れられた。時間が溶けるように消えていった。
出勤前に電車の中でスマホで読み、帰宅してからはパソコンで読んで、寝る前にもスマホで、風呂で、トイレで読みふけった。
次第に桶川は自分でも書いてみたくなった。元々小学生の頃から空想で話を考えるのが好きだった。
紙と鉛筆だけでこと足りるので貧乏な桶川にはもってこいの趣味だった。
桶川はためしに書いてみることにした。
最近は仕事の忙しさと母親からの無心で気力すら沸かなかったが、なぜかふと思い立ったのだ。
そして書いた。最初の一話をネットに掲載してみた。
ブックマークと呼ばれるものが一件でも入ってくれたら続きを書こう、そんな弱弱しい後ろ向きな思いでいたのに、まさかのどんでん返しが起きて、桶川は驚きと喜びで画面前で呆然とした。
ブックマーク件数、一千件。
ネット小説が隆盛期に入っていたことも原因のひとつだったのだろう。
このネットの世界で千人もの人が自分の書いた話を気に入ってくれている。
桶川にとってそれは途方もない話のように思えた。桶川は嬉しさのあまりその日一日浮かれて過ごした。
やがてブクマ、と略されるそれが一万件を越えた頃、大手出版社から書籍化の打診がきた。
噂の打診とはこれかと赤い文字を見ながら桶川は思ったものだった。
とりあえず大手なら詐欺などの心配は無いだろうと桶川は少しだけ緊張しながら返信を打った。
翌日返事が来て、担当編集者というものが付けられた。
そして桶川の小説にやや手直しをしてからイラストレーターに表紙を依頼し、本を出すのだと言う。
良い編集に当たったのか話の筋道まで直しが入る事はなかった。説明不足を補うよう言われたり矛盾点を指摘されたくらいだった。
発売日当日はそわそわして過ごした。
もちろん近くの書店を覗いて平台に並べてある新刊コーナーに自分の本を見つけた時には、店員に頼んで写真も撮らせてもらった。
そういう、今の時代ではごくありふれた作家デビューを果たしたのが桶川だった。
桶川は読書家が利用する感想サイトや電子書籍サイトのレビューを見ては、その度に一喜一憂した。
最初に出した一冊目の売れ行きが好調だったために、桶川は続刊にも恵まれた。
しかし三冊目には流石に読者にも飽きがきたのか、売り上げは下がっていった。
桶川は憔悴した。
作家デビューを機に作成したSNSアカウントでは、相互フォローしている作家仲間がどんどん新刊を出していて、読者だったはずの人が作家の仲間入りをしていた。
次第に桶川の心に新刊への焦りと売れない恐怖と、自分が世間から見捨てられるのではないかという奇妙で明確な焦燥感が染み出していった。
そんな中で桶川が救いを求めたのが、かつて見た好意的なレビューだ。
五つ星をつけてくれたその読者の名前も、書いていた言葉も、桶川は一言一句違わずに覚えていたが、それでも時々見に行っては勇気づけられ元気づけられ、苦しい日々から救ってもらっていた。
印税は実家の母の仕送りにほとんど消えていたけれど。
桶川は優しい男だった。
母親からの金の無心に嫌々でも応じていた。
親を見捨てる子供など今の時代ざらにいるというのに、桶川はそうしなかった。できない性格だった。
そんな母でも自分を生み、一応は育ててくれたのだからと見捨てきれなかったのだ。
早々に見捨てていれさえすれば、彼の人生は今よりもっと違ったものになっていたのかもしれない。
桶川は救いを求めていた。かつて名も知らぬ誰かが書いてくれた感想だけを心の拠り所としていた。
しかし、それは知っての通り無残にも打ち砕かれたのである。
「あ~ぁ……ここ、かぁ。単身者用のアパート……へえ。あぁ、一階かぁ。防犯とか、こだわんねーんだぁ。ばっかだなぁ、いやぁ、あほか。あほはおめーだろってこれだなぁ」
桶川はその夜、其処にいた。
本屋で『すずむし』を見つけた後、ずっと尾行して来たのだ。
たとえそうしなくとも住所は割れていたのだが、わざと尾けてやった。
白い明かりが点くのを確かめて、カーテンの隙間から『すずむし』がソファに座り込むのをずっと、じぃっと、其処から、見ていた。
桶川が会社を無断欠勤し始めて数日。
そろそろ実家に連絡がいき、部屋を確認されている頃だろう。
あの部屋を見た母親は、管理人は、何と言うだろうか。
まさに小説の世界だ。
できれば直に耳にして、ネタにしたい思いだった。
だがそれはかなわない。
何しろ今から自分はもっと面白い事をするのだから。
『すずむし』を見つけられたのは偶然でもなんでもなかった。今の時代なら誰でも出来る事だった。
桶川はファストショップで購入した黒いパーカーのポケットに片手を突っ込み、自分の得物を確かめながらここに至るまでの道程を反芻した。
六月の夜空には薄い天の川が伸びている。
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